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家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」 [映画時評]

家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」


 最近の日本映画に「家族」をテーマにした作品が多いのはなぜだろう。この「淵に立つ」もそうだが、近く封切られる「永い言い訳」もおそらくそうだろう。最近見た「オーバーフェンス」も、妻に愛想をつかされた男が主人公だった。少し前には「そして父になる」もあった。いずれも平凡な家庭の崩壊、もしくはその瀬戸際に立つ者たちの物語である。

 もちろん、それらをひとくくりにして語るのは乱暴だろう。「永い言い訳」は夫婦間の話であり、「オーバーフェンス」は妻に去られた男が、それでも一筋の光明を見出して社会に一歩を踏み出す。「そして父になる」は、血の継承こそが成立の基盤であると思われていた親子のありように一石を投じた。

 「血の継承」という表現を使ったが、もともと日本人には戦前からの家父長的家族意識が強かったと思われる。天皇制につながる家父長制は戦後、徹底的に批判され表向きはなくなったかに見えるが、実は伏流水としてさまざまな形で生き伸びてきた。例えば日本独自の会社組織も、底流には、戦後社会で表向き批判されたはずの家族意識が連綿としてある。

 しかし、高度経済成長から大衆消費社会、その極限ともいえるコンビニ社会の出現に至って、個食=大衆の原子化(こんな表現をだれか使っていた。丸山真男だったか)の時代に立ち至り、家族の崩壊が避けられない流れになりつつある。

 元々、「家族の崩壊」をメーンテーマに据えたのは小津安二郎だった。しかし、小津の場合はモダニズムと新中流家庭が舞台設定としてあり、見るものに多少の余裕を与えていた。しかし、最近の家族崩壊ドラマにはそんなものはなく、切迫感が漂う。

 さて、「淵に立つ」である。

 金属加工業を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と妻・章江(筒井真理子)には10歳の娘・蛍(篠川桃音)がいる。中流のごく平凡な家庭である。そこに、刑務所を出たばかりの八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。利雄は彼を雇い、妻に独断で部屋まで与える。どうやら、二人だけの秘密がありそうだ。一緒に暮らすうち、草太郎は人を殺した過去があることが分かる。そして、草太郎はこの家族に癒えることのない傷を残して姿を消す…。

 8年が過ぎる。利雄はある秘密を抱えたまま、興信所を使って草太郎の行方を追う。そこに、一人の若者が工場で雇ってほしいと訪ねてくる。そのうち、若者・山上孝司(太賀)と草太郎は一本の線でつながっていることが分かり、利雄・章江夫婦に精神の崩壊の危機が訪れる。

 利雄と草太郎の間に何があったか、草太郎は失跡する直前、蛍に何をしたのか、印象派の絵画でも見るように、それらの「具象」は見事に消されている。ただ、登場人物の心の闇と不安と戦慄がスクリーンに展開される。

 小津は家族の崩壊を一種の諦念を漂わせて描写したが、深田晃司監督は正反対の粘っこい視線で人間の心理を浮き上がらせる。そして、浅野忠信と筒井真理子の怪演が深田の演出にこたえている。

 あらためて言えば、こんな「家族ドラマ」は、外国映画にはない日本独自のジャンルのように思う。米欧では「男と女」の物語であったり、世界史の中で翻弄される家族の物語であったりする。多少の例外はあるにしても、こんな形で「家族意識」の内部に立ち入ることはないのではないか。私小説的家族映画、そんな呼び方をすればいいのだろうか。


淵に立つ.jpg


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