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ただの日常が、しがらみに変わるとき~映画「二重生活」 [映画時評]

ただの日常が、しがらみに変わるとき~映画「二重生活」


 大学院生の白石珠(門脇麦)が、教授・篠原博(リリー・フランキー)の指導に従って修士論文を書くため「理由なき尾行」を行う。選んだ対象は、まったく必然のない隣家の男、石坂志郎(長谷川博己)。出版社に勤め、美人の妻と子供が一人いる。平凡に見えた男の「生態」を探るうち、その存在の被膜とはかけ離れた姿が見え始める。

 尾行は、人間の存在の根源を突き止めるためのものだった。しかし、そんな哲学的理由をよそに、珠はどんどん、尾行の後ろめたくもスリリングな魅力にはまってしまう。平凡な暮らしをする一人の男が抱える内面の修羅場。どこか浮世離れした教授が人知れず抱える悩み。そんな中で珠は同棲相手の鈴木卓也(菅田将暉)ともぎくしゃくし始める。

 ただ流されていれば何とも感じない日常が、他人の深淵をのぞき込むという行為によってどうしようもないしがらみを心の中に呼び起こす。とても不思議な映画である。りりー・フランキーは相変わらずうまい。監督・岸善幸。

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母と子の変わらぬ想い~映画「山河ノスタルジア」 [映画時評]

母と子の変わらぬ想い~映画「山河ノスタルジア」

 

 四つの事件をオムニバス風に描いた「罪の手ざわり」のジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督による新作。主要な舞台を、監督の生まれ故郷である山西省の汾陽に設定したことからもわかるように、監督自身の故郷への思いが、全編の色調に込められている。昨年11月のインタビューで監督が作品を振り返り、母から鍵を渡されたエピソードに触れているが、ここには長い漂泊の末になお断ちがたい故郷と肉親への思いがひそめられている。このエピソードはそのまま、映画の中でも使われている。

 1999年。汾陽で小学校教師として働くタオ(趙濤)は幼馴染のリャンズー(梁景東)とジンシェン(張譚)の二人から思いを寄せられる。結局、実業家の道を歩み始めたジンシェンとの結婚を選び、炭鉱労働者だったリャンズーは故郷を捨てる。しかし、貧困の中で病を得てリャンズーは舞い戻る。

 2014年。タオはジンシェンと離婚、息子のダオラーとも別れ、汾陽で一人暮らす。タオは父の葬儀でダオラーを呼び戻し、ジンシェンとともにオーストラリアで暮らすことを知る。

 2025年。オーストラリアで父と暮らすダオラーは、心のどこかで母の記憶を探り始める。そして、父とも離別する。

 故郷への思いを募らせるダオラーに、中国語教師のミアは「時間がすべてを変えるわけじゃない」という。壮大な叙事詩の中で、監督が言いたかったのはこのことであろう。変わるものもあれば変わらぬものもある。それを信じればこそ、人は生きていける。母は、きっと中国の片隅で、私の帰郷を待っていてくれる…。

 「罪の手ざわり」の、暴力的なまでの切れ味のよさはここにはない。そのかわり、夕暮れどきのような甘い時間の流れがある。ラストの、タオの表情がとてもいい。

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テレビ初期の苦闘と志~映画「アイヒマン・ショー」 [映画時評]

テレビ初期の苦闘と志~映画「アイヒマン・ショー」


 タバコ会社の宣伝のため買収されたCBSラジオがニュース報道に乗り出したきっかけは、第2次大戦のときヨーロッパ総局長だったエド・マロ―がナチスのオーストリア併合やロンドン空襲のもようを迫真的に伝えたためだったとされる。ラジオがライブ放送に初めて使われた。当時、ニューメディアであったラジオを宣伝工作に使い、政権を握ったといわれるナチスに対抗して米国がラジオの可能性を切り開いた瞬間だった。
 輝かしい成果を上げて帰国したエド・マロ―をホワイトハウスの主フランクリン・ルーズベルトが招待、ヨーッロッパ戦線の情報を仕入れようとしたところ、ある事件のため延期されたというエピソードが、D・ハルバースタム「メディアの権力」で紹介されている。「事件」とは、日本軍による真珠湾攻撃のことである。
 それから20年後、イスラエル情報機関モサドによってアルゼンチンで逮捕されたアドルフ・アイヒマンの裁判がエルサレムで開かれる。この時、ラジオではなくテレビが「ニューメディア」であった。この情報ツールをどうニュース報道に生かすかが問われた。
 先に公開された「顔のないヒトラーたち」(2014年、ドイツ)は、19581963年のフランクフルトを舞台に、当時ほとんど知られていなかったアウシュビッツの犯罪を法廷で問うた若い検事の悪戦苦闘を描いた。ドイツ国内でさえそんな状況だった。世界でどれほどアウシュビッツが知られていたか。
 米テレビプロデューサーのミルトン・フルックマン(マーティン・フリーマン)は、アイヒマン裁判の全世界への中継を企てる。監督には、当時マッカーシズムの標的とされていたドキュメンタリー監督レオ・フルビッツ(アンソニー・ラパリア)を起用する。法廷内のカメラ配置など障害を克服し、テレビ中継は現実のものとなるが、一つの問題が生じる。アイヒマンをどう撮るか、二人の決定的な違いである。フルックマンは法廷の模様とともにナチのホロコーストの全容を伝えようと主張するが、フルビッツはアイヒマンという「人間」に迫ろうとする…。
 フルビッツのとらえ方は、ハンナ・アーレントが「イェルサレムのアイヒマン」で明らかにした「凡庸な悪」というアイヒマン観に近い。決してモンスターではなく、どこにでもいる人間である。彼を、これだけの犯罪に駆り立てたものは何か。フルックマンはそうした信念に基づき、来る日も来る日もアイヒマンの表情を狙うが、無表情のまま罪状を否定し続ける。そこにアイヒマンの心の闇の深さを感じ焦り始める…。
 4カ月に及ぶ公判の映像は37カ国に送られ、世界的な反響を呼ぶ。テレビ初期の報道に携わった人たちの苦闘と志が伝わる一編である。一方でこの映画にもろ手を挙げて賛成しがたいのは、かつてナチが映画やラジオを宣伝工作に利用したのと同様に、イスラエルもまたテレビを政治宣伝に利用したのではないかという一抹の懸念が残るためである。各所にユダヤ人虐殺の実写フィルムが挿入されているが、あらためてその凄まじさに息をのむ。2015年、イギリス。

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