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戦争の愚かさを描く~映画「緑はよみがえる」 [映画時評]

戦争の愚かさを描く~映画「緑はよみがえる」


 第一次大戦の1917年、北イタリア山中。オーストリア軍との激戦が続く。雪に閉じ込められた塹壕で、イタリア軍兵士たちは遠く近く、絶え間のない砲撃の音におびえる。

 いわゆる戦争映画ではない。「兵士の死」はあるが、そこへつながる「戦闘」は描かれることはない。映像化されたのは戦場の日常であり、兵士の恐怖に満ちた顔つきである。その意味では、これは「戦場映画」と呼ぶことができる。

 1時間17分。最近の映画では短い部類に入る。しかし、緊迫感は並ではない。

 エルマンノ・オルミ監督が、戦場に送られた父の体験と思いを映画化したと伝わる。最後に「緑はよみがえる。そしてここで起こったこと、耐え忍んだことはどこにも残らない」とのメッセージが流れる。自然の悠久と美しさに比べ、人間が引き起こす戦争のなんと愚かなことか。彩度を抑えた映像が、その意味と重さを引き立たせる。第一次大戦開戦から100年の2014年に作られた。

緑は蘇る.jpg

対米追従をどう転換させるか~濫読日記 [濫読日記]

対米追従をどう転換させるか~濫読日記


「戦後政治を終わらせる 永続敗戦のその先へ」(白井聡著)

戦後政治を終わらせる.jpg 緊張感なき参院選は与党の大勝に終わった。しかし、自民党にとって見れば、単純に喜べない不気味な予兆が裏側に潜む。この国の矛盾がマグマのようにたまった沖縄と福島(すなわち政治的辺境の地)では、ともに現職閣僚が落選し、TPPへの怒りが渦巻く東北では、秋田を除いていずれも野党が一人区を制した。
 原発、基地、TPP。この政策的矛盾はどこから来るか。キーワードは米国に対する盲目的服従である。表面的には平穏に見える日本の政治状況は、対米追随に対する怒りのマグマを抱え込んでいる。この政治は転換可能なのか。
 この問いの答えを示唆するのが、この一冊である。
 白井は「永続敗戦論」で戦後日本の政治状況を総括し「敗戦の否認」と「対米追従」という二律背反的なテーゼをひき出した。そこから見える日本の基本的な構図は、冷戦下の軽武装と経済優先主義による経済大国への邁進であった。そのことを可能にしたのは、日米安保体制である。
 しかし、冷戦は25年も前に終わった。
 にもかかわらず、日米安保体制を基軸にした対米追従路線はいまだに続く。なぜか。どうすれば、そこから抜け出せるのか。
 白井はまず、あの戦争が一億総ざんげ=一億総被害者として語られることで、加害と被害の両面を見るという作業がおろそかにされ、結果として加害と被害の問題は一部の知識人を例外として歴史意識の中に定着することはなかったとした。日本は「経済大国」へ突き進み、逆にいえば経済大国としての成功が「敗戦の否認」という歴史意識を可能にしたという。こうして日本は、アジア諸国に対しては「敗戦」の事実を曖昧化し、米国に対しては「敗戦」を無制限に認めることで対米従属を強めた。
 そのうえで白井は対米従属の構造は三時代に区分できるという。すなわち、占領期から60年安保ごろまでの「確立の時代」、冷戦終結までの「安定の時代」、そして冷戦後の「自己目的化の時代」。第一、第二の時代には、対米従属は少なくとも「手段」であったが、いまや「目的」と化すという「摩訶不思議」なことが起きているという。
 では、対米従属からどのように脱却するのか。著者は経済的側面と軍事的側面の二つを挙げる。経済から見た最近の米国の理不尽な対日要求の最たるものはTPPであろう。著者は触れてはいないが、日米原子力協定もこのカテゴリーに入るのではないか。
 軍事的側面とはもちろん、日米安保協定であり基地の存在である。ここで対米従属を変えるには、日米安保体制を変えるしかない。大国・米国の凋落が明らかな今、これは当然検討されるべきことだが、現下の日本でそれが語られているとは思えない。しかし、これは不可避の課題であろう。では、対米従属ではない安保体制とはいかなるものか。
 60年安保では、日本への防衛義務(かなり曖昧な形ではあるが)を加える代わりに極東条項が付加された。しかし、今その対象(=仮想敵)となるソ連は存在しない。では、米軍は何のために日本に駐留するのか。ここから、日米安保の転換点は見えてくる。白井はここで、かつて鳩山由紀夫や小沢一郎が唱えた有事駐留論を「的確」と評価する。
 いずれにしても、日本の今後を考えるうえでこのポイントは外せない。しかし、白井が言う通り「あれほど無責任な戦争をやっておいて、何の総括もしていない指導層に系譜的に連なる支配者が安全保障について語ったところで、まったくリアリティーが欠けている」のも事実である。その結果、国民には、安保問題に対する忌避反応が本能的にしみついている。だとすれば、戦争の総括からきちんと始めなければならない。安倍首相の言う「戦後レジーム」ではなく、まっとうな意味での「戦後レジーム」から脱するために。


NHK出版新書、820円(税別)。初版第1刷は2016410日。著者は1977年、東京生まれ。社会思想、政治学。京都精華大人文学部専任教員。著書に「永続敗戦論―戦後日本の核心」など。


戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ (NHK出版新書 485)

戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ (NHK出版新書 485)

  • 作者: 白井 聡
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2016/04/11
  • メディア: 新書

「核」が招いた人権侵害の戦後史~濫読日記 [濫読日記]

「核」が招いた人権侵害の戦後史~濫読日記


「核の戦後史」(木村朗+高橋博子著)

6-29-2016_001.JPG 5月27日、オバマ米大統領が広島を訪れて17分間の「所感」を発表した。「71年前、空から死が降ってきて世界は一変した」と語り始め、メディアはこぞって絶賛した。オバマスピーチはそれほどのものだったのだろうか。その疑問は後日、このブログで触れるとして、この機会に核を基軸とした日米の戦後史に思いをはせることは意義あることであろう。
 そのための一冊として推奨するのが、この「核の戦後史」である。全体は2部に分かれ、第1部は木村朗・鹿児島大教授、第2部は高橋博子・明治学院大国際平和研研究員が受け持つ。第1部は原爆投下から終戦に至る経緯、第2部は戦後の日米「核体制」ともいうべきものの形成過程を記述した。Q&Aの形をとり、極めて理解しやすい。同時に、これまであやふやなまま歴史的事実として語られてきたさまざまな言説を批判、修正を加えている。
 米国では今なお、原爆投下によって日米数百万の人命が救われたとする「原爆投下正当化論」が半数を超すという。木村教授はこれに対して丹念に事実を積み重ね、嘘を暴き出す。原爆投下はまず、人類史上最強の兵器が開発されたことに対して「人体実験」の欲望が根底にあったこと、戦後の米ソ2強体制をにらみ、ヘゲモニー確立を狙ったことなどがあげられる。そのうえで、日本に降伏を迫るポツダム宣言は、正式な外交チャンネルでなく短波放送で伝達されたこと、文書にソ連の署名がなかったこと、天皇制容認条項が削除されたことなどを挙げ、日本の降伏先延ばしのための政治的思惑が働いていたことを明かしている。
 それはなぜか。もちろん、原爆投下の可能性を引き出すためである。日本の降伏のために原爆を使うのであれば事前警告もあり得たし、威嚇のための核実験もあったはずである。しかし、そうした配慮はないまま原爆は投下された。ポツダム宣言が出る1日前(7月25日)に出された原爆投下命令書(この事実からも、降伏を促すための原爆投下ではなかったことが分かる)によると、作戦は日本が降伏するまで続けられる予定で、すでに3発目を東京に落とす準備が進められていたという。
 米国の行為は「戦争を終わらせるため」などという美名のもとで語られてはならない。
 福島原発事故では広島、長崎の経験がほとんど役に立たないことが明らかになった。特に、放射線の内部被曝については、その研究の集積がほとんどないことが分かっている。なぜこんなことになったか。第2部はこうした戦後史の裏面に光を当てた。
 米国は原爆投下の直後から、放射能の人体への影響を認めてこなかった。米国紙記者バーチェットが投下後も被爆者が死んでいく実態を伝えたが、即座にGHQから取材禁止命令が出された。なぜか。不要な苦痛を与える兵器と定義されれば、生物化学兵器と同様、戦争で使えなくなるからである。こうして被爆者の惨禍は闇に葬られ、日本政府も正面から抗議することをしてこなかった。ビキニ環礁の水爆実験で起きた第五福竜丸事件(1954年)でも、このことは変わることはなかった。
 こうして日本人は3度の放射線「被曝」をしながらその体験を科学的に生かすことができなかった。その事実が逆に核兵器と原発が戦略的に同根のものであることを浮かび上がらせた。歴史の皮肉であろう。「戦後再発見双書」シリーズの一冊。

 創元社刊、1500円(税別)。初版第1刷は2016年3月10日。


核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実 (「戦後再発見」双書4)

核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実 (「戦後再発見」双書4)

  • 作者: 木村 朗
  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2016/03/03
  • メディア: 単行本