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絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」 [映画時評]

絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」

 

 国内興行収入で100億円を突破、各界から絶賛されているという「君の名は。」を観た。結論を言えば、精緻で美しい絵に比べて主人公のキャラの底の浅さが目立ち、感情移入できない印象だった。

 ある田舎の少女・宮水三葉と都会の少年・立花瀧の心が、ある日以来たびたび入れ替わる。この仕掛け自体はこれまでにも使われ(大林信彦「転校生」など)、目新しいものではない。しかし、これにある宇宙規模の出来事と過去の組み換えというSF的要素を組み合わせたところに、興業的成功を生んだ要因があると思われる。

 ストーリーの骨格は一応面白く、都会と片田舎という舞台設定とその魅力を十分に引き出した絵のうまさには感心するのだが、三葉と瀧のキャラクターが貧弱で薄っぺらすぎるのだ。したがって二人の出会いと別れ、そしてまた出会いという展開に感情移入できない。この映画を見て涙したという感想を目にするが、その心理が今一つわからない。別の言い方をすれば、もともと恋愛関係にあったわけでない二人が、ある惨劇の現場でどうして「好きだ」と打ち明けてしまうのか理解に苦しむし、よみがえりのための過去の改変になぜそこまでこだわるのかも、今一つ説得力がない。例えば「くちかみ酒」を飲むと過去にさかのぼれるという仕掛けも唐突に出てくるし、そんな怪しい酒をためらいなく飲むという瀧の行為にも納得がいきかねるが、ファンタジーだからよしとするのだろうか。

 絵とストーリーが先行し、人間が貧弱というのが私の偽らざる感想である。

 そのうえでいえば、スマホによる記憶の共有と村の神事、シャープな都会のビルと村の自然という現代日本の新旧の両極ともいえる「風景」はよく描かれ、その背景にある不条理感や逃れがたい宿命との葛藤という得体のしれないものの存在をにおわせているところが、この作品の魅力といえなくもない。

 

 

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荒涼とぬくもりの3部作~映画「オーバー・フェンス」 [映画時評]

荒涼とぬくもりの3部作~映画「オーバー・フェンス」


 逆境の中での生への執着を描いた作家・佐藤泰志の原作を映画化した「函館3部作」が完成した。第1作は熊切和嘉監督の「海炭市叙景」(2010年)、第2作は呉美穂監督の「そこのみにて光輝く」(2014年)、そして第3作が山下淳弘監督の「オーバー・フェンス」(2016年)である。
 佐藤の作品を読んでいつも思い浮かべるのは、打ちっぱなしのコンクリート壁にポツンと灯る裸電球である。冷たくザラリとした荒涼の中に、かすかな希望とぬくもりが危うく佇んでいる。どの作品も、そんな味わいである。佐藤は自らが生まれ育った「函館」という地方都市にこだわりながら、若者たちの閉塞感と捨てきれぬ希望を描いた。
 函館は北海道の南端・渡島半島にある。北海道は日本列島の北の果てにあり、函館は北海道の半島のどん詰まりにある。こうしたどん詰まり感を、紀伊半島の出身者である中上健次は、次のように書く。
 ――海に腹をさらし、山に背を向けているのがその半島の生活の意味である(略)
 ――半島は爆弾でもある。
 ――ものを見る人間に、半島は本質として無政府である。
(「夢の力」講談社文芸文庫、1994年)
 中上は、彼一流の過激な言葉遣いで半島という辺境に閉塞感と解放感が入り混じる不思議な情景をみている。函館に暮らした佐藤にも、このような心象が潜んでいただろうか。
 もう一つ思うのは、地方都市が抱える古さと新しさの混在する中での、不安な心持である。「海炭市叙景」に触れて、川本三郎はこう書いている。
 ――古い町はさびれたが、新しい町はまだ育っていない。完成されていない。そこからくる不安が、人々に何かを待たせるのだろう。「海炭市」では、不安とともにあることが生きる条件になる。
(「言葉の中に風景が立ち上がる」新潮社、2006年)
 「古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず」と、人心の不安を表現した「方丈記」の一節を思わせる。この二つのうち、前者は函館の地理的特性から生まれる思想のかたち、後者は地方都市の置かれた状況から生まれる思想のかたちを表しているように思う。
 映画「海炭市叙景」(いうまでもないが、海炭市とは函館のことである)は連作18編のうち5編を取り上げ、オムニバス風に仕上げた。不況でドックを解雇された男と彼を待つ妹、都市再開発に抗う老女、妻の裏切りに心を乱す市職員…。共通項は「敗者」であるが、みんな何かを待っている。待つことで希望の輪郭を心の中に描こうとする。
 「海炭市叙景」がタイトルそのままに市井の哀歓を描いたのに比べ、「そこのみにて光輝く」は、男女の出会いを描いている。鉱山事故をきっかけに仕事をやめた達夫(綾野剛)と傷害事件で仮出所した拓児(菅田将暉)の出会い。拓児の自宅には、夜の盛り場で売春をし、暮らしを支える姉の千夏(池脇千鶴)がいた…。そこには、絶望感を抱きながらも枯れるには早い男と女が逆光に佇んでいる。
 「オーバー・フェンス」は、作家の道を一度は断念し、函館の職業訓練校に入ったころの佐藤自身の体験がベースにあるという。妻に見限られて故郷に戻り、失業保険で食いつなぎながら職業訓練校に通う白岩義男(オダギリジョー)。生きる目的を失い、惰性で過ごす日々。そんなある日、訓練校の仲間の男に誘われてキャバクラに行き、風変わりな女・田村聡(蒼井優)と出会う。なぜか、危うさを秘めた女の言動に惹かれていく。白岩は聡に、訓練校で開かれる校内対抗ソフトボール大会に来てほしいと頼む…。前2作に比べるとストーリーは重くはなく、比較的さらりとした味わいである。
 実際の佐藤は訓練校を中退したのち再び上京、「オーバー・フェンス」や「そこのみにて光輝く」を書きあげ、長期連作「海炭市叙景」を完成させる前に41歳で自死した。「海炭市叙景」は1年の四季の中で書こうとされていたと聞く。冬から始まり、早春のあたりで終わっている。芥川賞に5回ノミネートされた作家である。

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強面・有能な秘書の横顔~濫読日記 [濫読日記]

強面・有能な秘書の横顔~濫読日記


「影の権力者 内閣官房長官菅義偉」(松田賢弥著)

菅義偉.jpg 官房長官は、かつてニュースソースとして匿名で記事化するとき「政府高官」とされた。「政府首脳」に変わったのは後藤田正晴官房長官の時代である。「カミソリ」と呼ばれた元警察庁長官を官房長官に据えた中曽根康弘は「内閣の命を制するものは総理と官房長官である」といっている(「私の後藤田正晴」講談社、2007年)。

 以来、大物官房長官とされた政治家は何人かいる。記憶に残ったのは梶山静六、野中広務あたりであろうか。この書で取り上げた菅義偉は、梶山を政治の師と仰ぎ、野中を目標とした。二人に共通するのは、権力闘争を踏み越えて地歩を固めた、その生きざまにある。では、その生きざまは菅に投影されてきただろうか。

 書はまず、秋田の雪深い地に生まれた菅の若い時代をたどる。高校を出て段ボール工場に働き、苦学して法政大を卒業、一般会社に勤めた後、議員秘書から横浜市議に転身…。約束されたコースを歩む最近の政治家(安倍はその典型であるが)とは、かなり違う。このあたりは梶山の戦争体験、野中の被差別部落出身者としての生い立ちと重なるのであろうか。

 菅は69年に大学に入り、73年に卒業した。70年を境に反安保闘争、大学闘争の嵐が吹き荒れたころである。特に法政大は当時、学生運動の一つの拠点であった。その時代に菅は、学生運動に目もくれずいたことになる。当時としてはかなり特異な学生であっただろう。後に政治家を目指した理由として著者は「社会は政治が動かしているから」との菅の言葉を引用している。言い換えれば、政治家になって社会を動かしたかった、ということであろう。ここには、社会的弱者や底辺にいる人間に共感する中で社会を動かそうというのとは違った視点が見える。権力の階段を上りながら自分の目指す社会の実現を図るという志向が見える。この点で、菅の出身地・秋田の隣県である岩手を地盤とした小沢に似ていなくもない。しかし、小沢がほとんどを東京ですごし、父・佐重喜の跡を継ぎ、田中角栄の庇護のもとに政治家の階段を上ったことを考えれば、菅と小沢は対極の政治家であろう。

 菅は96年の総選挙で横浜市議から国会議員に転身、小渕派(平成研)に入る。しかし、同派で師と仰ぐ梶山は98年に派閥を出、総裁選に単独出馬。菅も梶山の後を追う。これを見て野中は「菅は絶対に許さない」といったという。後に梶山の気遣いで菅は宏池会に入るが加藤の乱に共鳴し決起、敗れた後、安倍晋三の支援に回る。田中角栄が「乱世の将」と評した梶山の行動ぶりなどから、菅は何かを学んでいるように見える。

 では、菅が目標とする野中と菅を比較すると。菅について気になるのは、沖縄に対する政治姿勢である。この点、野中が駐留軍用地特別措置法改正(1997年)に際し、担当の特別委員長として「この法律が軍靴で沖縄を踏みにじることがないように(略)皆さんにお願いしたい」と壇上で述べたような「心」は、いまのところ菅には感じられない。あるいは、辛淑玉との対談「差別と日本人」(角川書店、2009年)で見せたような保守政治家の懐の深さも感じられない。今のところは安倍首相と公明党のパイプが頼りの「強面で有能な秘書」の域を出ていないように思う。

 さて、この書の評価だが、若干360度にフィールドを広げすぎて、焦点がぼけた印象がないでもない。惜しいことだ。

(講談社α文庫、2016年、820円=税別)



影の権力者 内閣官房長官菅義偉 (講談社+α文庫)

影の権力者 内閣官房長官菅義偉 (講談社+α文庫)

  • 作者: 松田 賢弥
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/01/21
  • メディア: 文庫

報道することの明と暗~映画「ニュースの真相」 [映画時評]

報道することの明と暗~映画「ニュースの真相」


 2004年の米大統領選。ジョージ・W・ブッシュは再選を目指していた。そんな折、ベトナム戦争の兵役拒否疑惑が持ち上がる。CBSイブニングニュースのアンカー、ウオルター・クロンカイトの跡を継いだダン・ラザー(ロバートレッドフォード)はすでにテレビジャーナリズムの巨人だった。彼がやはりアンカーを務める「60ミニッツⅡ」のプロデューサー、メアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)は、4年前にもこの疑惑を追ったが、モノにできなかった。今度も取材チームを編成、疑惑解明を急ぐ。関係者が一様に口をつぐむ中、一人の男がメモのコピーを提示する。それこそ、彼女が求めていたものだった―。
 何度もコピーを重ねて不鮮明なメモは、本物なのか。放送時間ぎりぎりまで、真偽をめぐる議論が続く。そして時間切れ。ベトナム戦争の兵役を逃れ、テキサス州空軍の訓練をもサボタージュしていたというブッシュの行状が、ダン・ラザーによって語られた。「これで大統領を追いつめることができる」。スタッフはだれもがそう思った。
 しかし、放送翌日、思いもしなかったことが保守系のブロガーによって指摘された。兵役逃れの根拠としたメモは偽物だったというのだ。根拠として、1968年から1973年までのものとされたメモが、当時なかったはずの「ワード」によって打たれたものであることを挙げていた。一転、CBSは守勢に立たされ、メモが本物であることを証明しなくてはならなくなった。しかし、何度もコピーされ不鮮明なメモを本物と証明するのは極めて困難だった。
 やがてCBSは独立委員会によって結論を得ようとする。当然、メアリーも召喚される。同伴の弁護士は、けっして反論しないよう忠告する。しかし、耐えに耐えたメアリーは最後の局面で持論を全面展開する。結果としてメアリーは解雇処分になる。そして、ダン・ラザーは、この事件を最後に、CBSイブニングニュースを降りる。
 メアリーが独立委員会で行った反論が興味深い。メモが本物であることの立証責任は報道した側にある、とする委員に対して、当時の用語、勤務形態、なにより当事者がメモを残していたことを知っていること、これらは真実だとする根拠にはならないのか。かつてのペンタゴン・ペーパーズ、ディープスロートはどうだったのか―。
 ダニエル・エルズバーグによって1971年に持ち出されたベトナム政策の国防総省機密文書、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」をニューヨークタイムスが掲載、司法長官は掲載差し止めを命令した。これに対してワシントン・ポストが掲載を引き継ぐ。当時、W・ポストの編集局内ではこんな議論があったという。「報道の自由を守る唯一の方法は、報道することだ」(D・ハルバースタム「メディアの権力」)
 それが100%真実だと確信できなければ報道できないのか。報道の最前線は、常にこのことを自問自答する。ペンタゴン・ペーパーズもウォーターゲート事件(大統領の陰謀)も、アメリカジャーナリズムの輝かしい金字塔である。最近公開された「スポットライト」はカトリック教会という強大な権力に挑むジャーナリズムを描いた。
 これらに比べると、「ニュースの真相」はジャーナリズムの後退戦を描いた作品である。真実を追求する闘いには、常にこうしたリスクが伴う、ということである。なお、ブッシュ自身の兵役逃れは実際にあったのかどうか。これが問題の本筋と思われるが、このことを問う前に文書の真偽に焦点が合わされ、最も重要な問題にはフタがされてしまった。権力側によるこうした手法は、外務省機密漏えい事件と似ていなくもない。
 この映画は、ブッシュをはじめ関係者を実名で登場させ、実写フィルムも交えている。この種の映画を日本で作った場合、これほど淡々と作れるかどうか。おそらく、「この映画はフィクションです」という断り書きが最後に入るのではないか。こんなところにも、日米のギャップを感じてしまう。2015年、アメリカ・オーストラリア合作。

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