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家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」 [映画時評]

家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」


 

 妻の死に立ち会って初めて気づく日常の空洞。そこから永い再生の物語が始まる。どうやって? どこへ向かって?

 流行作家となり、テレビにも顔を出す衣笠幸夫(ペンネーム津村啓=本木雅弘)は外向きの顔とは別にコンプレックスの塊である。自己諧謔の日々の中で妻夏子(深津絵里)との生活も冷え切っていた。そんなある日、妻は親友との旅の途中、バス事故で急死する。自宅で愛人と不倫の時間を過ごしていた幸男は、妻の死に際して涙も出ない自分の姿に気づく。バス会社との交渉の中で、事故で亡くなった夏子の親友の夫・大村陽一(竹原ピストル)に出会い、ストレートな心情の吐露に心を動かされる。

 陽一はトラックの運転手。二人の子を残して数日間家を空けなければならない。途方に暮れる姿を見て、幸夫は子供たちの面倒を見ることを申し出る。なぜそう思ったかは、彼自身にも分からない。幸夫の子育てシミュレーション、もしくは家族ごっこが始まる。妻の死の瞬間、最大の裏切りを行っていたことへの贖罪なのか。心に空洞を生んでいた妻との生活の何かを埋めるためなのか。幸夫のマネジャー岸本信介(池松荘亮)は「奥さんの死できちんと泣きましたか」と問う。

 「ゆれる」以来、西川美和には注目している。小説と映像という、ほとんど交錯する部分のない表現手段を過不足なく使い分ける。才人というほかない。原作は、主要人物の一人称で記述され、その分、細かい心理描写に立ち入っている。妻の骨を拾いながら、あっけないほど冷静な自分に気づく幸夫。妻の携帯の未送信ボックスに、あるフレーズを発見して激しく動揺する幸夫。陽一の子供たちの面倒を見ながら、不思議な充足感のようなものを感じる幸夫。それは、夏子との生活の中で味わっただろうか―。

 社会的名声や経済的裏付けがあっても、家族意識は崩壊する。多くは崩壊した事実さえ気づかない。そこに、屈折のない家族像を対比させることで、意識の空洞を浮き彫りにする。そこから再生の道筋を歩む一人の人間のかたちを描き出した。そんな映画であり、小説である。翻訳家・柴田元幸は巻末の「解説」の冒頭、「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」というトルストイ「アンナ・カレーニナ」のフレーズを引用している。その通りであろう。

 16㍉フィルムを使ったという映像の「味」がいい。



「三方一両損」の時代を受け入れよう~濫読日記 [濫読日記]

「三方一両損」の時代を受け入れよう
~濫読日記


「喪失の戦後史」(平川克美著)

喪失の戦後史.jpg 著者は1950年生まれ、文筆家で事業家。ほぼ戦後をリアルタイムで生きてきたといえる。その体験を踏まえ、戦後史を振り返った。大きな特徴は、経済ではなく人口動態を指標としながら家族観の変遷を探ったところにある。著者の言葉を借りれば、人口動態から入って家族に抜ける、という手法である。ネットで行った100分講座6回分を再編成した。

 全体は5編に分けられ、前半は小津映画に見る家族の風景や占領下の家族形態を取り上げ、高度経済成長の時代へと移る。著者の見識がよく表れているのは、高度経済成長期以降、即ち1973年以降の日本に対するまなざしであろう。この時代を取り上げた「第四講 相対安定期の夢」には「『あしたのジョー』から『釣りバカ日誌』の時代へ」と副題がつく。「あしたのジョー」の連載は1973年に終わった。ジョーは米国のボクサー、ホセ・メンドーサとの闘いの最中、リング上で「燃え尽きて」しまう。このシーンに著者は、戦後、焼け跡から立ち上がり、世界、特に米国と伍するまでに経済成長した日本の姿をだぶらせる。経済成長を遂げた日本もまた、1973年に「燃え尽きた」のである。そして「釣りバカ日誌」が1979年に始まる。ヒーローの時代からアンチ・ヒーローの時代へと転換した。

 著者はここで、家族の変遷に目を向け、1世帯当たりの人数に注目する。データによると、1955年に4.97人だった家族構成は1975年に3.48人、1995年に2.85人となる。いまや、夫婦2人に子供は1人もいない。少子化、人口減少傾向は顕著である。では、どうすればこうした傾向に歯止めがかけられるか。三世代同居を増やすために補助金を出すという政策が報じられたが、著者はこれを無意味と断じる。なぜなら、こうした家族形態の変化は貧困によってではなく、歴史の進歩の過程で起きたことであり、逆流することはないという。例えば、経済政策によってではなく、婚外子を正嫡子と同等に認める(法律婚の否定)など、従来とは別の共同体形成が必要だという。

 もう一つ、社会的な変化としてコンビニの出現を上げる。1号店は1974年に豊洲にできた。以来、瞬く間に増殖して、2015年で全国5万店というデータもある。いうまでもなく、これも家族形態に大きな変化をもたらした。あるいは、家族形態が変化したためにコンビニが増えたのかもしれない。つまり、家族という共同体の中で役割分担しなくても、カネさえあれば不自由なく生活できる社会システムができた。世間はこれを「個食の時代」と称した。

 著者はさらに「長期デフレ」という経済認識にも異議を唱える。今起きていることを人口動態から見れば、縮小均衡という経過的な状態だという。経済成長につながる有効な政策が打てないから問題なのではなく、経済の縮小を前提にした方向へとかじを切れないでいることが問題なのだと著者は言う。経済成長なしの社会モデルをどう作るか。「三方一両損」の時代を受け入れるべきだというのが、著者の認識である。

(東洋経済、1500円=税別)


喪失の戦後史

喪失の戦後史

  • 作者: 平川 克美
  • 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: 単行本


安保のグローバル化に歯止めを~濫読日記 [濫読日記]

安保のグローバル化に歯止めを~濫読日記

「逆走する安倍政治 馬上の安倍、安保を走らす」(纐纈厚著)

逆走する安倍政治.jpg 安倍政権による事実上の憲法改正が進み、11月には内乱・戦闘状態の南スーダンで「駆けつけ警護解禁=自衛隊と現地兵の戦闘」が現実のものとなりつつある。ここまで来れば、憲法改正論の背景にある日米安保体制の是非自体が問われなければならない。すなわち、日米安保・核の傘への賛否こそが、日本の政治(=針路)の大枠を決めるファクターだと思うのだが、日本の政治はそこに焦点を当てきれていない。
 日米安保の現状と、よって立つところは何か、これを詳細に探ったのがこの一冊である。
 戦後、日本は日米安保という大きな選択をした。もちろん、そこには米ソ冷戦という逃れがたい国際的枠組みがあった。しかし、冷戦が終わり、日本社会は大きな地殻変動を経験する。筆者はここで、戦後日本を規定する「四重システムの相互関係」論(加藤哲郎)を引用する。①東西冷戦②日米安保③自民党④会社主義―である。ここで、冷戦の終焉は他の三つにドラスティックな変革を迫る。会社主義は少し唐突な感じもあるが、冷戦後、企業は多国籍化が進み、日本の輸出主導型の貿易構造を維持するために親米・親日政権を支えるアジア各国の軍事独裁型国家へのテコ入れが必要だったのである。筆者は坂本義和の「周辺軍国主義」や「代替軍国主義」の概念を援用してこれを説明する。こうして日米安保のグローバル化が進む。
 安保のグローバル化が「国際貢献」論や「普通の国家」論によって語られたのは記憶に新しい。背景には米軍再編がある。ポスト冷戦で米国は一国覇権主義を標榜する。そのためには日英との軍事同盟が必要だった。米側の意図に呼応する形で、日本企業の多国籍化=海外生産拠点へのシフト→海外拠点の安定化がテーマとなり、安保のグローバル化に拍車がかかったのである。こうして既存の経済権益を守るため、日本自身による軍事化が求められるようになったと筆者はいう。
 もう一つ、歴史的な流れを追えば、戦前の日本は天皇制帝国主義ともいうべき矛盾を抱えた国家だったが戦後、日米安保を選択したことにより、その国家構造を清算する機会を失った。直後に続いた高度経済成長でそれらは表面上隠されてきたが、冷戦終結と経済低成長時代に入り、その「地肌」が露呈するに至った。「その時代状況を巧く掬い取って政権を掌握したのが安倍晋三という政治家」だと筆者はみる。米側の意向だけでなく、日本側にも軍事国家への目論見があった。安保をめぐる今の日本の状況は「対米従属論」だけでは語れないのである。ここで、安倍政治には対米自立(=戦前への回帰)が見え隠れし、米側もそこに懸念と警戒心を隠さない。要は、「軍事には軍事」という即物的発想ではなく、日本自身がどんな平和の青写真を描けるかだ、と筆者は問いかける。そして、現在の政治状況を「専制的民主主義」もしくは「偏在する民主主義」だとし、自由・自治・自立の民主主義を取り戻すべきだと訴える。
(日本評論社、1700円=税別)

逆走する安倍政治

逆走する安倍政治

  • 作者: 纐纈 厚
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2016/04/22
  • メディア: 単行本



家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」 [映画時評]

家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」


 最近の日本映画に「家族」をテーマにした作品が多いのはなぜだろう。この「淵に立つ」もそうだが、近く封切られる「永い言い訳」もおそらくそうだろう。最近見た「オーバーフェンス」も、妻に愛想をつかされた男が主人公だった。少し前には「そして父になる」もあった。いずれも平凡な家庭の崩壊、もしくはその瀬戸際に立つ者たちの物語である。

 もちろん、それらをひとくくりにして語るのは乱暴だろう。「永い言い訳」は夫婦間の話であり、「オーバーフェンス」は妻に去られた男が、それでも一筋の光明を見出して社会に一歩を踏み出す。「そして父になる」は、血の継承こそが成立の基盤であると思われていた親子のありように一石を投じた。

 「血の継承」という表現を使ったが、もともと日本人には戦前からの家父長的家族意識が強かったと思われる。天皇制につながる家父長制は戦後、徹底的に批判され表向きはなくなったかに見えるが、実は伏流水としてさまざまな形で生き伸びてきた。例えば日本独自の会社組織も、底流には、戦後社会で表向き批判されたはずの家族意識が連綿としてある。

 しかし、高度経済成長から大衆消費社会、その極限ともいえるコンビニ社会の出現に至って、個食=大衆の原子化(こんな表現をだれか使っていた。丸山真男だったか)の時代に立ち至り、家族の崩壊が避けられない流れになりつつある。

 元々、「家族の崩壊」をメーンテーマに据えたのは小津安二郎だった。しかし、小津の場合はモダニズムと新中流家庭が舞台設定としてあり、見るものに多少の余裕を与えていた。しかし、最近の家族崩壊ドラマにはそんなものはなく、切迫感が漂う。

 さて、「淵に立つ」である。

 金属加工業を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と妻・章江(筒井真理子)には10歳の娘・蛍(篠川桃音)がいる。中流のごく平凡な家庭である。そこに、刑務所を出たばかりの八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。利雄は彼を雇い、妻に独断で部屋まで与える。どうやら、二人だけの秘密がありそうだ。一緒に暮らすうち、草太郎は人を殺した過去があることが分かる。そして、草太郎はこの家族に癒えることのない傷を残して姿を消す…。

 8年が過ぎる。利雄はある秘密を抱えたまま、興信所を使って草太郎の行方を追う。そこに、一人の若者が工場で雇ってほしいと訪ねてくる。そのうち、若者・山上孝司(太賀)と草太郎は一本の線でつながっていることが分かり、利雄・章江夫婦に精神の崩壊の危機が訪れる。

 利雄と草太郎の間に何があったか、草太郎は失跡する直前、蛍に何をしたのか、印象派の絵画でも見るように、それらの「具象」は見事に消されている。ただ、登場人物の心の闇と不安と戦慄がスクリーンに展開される。

 小津は家族の崩壊を一種の諦念を漂わせて描写したが、深田晃司監督は正反対の粘っこい視線で人間の心理を浮き上がらせる。そして、浅野忠信と筒井真理子の怪演が深田の演出にこたえている。

 あらためて言えば、こんな「家族ドラマ」は、外国映画にはない日本独自のジャンルのように思う。米欧では「男と女」の物語であったり、世界史の中で翻弄される家族の物語であったりする。多少の例外はあるにしても、こんな形で「家族意識」の内部に立ち入ることはないのではないか。私小説的家族映画、そんな呼び方をすればいいのだろうか。


淵に立つ.jpg


スポーツと政治」掘り下げが足りない~映画「栄光のランナー」 [映画時評]

「スポーツと政治」掘り下げが足りない


~映画「栄光のランナー」

 ヒトラーが国の威信をかけた1936年のベルリン五輪は今も史上最高の五輪だったと評価する向きもある。そのベルリン五輪に、米国の陸上選手として出場、四つの金メダルに輝いたジェシー・オーエンスのエピソードをからませたのが、この映画である。貧しい黒人家庭に生まれたオーエンス(ステファン・ジェームス)はオハイオ州立大に進学、陸上コーチのラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に才能を見出される。1930年代の初め、極端な人種政策をとるヒトラーのもとでの五輪に対してボイコットの機運が高まる。米黒人地位向上委員会からも出場ボイコットの要請があり、オーエンスは悩むが、結局は純粋に競技に没頭することを選択する―。

 米国内での貧困と差別、ヒトラー政権下での人種政策への抗議、そうした問題とスポーツとの距離をどうとるかという、本当はシリアスなテーマだが、映画ではほとんど直線的にストーリーが展開する。このへんはアメリカ映画らしく、陰影はほとんどない。だから展開が容易に推測できる。

 当時、隆盛を極めたナチスドイツの国情についても、それほど掘り下げた跡はみられない。そんな中で何人かの人間像が印象に残る。一人はベルリン五輪の記録映画「オリンピア」の監督、レニ・リーフェンシュタール。彼女はヒトラーの命で「民族の祭典」「美の祭典」の2部構成計約100分の作品を完成させ、内外で高く評価されたが、戦後はナチスのプロパガンダに加担したとして映画界から追放された。とはいっても、宣伝相ヨゼフ・ゲッペルスとの確執など、必ずしもナチの路線に同化してはいなかったと見られているが、そうした微妙な位置関係も比較的正確に表現されている。

 もう一人は後にIOC会長になるいうブランデージ。ヒトラーと手を組み、ベルリン五輪開催に向け、大きな力になったといわれている。もともとIOC役員には親ナチ的な思想の持ち主が多く、ブランデージもその一人であった。近年ではスペインのファランフェ党にいたサマランチが知られる。五輪そのものがファシズムに親和性があると見る向きもあるぐらいだ。

 しかし、こうしたエピソードはあくまでも後景にすぎない。スポーツと政治というテーマを深く掘り下げればもっと今日的な共感が得られただろうが、オーエンスの人間性にも迫れず、何分にもストーリーが単調であった。米国の田舎出の黒人青年がヒトラーの鼻を明かした、といった類の浅薄な評が横行するのも残念なことである。独仏カナダ合作。

 リーフェンシュタールの生涯を映画化すれば面白いと思うのだが…。


栄光のランナー.jpg