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他者としての「戦争」「原爆」~映画「この世界の片隅に」 [映画時評]

他者としての「戦争」「原爆」

~映画「この世界の片隅に」

 「夕凪の街 桜の国」に続くこうの史代原作の映画化である。ただし、今回は実写でなくアニメ化した。それはなぜかは、後でふれる。
 1944年、「いつもぼおっとしている」という浦野すずは、ある男性に見初められ、広島の江波から呉に嫁ぐ。戦況は緊迫し、絵が好きなすずは呉湾に浮かぶ軍艦を無心に描き、憲兵に間諜(スパイ)の疑いをかけられたりするが、優しい夫・北条周作との生活を不器用ながらも地道に築いていく。あくまでも普通の生活こそかけがえがないと思っている。しかし、呉では日に日に空襲が激しくなる。あるとき、姉の子を連れて空襲跡を歩いていたすずは、時限爆弾がセットされた不発弾に遭遇して姉の子を死なせ、自らも右手首を失う…。そして1945年8月6日。不気味な大きな雲が広島の方向から立ち上がった。直前には閃光と地鳴り。「新型爆弾らしい」という噂が駆け巡る。
 印象的なのは、「戦争」と「原爆」が「他者」もしくは「他在」のものとして描かれている点だ。爆撃機が突然焼夷弾を落とし、戦闘機が銃撃するという形で、「戦争」はいつも天災のようにやってくる。夫の周作も、軍に勤めてはいるが法務関係の仕事をしており、直接戦地へ赴くわけではない。つまり、当事者性が希薄である。何より、すずは嫁ぎ先の呉の地から、広島の原爆を「他在」のものとして見ている。
 しかし、「戦争」を他在のものとして描くには、それなりの仕掛けが必要である。呉湾に浮かぶ多くの軍艦、急降下する米軍戦闘機、山影から不気味に立ち上るきのこ雲。それを実写でスクリーンに載せるのは、かなり大掛かりな作業になる。あくまですずの心情に寄り添う形の作品にするためには、アニメが最適と判断したのではないか。
 それらを運命として受け入れる「強さ」(この表現には賛否あろうが、少なくともこの映画はそのように描く)を持つ女性としてすずを描いている。不器用な自分でも、この世界の片隅に受け入れてくれる場所があるなら、運命(すずにとって「結婚」も、選択ではなく運命であったようだ。このことは、「当時の女性がそうであった」ということなのか、「いつの時代もそうあるべきだ」と作り手が思っているのかはよく分からない)を受け入れ、優しく強く生きようとする。そういう思いを描いた映画である。
 「戦争」と「原爆」を「他者」とする視点は、被爆者である叔母の体験を後の世代の女性自身が追体験しようとする「桜の国」でも見られる(「夕凪の街」は原爆スラムに生きる被爆女性が主人公)。これは、こうの史代の基本的スタンスのように思える。広島の出身であることを意識した結果、逆にベタな(直接的な)対象への迫り方を避けたためか。それともほかの理由があるのか。聞いてみたい。しかし、少なくとも、1968年生まれで戦争体験とは全く無縁の彼女にとって、「戦争」も「原爆」も、時間軸から見れば「他在」のものであることは確かだろう。
 

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