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「いま」の時代に、どう読むべきか~映画「沈黙 SILENCE」 [映画時評]

「いま」の時代に、どう読むべきか

~映画「沈黙 SILENCE

  遠藤周作が1966年に発表した小説の映画化である。17世紀、江戸時代初期の日本。キリスト教弾圧が熾烈を極めたころ。ポルトガルのイエズス会宣教師・ロドリゴとガルペは、自らの師ともいえるフェレイラが弾圧に屈して棄教したと聞き、その事実を確かめようと日本に渡る。そして、苛烈な弾圧の中でガルペは信者たちに寄り添い、命を落とす。ロドリゴは、案内役だったキチジローの裏切りによって獄につながれる…。
 苛烈な弾圧を目撃する中で、踏み絵を踏まないとはどういうことか、神は弱者には寄り添わないのか、という「神と人間」「信仰と人間」をめぐる極めて深い問題が提示される。
 しかし、この映画は、そうした問題にとどまらないものを、我々に示している。既に棄教したフェレイラはロドリゴと再会し「この国はすべてのものを腐らせる沼だ」と述懐する場面がある。日本の思想風土は、キリスト教の本来のかたちである「唯一絶対神」を、今の時代でも認めない。すべての神を相対化する。もちろんそれは「神」に限ったことではなく、日本の思想風土はすべての外来思想を相対化する。 ここから見えてくるものは、キリスト教という外来思想(=近代)と、それを拒む反近代の構図であり、その相克の先にある思想と生活の問題、すなわち「『転向』とは何か」である。遠藤周作が、そうした問題意識の中でこの小説を書いたかどうかは寡聞にして知らないが、少なくとも1960年代という時代の中で、そうした読み解き方をされたのではないか、とは容易に推測できる(私も、そうした読み方をした記憶がある)。
 この物語は、封建的な江戸時代にこんなことがあったね、というだけでなく、現代においてどういう意味を持つのか、という読み方をすべきだろう。多少青臭い表現をすれば、「イデー(理念)」と「現実」の落差をどう受け止めるのか、信仰という理念に生きることは美しいかもしれないが、ではそこで弱者はどう生きるのか、という大テーマが背後に横たわっている。マーティン・スコセッシ監督が「いま」という時代に、この「沈黙」の映画化にこだわった理由も、そこにあるのではないか。


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戦後第2世代に期待する~濫読日記 [濫読日記]

戦後第2世代に期待する~濫読日記


「『戦後』はいかに語られるか」(成田龍一著) 

「戦後」はいかに語られるかmono.JPG 成田には、「戦後」を分析した著書として「『戦争体験』の戦後史」がある。刊行は2010年。しかし、直後に「戦後」を語るうえで欠かせない出来事が起きた。東日本大震災と福島原発事故、いわゆる「3.11」である。「3.11」は日本の戦後史の解釈を変える、決定的な何かを(成田の用語によれば)「またぎこして」しまった。それゆえにこの出来事は日本人にある種の「不安な予感」をもたらし、それが安倍晋三政権の実現に結び付いたといえる。そこで安倍政権は「戦後」の見直しに取り組んだ(いわゆる「戦後レジームからの脱却」)が、それは「戦後」を歴史的にきちんと位置付けたうえで「ポスト戦後」へ向かうという手順ではなく、「戦後」の無化と否定であった。そこで、戦後を文脈化し歴史化する作業が必要ではないか、というのが、成田のモチベーションであったようだ。
 そのうえで、前著と比べた場合、大きな違いは、戦争体験者を祖父母に持つ、いわゆる戦後第2世代の台頭に言及している点である。ちなみにいえば、戦争体験をめぐっては、①戦前世代②戦中世代③少国民世代④戦後第1世代⑤戦後第2世代―という世代区分がなされている。戦争体験者は1930年代まで、戦後第1、第2世代の分かれ目は1970年ごろである。つまり、このところ、1970年ごろ以降に生まれた世代が、その前の世代とは違った発想や思想でモノを言い始めたことに、成田は注目している 例えばそれは、映画では「野火」をリメークした塚本晋也であり、政治学者では「永続敗戦論」の白井聡である。あるいは「誰も戦争を教えてくれなかった」の社会学者、古市憲寿も入るだろう。「東京プリズン」の赤坂真理は、1960年代の生まれだが、いわゆる戦後思想の枠組みから自由であるという点において、このグループにいれていいかもしれない。
 あえて彼ら、彼女らの共通点を探せば、必要に迫られたかどうかは別にして、戦争を学びなおそうとする体験を持ったことである。そのうえで、自由なアプローチを重ねながらあるときは違和感、矛盾を感じ、共感もする。そこが、「悔恨共同体」の呪縛の中で戦後思想=平和思想とアプリオリに設定してきた戦前、戦中、少国民、戦後第1世代とは決定的に違っている。
 こうした思想の地平を見ながら、では「戦後(思想)」を保守すれば「平和」は保てるのか、という問いを立てなければならない。確かに、戦後思想にはぶ厚い地層が秘められている。だが、成田も指摘するように、オバマ大統領の広島訪問は「アメリカの原爆投下に対し、『謝罪』を要求すらしない日本政府とメディアの姿勢によって、日米同盟という名のもとの従属関係を明らかにしたこと」であり、「『歴史』が〈いま〉を浮かび上がらせた一瞬」でもあった。言い換えれば「戦争」「原爆」を「歴史認識」として思想的に位置づけられない〈戦後〉が明るみに出た瞬間であった。もはや「戦後」は行きつくところまで行きついた。戦後第1世代としては、成田が引く「未来の他者との対話」(大澤正幸)を、「悔恨共同体」に縛られない戦後第2世代以降の人たちが重ねてくれることを祈らねばならない。(河出書房新社、1400円=税別)

「戦後」はいかに語られるか (河出ブックス)

「戦後」はいかに語られるか (河出ブックス)

  • 作者: 成田 龍一
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2016/10/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


描かれたのはスペインそのもの~濫読日記 [濫読日記]

描かれたのはスペインそのもの~濫読日記


「さもなくば喪服を 闘牛士エル・コルドベスの肖像」
 
さもなくば喪服を.jpg その日は雨だった。砂の足元は滑りやすい。下手をすれば死人が出る。興行主は中止すべきかどうか、迷った。だが、男は平然と出ていった。闘牛場の中央へ。
 1964年5月20日。28歳でスペイン闘牛界の頂点に立つ男、エル・コルドベス(コルドバの男)ことマヌエル・ベニテスは、左目が見えずインプルシボ(癇癪もち)と呼ばれる牡牛と壮絶な死闘を繰り広げた。テレビ中継され、国民は熱狂した。スペインの社会活動は停止状態に陥ったといわれる。そして、エル・コルドベスを中心にしたこのころのスペイン闘牛界は「狂った1960年代」と呼ばれた。
 スペイン内戦が始まった1936年、アンダルシアの寒村で生まれた男はなぜ、闘牛士をめざしたのか。街頭での素人闘牛にのめりこんだ少年時代。勇気と野心だけでフランコ体制下のスペインをのし上がった男の内面とともに、スペインそのものを描き切ったノンフィクションである。関係者の証言を重ねる中で生まれる緊迫感。奇跡の書といってもいい。
 「泣かないでおくれ。今夜は家を買ってあげるよ。さもなくば喪服をね」。初めて闘牛場に立つ日、飢餓に苦しむ若者は、こう姉に告げた。この言葉がタイトルになっている。著者のラリー・コリンズ、ドミニク・ラピエールは「パリは燃えているか」のコンビでもある。

 (早川書房、2005年、2600円=税別)


さもなくば喪服を (ハヤカワ・ノンフィクション・マスターピース)

さもなくば喪服を (ハヤカワ・ノンフィクション・マスターピース)

  • 作者: ドミニク・ラピエール
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2005/06/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)