So-net無料ブログ作成

薫り高く精緻な世界~濫読日記 [濫読日記]

薫り高く精緻な世界~濫読日記

 

「地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録」(ジョン・ル・カレ著)

 

 出世作「寒い国から帰ってきたスパイ」以来、「スマイリー」三部作や「リトル・ドラマー・ガール」、最近では「誰よりも狙われた男」で注目されるジョン・ル・カレ。1931年生まれだから、既に80代の後半である。老境のカレが過去を振り返り、いくつかのエピソードをまとめた。

 タイトルからしてミステリアスである。自身のスパイミステリー並みにさぞやなぞ解きの仕掛けが凝らされているかと思えば、意外にも「序」の部分で解題がなされていた。ショットガンを楽しむ人たちのための仕掛けに由来するという。しかし、末尾には謎が込められた1行。「一筋縄ではいかない」という思いが立ち上る。

 作品にまつわる裏話、人生の一コマの回想、MI5、MI6とのかかわり、詐欺師だった父親のこと…。そして、作品の映画化の中で見たリチャード・バートンやアレック・ギネスの横顔。すべてが具体的なシーンのつながりの中で語られている。それらをレビューすることは、意味のないことだろう。なぜなら、ここに収められた数々のエピソードこそ、自身による人生のレビューだからだ。それを、拙い我が筆で繰り返すことにどんな意味があるだろう。

 ただ、ここでは、次の一文を紹介しておこう。

 ――本書に記すのは記憶に基づく真実だ。(略)作家にとって事実とは原材料であり、親方ではなく、彼の使う道具を指す。(略)もし本物の真実というものがあるとすれば、それは事実の中にではなく、物事の機微の中にある。かつて純粋な記憶などというものが存在しただろうか。(略)純粋な記憶というのは濡れた石鹸のようにつかみどころがない。少なくとも、生涯を通じて経験と想像を混ぜ合わせてきた私にとっては、そうだ。

 詐欺師の父親のことを回想した章では、こう書く。

 ――(自叙伝を書くために雇った探偵に)私は嘘つきだとも説明した。生来嘘つきで、嘘をつくようにしつけられ、嘘で生計を立てる業界で訓練され、小説家として嘘の中で生きている。フィクション作家になって何種類もの自己を作り出した。それらは実在するとしても、決して本物ではない。

 カレによるカレの世界がここにある。

 上質のスコッチのように薫り高く精緻な世界がここにある。

 早川書房、2500円=税別。

地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録

地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録

  • 作者: ジョン・ル・カレ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2017/03/09
  • メディア: 単行本

 


無人兵器の非倫理性を問う~映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」 [映画時評]

無人兵器の非倫理性を問う~
映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」

 

 米国は、かつてのように圧倒的な軍事力で世界を制圧できなくなっている。特に、米ソ冷戦が終結しテロリスト勢力との非対称戦を迫られるようになってその傾向が強まった。そのため、無人攻撃機を多用しようという機運が高まっている。しかし、こうした軍事戦術には批判も多い。自身を安全地帯に置きながら機械(ロボット)によって敵を殺害することの非倫理性【注】。そして、誤爆によって一般市民を巻き込み犠牲にするケースが避けられないことなどによる。しかし、無人攻撃機による戦争は確実に広がりを見せている。

 こうした現代の戦争を描いたのが「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」である。舞台はアフリカ、ケニアのナイロビ。しかし、指揮を執る人間はそこにはいない。「現場」があるだけだ。ロンドンと米ネヴァダに映し出されるモニターを確認しながら命令と実行が行われる。

 ナイロビの一角にソマリアから流れてきたイスラム過激派アル・シャバブが潜むことを突き止めた英軍諜報機関のキャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)は、フランク・ベンソン国防相(アラン・リックマン)とともに、上空6000㍍にいる米無人攻撃機を使って米英統合による捕獲作戦を遂行しようとする。ところが、攻撃目標の近くにパンを売る現地の少女がいることが分かる。さらに、標的の家屋内では若者二人による自爆テロの準備が進められていることが判明する。

 無人兵器による攻撃を猶予すれば、自爆テロは実行されるだろう。その結果、80人もの犠牲者が出ることが予測された。しかし、そのために少女を見殺しにできるのか。攻撃を延ばせば、準備の確証をつかみながら、自爆を阻止できなかったと世界は非難するだろう。ミサイル攻撃によって少女を殺せば、やはり世界は非難するだろう。特に、テロリストたちには格好の宣伝材料になるだろう…。

 最後にはテロリストも殺害し少女も救われた、などというハッピーエンドの甘いお話ではない。戦争とは何か、戦争が根源的に持つ非人間性、そしてそれを増幅させる無人攻撃機の存在。「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」と並ぶ、現代の戦争を告発した秀作だ。2015年、英国製作。

 

【注】世界史を見ると、戦争は第一次大戦直後を除いて違法化されていない。これは、対話による問題解決が困難になった場合に限り、敵対する関係国が兵を出し合って暴力的に戦い、その結果をもってどちらが服従するか結論を得る「決闘の論理」に依拠しているためと思われる。その場合、兵士は制服によって所属国を明確にする必要があり、原則として市民を巻き込まないことが求められる。しかし、ゲリラによる非対称戦が「普通の戦争」になった現在、こうした思想は崩れつつある。その場合、それでも戦争を人間でなく機械に代用させることは倫理的な問題にならないのか。これは現代の戦争の是非をめぐる大きな命題と思われる。

空の目.jpg

 


広島と沖縄 死者との対話 A・ビナード×三上智恵㊦ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話

A・ビナード×三上智恵㊦

 

沖縄の人たちを二度殺すのか

 

 三)戦争で沖縄は防波堤にされた。捨て石で時間稼ぎだったが、本当は防波堤にすらならなかった。沖縄戦は無駄死にだった。20万人が地獄のような2カ月間を体験する中で日本国の指導者たちが少しでもいい和解を引き出すことができたかかといえば、何もできなかった。それどころか、沖縄の島々にたくさんの日本軍を配置して沖縄の若者も使ってたくさんの滑走路を造ったが、その滑走路は米軍によって使われた。長崎に原爆を落とされた帰りに沖縄の基地が使えていなかったら長崎の原爆はなかったという人もいるくらいだ。

 ビ)燃料がなくなるから。

 三)だからすごいバッドアイデアだった。沖縄を防波堤にして日本が助かるというのは。その検証をちゃんとしないで、なんとなく中国が怖いから先島に自衛隊とかがいたほうがいい、という。でも、それは戦争で死んだ人たちを二度殺すことだ。なんで日本人が20万人も沖縄でむごたらしい死に方をしたか。この作戦は大失敗だった。沖縄守備の第32軍は見捨てられた軍隊で、住民もろとも死ぬしかなかった。でもあの作戦で誰も助からなかったとみんな知っていて、同じ過ちを死んでも繰り返さないということのために彼らの命と経験が使われたら、それは本当の意味で犬死にしないことだと思う。20年間、沖縄の放送局にいて、6月が来るたびに何か戦争の企画をといって、戦争は悲惨だったという企画を安易に出してきた。でも戦争がどんなに悲惨だったかは分かっている。なんで止められなかったかをやらないと。1945年がどんなに大変だったかをいくらやっても、今は平和でよかったみたいなつまらない感想しか出てこない。1944年に沖縄の人たちは何をしていたんですかということを問わないと。44年の夏に日本軍がたくさん入ってきた。「連戦連勝」の日本軍が。大嘘だけど。これでこの島は安心だ、守ってもらえると思ったら数カ月後には戦場のど真ん中になった。「ざわわ」って曲は、私はあまり好きではないが、ある日海の向こうからいくさがやってきたって、そんなことを歌っているから、次の戦争を止める力がなえてしまう。戦争が向こうから来て、戦争してもいいですかといったらその時は「ノー」といおうと、そんなことで戦争は止められない。今これだけ日本軍とアメリカ軍に自分たちの島を明け渡していながら、今度の戦争は嫌ですとどうやっていえるのか。私は、沖縄戦で亡くなった人たちを二度殺すことだけは許さないと思っている。だけど沖縄戦で亡くなった人だけじゃなくて、いま「標的の島」という小西誠さんの書いた本があるが、それは11月末に米海兵広報部がツイッターに出した写真が表紙になっている。アメリカ軍と自衛隊が図上訓練をしている。下に大きな島があって米軍の司令官が立って指示している。そういう訓練が行われたと、アメリカ軍は何とも思わず出した。でもそれは私たちが住んでいる島だ。形を見れば分かる。宮古島、伊良部島、石垣島、西表島。ここで戦争を想定して訓練をしている、そういう写真なのに、なぜか全国のメディアは全然やってくれない。

 ビ)日本の敗戦はミッドウェーで決まったから、あとは核開発を進めながら日本を後でどう利用するかが進められて、1944年のタイミングで日本軍が基地を整備するということは、米軍のための下請けの建設だった。結果的にいま岸信介の孫が首相になって、大日本帝国の組織の一部の人間が米帝国に再就職している。だから、先島は本土防衛と同じ発想。先島に住んでいる人たちにとって先島は「先島」ではなく世界の中心。でもペテンタゴンのお偉方には先っぽの島。今は本土防衛なんて言わずにエアシーバトルというが基本的には変わっていない。そういうデジャビュ(既視感)のような悪夢の再利用のようなものがいま僕らの生活を奪おうとしている。僕らは声を上げることができる。権力と張り合って言葉と思いをぶつけることができるのに、これを使わなかったら死者に対して申し訳ない。

 三)この日本国憲法を政府が変えたいというのは本当におかしな話。権力者は暴走する、暴走を止めるために日本国憲法がある。

 ビ)800年前にマグナカルタが作られた時から、憲法はそういうもの。

 三)それを暴走したい人たちが変えるっていうのは、猛獣の檻の鍵を外すのと同じ。でもそのことについて、どうして日本人は一部変えてもいいんじゃない?って言っちゃうのか。

 ビ)一部変えるなら「思いやり予算は払ってはならない」というのを書き加えたほうがいい。

(完、文責asa)


IMG_2197のコピー.jpg


標的の島.jpg


広島と沖縄 死者との対話 A・ビナード×三上智恵㊥ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話

A・ビナード×三上智恵㊥

 

白水の戦争マラリア

 

 A・ビナード)それで何か起きた時に、ありえない、想定外、そんなことになっていたんだという。6年前の3.11もそう。日本に54基も原発があったの、知らなかったって。軍事衝突、相手が中国なのか北朝鮮なのか分からないが、それが起きた時、沖縄で何が起きているか全く注目してこなかった人たちはまたオタンコナス状態になる。そういう状態になって市民が何かやるのは不可能。僕は日本国憲法第21条「言論の自由」が唯一の足場なので、これから憲法までつぶされた時、市民の抵抗は、大日本帝国に抵抗するのと同じぐらい難しい。

 三上智恵)映画の中で、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが、まだ我々には憲法があるんですから、というシーンがある。憲法があって表現の自由があるんだから、その自由を治安維持という名目で警察権力が押しつぶしていくとしたら、それはもう憲法なき社会だし、そんなことはあり得ないといいながら、結局その通りのことが起きた。博治さんは有刺鉄線一本1500円ぐらいのものを切っただけで5カ月勾留され、家族の接見も認められず、差し入れも制限された。何の罪で5カ月もこんなに人権を奪われた状態でいなければならないのか。しかし、日本国民は何の関心も示さなかった。治安維持法が機能しているような社会なのに、それに対する反応は鈍かった。次は自分だとどうして思わないのだろうかと思った。その間にネット上では、山城博治さんがひどい人だという嘘八百の情報が、過激派だとかカネをもらっているとか中国共産党の一員とか、流された。

 ビ)そうして市民の力を削ぐ。

 三)山里節子さんという「とぅばらーま」の歌い手がいる。沖縄本島の民謡歌手のプロでも、とぅばらーまだけは八重山に生まれ育っていないと無理というぐらい敷居の高いソウルソング。楽しいとか美しいとかを歌う歌はいっぱいある。とぅばらーまは恨みとか哀しみとか嘆きとか慟哭をそのまま詠み込んでいく。即興で。音楽の並びがだいたい決まっていて合いの手が決まっているぐらいで歌詞はまったくフリー。でも小さいときから聞いて育っていないとそのボキャブラリーがない。あれこそ口承文芸の遺産。自衛隊が来るのが嫌なんですとインタビューで言うのと、あれを歌うのとでは、人の心に届く深さが違う。この映画で一番大事な部分だと思っているのは、私たちの島は金もないし力もないけれども歌や踊りがあって、それでおなかを満たして心を洗われて生きてきたんです、その力を結集することで何とかこの危機を乗り越えていけるんではないかと確信を持っているんです、と節子さんがいうところ。権力者側に対抗して歌や踊りでどうするのって、その言葉だけ聞いたら思うかもしれないが、この映画を見たら離島が持っている力、権力側が持っていなくて大地の上に根を張って生きている島の人たちが持っている力って確かにあると思う。沖縄は今、崖っぷちに来てしまっているが、それでもあきらめない力が沖縄の人たちにはある。

 ビ)三上さんが海中カメラで撮った映像がある。サンゴが産卵するシーン。その力が節子さんの歌。山に向かって草原に向かって、これから基地が造られようとしているところに立って草木や風に言葉を発する。詩人は言葉を出すのが仕事で、人前で朗読したり活字にしたりする。でも、風に対して何か言えるか、山に対して何か意味のある言葉を出せるか、と言われたら出せない。でも節子さんには先祖から引き継いでいる意味のある言葉、風に向かっても力を持っている言葉がある。サンゴは海の中で流れる海水の中でこれだという年に一度の瞬間を見つけて産卵する。

 三)あのサンゴが出した卵の塊はつぶれるかもしれないが、でも出した卵はどこまでも遠くに行って着床して海の再生のために頑張ると思う。節子さんが、雨を含んだ黒い雲を見て、戦雲(いくさぐも)がまた湧き出たみたいだってあの場で歌う。白水というところが尾根の向こう側にあって、そこに閉じ込められて、かからなくてもいいマラリアにかかって沖縄の人たち3700人も、弾に当たってではなく日本軍の命令で死んだ。節子さんのお母さんもおじいさんも。節子さんが私に言ってくれたが、山の向こうの、命を奪われた人たちが背中を押したような気がするって。この歌を歌って三上監督のスクリーンに映ったら大変なことになるってどこかで分かっていたけど、でもあの時白水の方から私の背中を押したのよねって。だから彼女は山中で亡くなった人たちの声とかを聴いて、山に向かって空に向かって大地に向かって自分の覚悟をあの瞬間に響かせた。

 

死者とどう向き合うか

 

 ビ)映画で「死者に対して申し訳ない」って(島袋)文子おばあが言う。その力が何より強い市民の力になると思う。広島の街は、本当はものすごく力があるはず。ここでどれほどの命が72年前の夏に奪われたか。昨年、賞味期限が切れたおじゃま(オバマ)大統領が広島に来た。1時間足らず来て、17分間のおためごかしを並べて帰った。あの大統領が来た時、謝罪しなくていいという人が多かった。72年前の地獄を体験した人たちの中にも謝罪しなくていいという人がいた。その気持ちは分かる。和解したほうがいいという気持ちは分かるが、でも私たちは謝罪しなくていいといえない。言えるのは殺された人たち。でも、殺された人たちは、謝罪せよというはずだ。核開発を続け原発も作り続け、オバマ大統領の核廃絶も実現していない。それでは謝罪してもらわないと困る。この映画に出てくる死者とつながっている人たちは、たやすく「謝罪しなくていい」とか「水に流す」とか「関係ない」とかいえない。過去とつながっていれば、死者に問いかけてから行動する。でも沖縄を今まで支えてきた人たちは、翁長雄志知事も含めて、死者と向き合うパイプを持っている。そのパイプをなくしたら広島も力が出ない。そのパイプをつなぎとめ死者と相談できる、そこが大事だ。

 三)沖縄では後生(ぐそう)という言葉がある。私は民俗学をやっているが、他界観、私たちに見えてる世界とは違う、天国とか後生とかを想定しない民族はいない。同じ他界観を共有している強さというのを描きたいと思っている。沖縄戦を体験したお年寄りから話を聞いて、代表的なのは99歳で亡くなった1フィート運動の会の中村文子先生のこと。沖縄戦で教え子を二人ひめゆり部隊に出してしまった、日の丸を振って子供たちに軍国教育をした、そういう軍国教師としての反省を戦後貫いてきた人だが、その先生がいつもひめゆりの資料館に行くと「のぶこ、はるこ、会いに来たよ」という。そののぶこさんとはるこさんはおさげ髪のままだけど、文子先生は後生に行った時「もう基地はなくなったのよ」って言いたい、「私が頑張ったからもう戦争の島でなくなった」って言いたい、でもそう言えないから私はまだ死ねないんだって言われていた。まだ基地があるの、また戦争になるかもしれないのと、だからセーラー服姿ののぶこ、はるこに会うことができないから頑張るって沖縄戦を体験したお年寄りはみんな言う。生き残った罪悪感は広島でもあると思うが、沖縄でもなぜか自分は生き残ってしまったと自分を責める人が多い。後生に行って72年前別れた人たちと再会する時、自分は生き残って何をしたのって考えると居ても立ってもいられないからみんな辺野古、高江に来る。

 ビ)アメリカから広島に26歳の時に初めてきて、それまでは原爆が投下されたことが犯罪だったという意識はなかった。広島に立って自分の母国を見つめて、アメリカから受けた教育を少し見抜くことができるようになって広島の人たちとつながった時に、自分が被爆(曝)していないことが単なる偶然だということに気づいた。僕はミシガンで生まれ育って、ミシガンは約100基あるアメリカの原発の中でワースト3に入る原発の風下で、しかも母親の胎内にいた時に近くのエンリコ・フェルミ原発がメルトダウン事故(1966年)を起こしてそれが隠ぺいされ、その放射性物質はエリー湖に漏れ、小さいころそこで泳いでいる。いまカナダが最終処分場をヒューロン湖のほとりに作ろうとしていて、これからまた五大湖の水が汚染される。アメリカ人こそ一番汚染させられている。全部泣き寝入り。そのことに自分が目覚めていくと、自分が今、健康被害に苦しんでいない、生活が成り立っていることは単なる偶然で、自分は次だと常に感じるようになる。

IMG_2199のコピー.jpg


広島と沖縄 死者との対話A・ビナード×三上智恵㊤ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話
A・ビナード×三上智恵㊤


 広島市内で4月16日、三上智恵監督「標的の島 風かたか」の上映後に詩人のアーサー・ビナードさんと三上監督のトークがあった。沖縄の情況は日本の民主主義の在り方にかかわるといった視点にとどまらず広島との思想的な関連性、特に死者との対話に議論が及んだ。以下、トークの要約(3回続き、文責asa)
 
 A・ビナード)辺野古で、高江で、沖縄で思うことは、国家は国民のために存在していない。僕らがそのことを実感せずに生活しているなら、あんぽんたんだ。
 三上智恵)私が沖縄で映画を作っているのは、沖縄の負担が大変だから、ではない。この国が劣化してしまって、足元の幸せとか平和とか安定とか安心とか、ここまで崩れているのになんで全国の人たち気づかないんですか、と思って作っている。
 ビ)沖縄が大変だとか思っていたら現実は何も見えない。今の広島の思考停止とあんぽんたんぶり、広島がすべてを失う崖っぷちに立っていて飛び降りる寸前の状態になっていることを沖縄が照らし出しているから、沖縄をちゃんととらえなければいけない。沖縄の問題ではない。
 三)沖縄の問題を全国の人が考えてあげないといけないというレベルの問題ではない。沖縄にいるから分かる、沖縄でははっきりと断層の地層が見えるというものがある。沖縄でニュースキャスターを20年やって、全国に伝えないといけないことがたくさんあった。それは沖縄が大変だということではなく、あなたの国の民主主義はないですよ、この国の平和はもう終わりましたよということ。これからは共謀罪だけど、私は戦争に向かう最後の大きなカギは特定秘密保護法だったと思っている。あれを許してしまってほとんど戦前の法律は完成したと思う。もちろん戦争法も、念を押すようにできてしまった。止められないところまで来ている。
 ビ)特定秘密保護法とセットに進められたのがマイナンバー制度。三上さんは戦前の法整備が済んだというけれど、戦前の方がまだましだった。戦前は戸籍が悪用されたが、米政府にも利用されるマイナンバー制度という日本語を介しない形で日本民族の支配が完成した。
 三)マイナンバーも、みんなが従順でなければ止められたと思うが。
 ビ)5000万人がいらないっていえば制度そのものができなかった。しかも、ひどいネーミングだ。税務署に行くとこういう顔をしているから英語で聞かれる。「What Your My Number?」。Your My Numberって何。そういう中でどうするか。沖縄とつながると、いろんな人が多様性を保ちながらつながっている。それを僕らにお手本として提供してくれている。

米軍も自衛隊も一体

 三)「標的の島」を見終わっての感想は。
 ビ)重要なことを理屈ではなく感覚を伴った形で伝えた。米軍帰れとか、アメリカにこんなに基地を押し付けられているとかではなく、米軍も自衛隊も同じ組織だということ。宮古と辺野古と高江をつなげて描くと、それがよく分かる。おととしから米軍とか自衛隊とか米政府とか日本政府とかではなくて同盟調整グループ(Alliance Coordination Group=ACG)という組織がアメリカ国防総省、カタカナでいうとペテンタゴンが中心になってできた。その下請け組織が日本の防衛省。宮古に自衛隊基地ができるのと辺野古に米軍基地ができるのとは、同じ組織の出先機関が違うだけ。あるいは軍服を着ている人間の顔が違うだけ。同じ組織が進めていて、この映画で伊波洋一さん(参院議員)も明確に言っていたが、先島を戦場に想定して計画を進めている。それがこの映画ですごくよく分かる。
 三)アメリカ軍基地への反対は沖縄で8割がそうだ。しかし、辺野古は普天間の代替施設といわれると、これがまたペテン。辺野古新基地を造らずに普天間基地をなくしても、沖縄への米軍基地集中度は74%が73%にしかならない。この73%は、8割のオール沖縄を支える大多数の県民がいいといって、まだ負担していくつもりでいる。でも、普天間は無条件で返してくれてもいいんじゃないのか。それも許されないのか、というところなんです。ここが勘違いされている。アメリカの基地への反対は沖縄の中でも理解される。でも自衛隊に反対するとなると微妙だ。自衛隊には沖縄の出身者が多い。沖縄の離島から東京、大阪の大学に行かせると一人あたり2000万円弱かかる。一人大学に行ったらほかの兄弟はあきらめるという中で、防衛の学校に行けば資格も取れるし生活費ももらえる。そういうところに多くの人が行ってしまうのは沖縄の地域がら仕方ない面もある。だから自衛隊には反対論が言いにくい。でも米軍基地の問題だけ扱っていたら、いま私たちが迎えてしまった危機が説明できない。宮古島と辺野古・高江のことを一緒にやるとせわしなかったと思うが、でも米軍基地と自衛隊はいま全く一緒に考えないといけない。南西諸島の軍事要塞化ととらえないと何も本当のことが分からない。それは、沖縄が戦場になるということではなく、日本が戦場になる、その導火線を今作っているということだということをどう2時間で表現しようかと、編集作業は死ぬ思いだった。
 ビ)日本は思いやり予算という金を自分から出して導火線を引いている。米帝国と中国帝国が軍産複合体を維持するためにそれをやっている。中国もアメリカも全面衝突なんて考えていない。だからペテンが成り立つ。戦争をやりたいんなら核ミサイルを撃ち込んで人類を終わりにすればいい。しかし、戦争をやりたくないなら、戦争がない形で解決するしかない。
 三)米中はお互いに経済的なダメージをどの辺まで抑えて戦争するか、お互いに検討している。そして一緒に軍事演習なんてやっている。不思議なことだ。
 ビ)世界の歴史の中でこんなに経済的に依存しあった大国はない。
 三)そこで、お互いの国ではないところで軍事衝突が起きるとしたら、海上限定戦争しかないという結論に今達しているが、その海上限定戦争の舞台にされている島々は私たちが住んでいるところだ。この島々で戦争が終わるはずがなくて、もし沖縄本島が巻き込まれるとアメリカが巻き込まれて長期化する。そのアメリカのシンクタンクの人たちがエアシーバトル構想についてシミュレーションしたところでは、中国はミサイルの飛距離が伸びたので、戦闘機や船を出さなくても(先島を)直接攻撃できる。でもそうなったら、アメリカ軍は半日でグアムのラインまで撤退することになっている。それが2006年の日米合意。だってアメリカ軍には、この島に残って最後まで戦う義理はない。いったん撤退して頃合いを見て奪還に来るが、初期攻撃に対応するのは同盟国軍だと書かれている。同盟国軍とは日本軍、韓国軍、フィリピン軍。ドゥテルテ大統領は頭がいいから巻き込まれないためにアメリカと距離を置いている。中国との経済関係、信頼関係を築くことで、アメリカの代理戦争をさせられて自国の兵隊が犠牲になる、もしくは自国の国土が戦場になることを避けようとしているる。でも日本と韓国は、このまま行くと自国の領土を戦場に提供し、真っ先に死ぬのは日韓の若者ということになる。そして、初期攻撃に対応するのは日本の軍隊だが、沖縄は2週間で陥落すると書かれている。次のバトルゾーンは西日本。それが「やまさくら」という訓練で、ネットで簡単に見ることができる。沖縄にいると、アメリカ軍と日本軍がどこでどう訓練しているかがニュースになる。でも、本土では全くニュースにならない。だからみんな、アメリカが日本を守ってくれているというところで思考停止している。


IMG_2174のコピー.jpg

悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」 [映画時評]

悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」

 民族のジグソーパズルといわれたユーゴは1943年の独立以来、チトーという稀有の指導者によって辛くも保たれた。1980年にチトーが亡くなり、1989年にベルリンの壁が崩壊してユーゴ共産党の屋台骨が揺らぐと、パズルのピースが散乱するのは早かった。ユーゴは五つの民族の寄せ集めといわれたが、中でもクロアチアとセルビアの反目は激しかった。底流には第二次大戦中、クロアチア人によるナチ傀儡政権が、ユダヤ人だけでなくセルビア人の虐殺を行ったことがあるとされる。1991年、クロアチアがユーゴからの独立を宣言。彼らの居住地域の少数派だったセルビア人は危機感を強めた。クロアチアとセルビアの悲惨な紛争が起き、95年まで続いた。
 映画は、こうした時代背景の中で三つの物語を紡ぐ。一つは1991年。紛争直前のアドリア海沿岸で引き裂かれたセルビア人の娘イェレナとクロアチアの青年イヴァン。二つの村の境界線にはセルビア人が作った検問があった。ザグレブ(現在のクロアチアの首都)へと向かう計画を立てた二人だが、イェレナは家族に引き戻される。彼女を取り戻そうとしたイヴァンに悲劇が起きる。
 二つ目は2001年、紛争後のクロアチア。セルビア人の母とその娘ナタシャが荒れ果てた自宅に戻る。クロアチア人の若者アンテに修理を頼むが、お互い紛争の憎しみと心の傷は消えることがない。そんな中でアンテとナタシャはひかれあう。
 三つ目は2011年、ほぼ現代といえるクロアチア。帰郷した大学生のルカは、かつてのセルビア人の恋人マリヤを訪れる。紛争のさなか、ルカは身ごもったマリヤを捨てた過去を持つ。許しを乞うが、「もう終わったの」と冷たくされる。一晩、享楽の中に身を置いたルカは、再びマリヤのもとを訪れる。
 3編の中で、特にこの編の終わり方がいい。語りすぎず、伝えるべきものを伝えている。
 旧ユーゴは、世界でも例を見ないほど悲惨な戦いの地だった。戦う相手は、昨日までの隣人だった。それだけに心に残った傷は深い。悲しみ、憎しみ、絶望。それを癒やすものは、愛しかない。そんなメッセージが伝わってくる。アドリア海のきらめく光が、この地の持つ悲劇性を際立たせる。
 3編とも男性をゴーラン・マルコヴィッチ、女性をティハナ・ラゾヴィッチが演じた。2015年、クロアチア、スロベニア、セルビア共同製作。監督・脚本ダリボル・マタニッチ。


灼熱.jpg


この国のかたちが危うい~映画「標的の島 風かたか」 [映画時評]

この国のかたちが危うい~
映画「標的の島 風かたか」

 三上智恵監督作品「標的の島 風かたか」を観た。2016年4月に起きた米軍基地関係者によるうるま市の女性殺害事件への抗議集会(6月)のシーンから始まる。稲嶺進・名護市長が、苦渋の表情で語る。「我々はまた風かたかになれなかった」。「風(かじ)かたか」とは風よけのこと。市民、民衆が一人の女性さえ助けることができなかった。そんな思いを語っている。しかし、その前に国は民衆の「風かたか」になっているのか。そんな問いが全編を貫く。
 アジア・太平洋戦争末期、日本軍10万人が沖縄に駐留した。沖縄を守るため、と誰しもが思った。しかし、日本軍は沖縄の民衆を守らなかった。あるときは盾にし、あるときは足手まといだとして自死を強いた。軍は民を守らない。そのことが、沖縄の民の揺るがぬ歴史の教訓として今も息づいている。基地に立ち向かう沖縄の民のそうした精神の土壌が、沖縄の民俗芸能を交えた厚みあるシーンの中で語られる。
 映画はさらに宮古島、石垣島で進むミサイル基地建設、自衛隊基地をめぐる自治体と民衆の闘いを追う。先島諸島では、中国に対する軍事的抑止の名のもとに日米一体の軍事要塞化が進められている。いったん標的になった島の島民はどこに逃げるのか。そう考えれば、先島は本土防衛のための捨て石であることが分かる。本土の「風かたか」である。
 2016年夏の参院選では島尻安伊子・沖縄北方相が大差で落選、伊波洋一・元宜野湾市長が当選した。これ以上ない「基地へのノー」が示されたにもかかわらず、政府は翌日から高江のヘリパッド建設に着手した。辺野古新基地建設も、政府は埋め立てを強行する構えだ。こうした流れの中で、末期がんと宣告された山城博治さんの命がけの闘いが続く。
 こうした「沖縄の闘い」を前2作(「標的の村」「戦場ぬ止み」)と同様に三上監督は追い続けるが、けっして作風は深刻でも暗くもない。沖縄の民俗芸能を交え、民のたくましさと明るさを前面に押し出している。
 上映後、詩人A・ビナードさんとのトークで三上監督は「この映画は、沖縄が大変だからみんなで助けましょうといっているのではない。ほっておけばこの国の民主主義が大変だ、ということ」と語っていた。「沖縄」の問題としてではなく「この国」の問題としてとらえることができるか。



標的の島.jpg


興味尽きないその歴史~濫読日記 [濫読日記]

興味尽きないその歴史~濫読日記


 
「日本ノンフィクション史」(武田徹著)

日本ノンフィクション史.jpg  副題に「ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」とある。「ルポ」といえば戦時中、いわゆる文士による「従軍記」が存在した。あれは本来の意味でのルポルタージュだったのか。そのあたりから、この「日本ノンフィクション史」は語り起こされる。むろん、かつての「従軍記」は、後年に火野葦平自身が語っているように軍部によるさまざまな制限の中で書かれたものであった。事実の一面だけを書く、という極めて不幸な側面を持つが、それでも堀田善衛が指摘するように、ルポルタージュを生んだ最大のものは戦争と革命だった。
 戦争が終わってみると、日本では翻訳されなかったためほとんど知られなかったが、ジョン・リードの「世界を揺るがした10日間」というルポルタージュの傑作が1919年に書かれていたことが広く知られる。そんな中で「猿取哲」のペンネームを持つ大宅壮一が台頭する。彼は戦後左翼思想に染まらぬ「無思想人宣言」のもと、新たなルポルタージュを模索する。平行して週刊誌メディアが隆盛を極める。背景には新中間層の拡張と伸展があった。
 ここで出てきたのが梶山季之、草柳大蔵に代表される「トップ屋」である。この呼称、実は週刊朝日を率いた扇谷正造の作だという。新聞社系の週刊誌は主に新聞記者によって書かれる。それに対して出版社系週刊誌の記事はフリーのライター(アンカーマン)やデータマンによってつくられる。こうした記事が相次いでヒットしたため「羨望とやっかみ、そして軽蔑の入り混じった呼称」(武田)だった。
 テレビ界の動きにも触れている。意外にも「ノンフィクション」を最初に使ったのはテレビ界だと、武田は言う。日本テレビ系「ノンフィクション劇場」がそれである。映像系メディアではもともと「ドキュメンタリー」が使われてきた。しかし、エイゼンシュタインのモンタージュ技法以来、この言葉にはある種の色がついてきた。特定の思想、あるいはプロパガンダとの結びつきが類推され、そこからあえて「ドキュメンタリー」を避け「ノンフィクション」をかぶせたということらしい。
 そして「ノンフィクション」である。武田はここで「ノンフィクション」か「ノン・フィクション」かにこだわる。「フィクション」に「ノン」ということで成り立つジャンルなのか、「ノンフィクション」という独立した分野なのか、という問いである。大まかに言えば、おそらく「ノン・フィクション」から出発しながら「ノンフィクション」に到達した、と理解するのが正しいだろう。もちろん、ここで沢木耕太郎の存在が大きい。沢木によってノンフィクションはひとつの頂点に達したといっていい。小説と見まがうばかりの「物語性」をノンフィクションは獲得した。しかし、沢木自身の次のような言葉によれば、このことはいささか危うい側面を持つ。「こうして出来上がったノンフィクションは、小説とどう違うのかと聞かれると、ちょっと返す言葉がなくなる」。いいかえればニュージャーナリズムで語られたノンフィクションは「閉じられたノンフィクション」であった、これをどう「開かれたノンフィクション」にするか。武田はここでリテラリー・ジャーナリズム、もしくはアカデミック・ジャーナリズムの道は用意できないか、と指摘する。
 書の内容に沿って「ノンフィクション」をめぐる歴史を簡単に振り返ってみると、こうした著作がなぜ今までなかったのだろうか、という思いがあらためてする。しかし、読んでいくうち「ノンフィクション」という言葉自体が極めて危ういものであることが分かる。ジャーナリズム、ルポルタージュ、ドキュメンタリーのなかでノンフィクションはどう位置付けられるのか。「ノンフィクション」とは何か。事実を書けばノンフィクションになるのか。事実の向こうに真実はあるのか。そういう思いが湧き出す。
 手元に資料がなく、この部分はあいまいな記憶に頼って書くのだが、かつて鎌田慧と草柳大蔵による「トヨタ」をめぐる論争があった。鎌田には「自動車絶望工場」、草柳には「現代王国論」がある。ともにトヨタを取り上げた。草柳は、最新鋭の設備によって食事が提供される社員寮を書いた。鎌田はそれに、実際に食してうまいかどうかを確かめたのか、と批判していたように思う。これは、実は深い意味を持っている。「ルポは見たり聞いたり、触れてみたりしたものでなければ書けないのか」という問題である。一方で鎌田の「自動車―」には「潜入ルポ」と揶揄する声があり、鎌田自身、当惑したことをある著作で書いていた。こうしたことは、ノンフィクション史の中でどう位置付けられるのだろうか。
 著者はこの書を書くのに7年を費やしたと「おわりに」で触れている。たとえば、鎌田慧のほかにも立花隆はどう位置付けるのか。書の中であまり触れられていない新聞社系のライター、上前淳一郎や本田靖春をどうとらえるのか。興味は尽きない。
 中公新書、880円。

日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書)

日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書)

  • 作者: 武田 徹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/03/21
  • メディア: 新書


前半の映像がなかなかいい~映画「ライオン」 [映画時評]

前半の映像がなかなかいい~映画「ライオン」

 私はどこから来てどこへ向かおうとしているのか。だれしもそのことを気に掛ける。アイデンティティへのこだわりである。これをなくすと単なる根無し草になる。昔「デラシネの旗」(五木寛之)という小説があったが、よほどの熱い季節をくぐり抜けてこないと、なかなかそんな気にはならない(注:デラシネはフランス語で根無し草)。
 映画「ライオン」は、自分はどこからきたかを見失った青年が、現代の情報ツールを使ってルーツを探り当てる話である。
 2012年、あるニュースが世界を駆け巡った。オーストラリアに住む青年が、インドの母のもとへ25年ぶりに帰ってきたという。
 1987年のインド。5歳のサルー(サニーパワール、成年後はデブ・パテル)は、兄とともに仕事を求めてある駅のプラットホームに立った。兄はそこから一人でどこかへ向かった。ベンチに残された少年は、たまたま来た列車に乗り込んだ。乗客のいない列車だった。少年の叫びを無視してひたすら走った。
 着いたのは西ベンガルのカルカッタ。少年は保護されたが、どこから来たのさえ分からない。少年はオーストラリア・タスマニアの夫婦(デビッド・ウェンハム、ニコール・キッドマン)のもとに引き取られた。そして25年。
 アイデンティティへの渇望から、青年はかすかな記憶を頼りに自分のルーツを探る。乗った列車は2、3日走り続けた。当時の列車の運行速度を調べれば、自分の出生地を割り出すための範囲を特定できる。そのエリアをグーグルアースで徹底的に調べて、見覚えのある景色を発見できれば、自分がいた場所はわかるはずだ…。
 25年という時間を区切りとして、映像は前半と後半でくっきり分かれる。少年の視線を通して描かれるインドの大地と貧困と人口爆発。それに、帰るべき家を見失った少年の孤独な叫びが重なる。その映像美は、不在の父を追ってドイツへと向かう姉弟の列車の旅路を描いたテオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」の孤独感漂う叙事詩を思い起こさせる。
 しかし、グーグルアースによる「検索」を描いた後半はむしろ淡々としていて物足りない。映像的には、前半の重さと後半の軽さがアンバランスだ。
 タイトルの「ライオン」は、いただけない。ストーリーの展開と全くかみ合わず、最後のナレーションを聞くまで、なぜこのタイトルなのか理解できなかった。
 2016年、オーストラリア製作。


ライオン.jpg



ゴルディオスの結び目~社会時評 [社会時評]

ゴルディオスの結び目~社会時評

 古代の王ゴルディオスが複雑怪奇な結び目を作り、これを解いたものがアジアの覇者になると宣言した。アレキサンダー大王が現れ、剣で一刀両断にし、予言通りアジアの覇者になった。
 この故事をどう解釈するか。
 普通の人間は、まず結び目を解こうとするだろう。アレキサンダーは発想を変えて、一刀両断にしてしまう。誰にも思いつかぬ方法で難問を解いたアレキサンダーはやはり英傑だった―とするのが、一般的な解釈かもしれない。
 内田樹は著書「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」の中でこの故事を取り上げた。前後の文脈の中で内田は、難解な思想をどう説くかの答えを導くためにこの故事を使っている。そこでは、「アレキサンダーの剣」は、例えばマルクス主義に代表されるイデオロギーに例えられる。レヴィナスの「よく分からない思考」にマルクス主義的な読みを当てはめ「ブルジョワのシオニスト」と切って捨てるやり方である。たしかに単純明快だが、そこで得るものと失うものと、どちらが多いかをよく吟味する必要がある、と内田は言う。
 さて、米ソ冷戦も終わって30年近くがたとうとしている。いまさらマルクスでもあるまい。では、この故事は世界で起きているどのようなこととつながるのか。
 核兵器開発を進める北朝鮮の動きに、トランプ米政権がいらだっている。シリアの空軍施設を巡航ミサイルで攻撃し、取って返して太平洋上の原子力空母カール・ヴィンソンを朝鮮半島近くに向かわせた。力ではなく賢者の知恵に頼る「戦略的忍耐」を掲げたオバマ政権と違って「力には力」の政策を前面に押し出した感がある。トランプ大統領は、複雑な結び目を一刀両断にした現代のアレキサンダーのように振る舞っている。
 しかし、ゴルディアスの結び目の故事と違うのは、振り回した剣は確実に周囲の犠牲を招くということだ。一説には、韓国で一般市民100万人が犠牲になるというシミュレーションがある。そんなもので済むのだろうか。朝鮮戦争での死者数は400万人と公式に言われている。そのうえで当時と現在の最大の違いは、北朝鮮が核兵器を持っている可能性があるということである。もちろん被害は日本にも及ぶだろう。
 朝鮮半島では、1994年にIAEAの核査察を北朝鮮が拒否したことによる核危機があった。クリントン政権の時のことである。カーター元大統領が訪朝し、なんとか核施設空爆を回避、対話の道を維持した。
 この時の状況を詳細に書き残した舟橋洋一「ペニンシュラ・クエスチョン」を、著者は「朝鮮半島第二次核危機は、北朝鮮の体制・アイデンティティー危機、世界の核状況危機、そして冷たいバルカンとなりつつある北東アジアの相互不信危機の重層的危機にほかならない」と締めくくった。朝鮮半島は現代の複雑怪奇なゴルディオスの結び目である。

 3月に来日したティラーソン米国務長官は「北朝鮮を非核化しようとする20年間の努力は失敗に終わった。脅威がエスカレートしており、新たなアプローチが必要だ」と述べた。1994年の核危機での米対応の否定である。これが、現代のアレキサンダーの剣にならないことを祈る。結び目は解ける所から解いてほしい。