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アートを気取った駄作~映画「Vision」 [映画時評]

アートを気取った駄作~映画「Vision

 

 河瀬直美監督の作品は、興味はあったが見たことがなかった。10作目という「Vision」の公開で、一度は見てみるか、という気分で鑑賞した。印象は最悪であった。いわゆる芸術的な作品の部類に入るのだろうが、画風にそうした意識が先走りすぎている。難解さの裏側に、何か不快なものを感じさせる。

 仏人のエッセイスト、ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は幻の植物ビジョンを求めて吉野の森を訪れる。そこで、一頭の猟犬と暮らす智(永瀬正敏)と出会う。その出会いには、不思議な盲目の女性アキ(夏木マリ)が絡んでいた…。智と深い仲になったジャンヌはいったん母国に帰る。一人になった智は鈴(岩田剛典)と出会い、森を守るための共同生活を始める。そこへ戻ってきたジャンヌとの3人の生活が始まる。

 森の生活の中で、ジャンヌは岳(森山未来)という青年を愛した過去を思い出していた。岳はある老いた猟師(田中泯)の誤射で命を落とす。二人の間に生まれた子はアキの手を介して岳の実家に預けられた。鈴は、その子の成長した姿なのか。

 前半はともかく、後半はバタバタとストーリーを追った、アート系らしからぬ展開。そこに、ビジョンという謎の植物は997年に1回現れるとか、997は素数であり、ほかの数字の介在を許さないとか、中途半端な講釈がつく。全体を通して言いたいことは、人間にとって不条理とも思える畏敬すべき自然の深遠さのように思うのだが、その割には「素数」などという断片的な近代の「知恵」や「意味」が顔を覗かせるから、観るものは戸惑う。

 理解不足かもしれないが、結局のところ鈴はジャンヌの子だったのだろうか。そうだったとして、結局何が言いたいのだろうか。何か霊的なものを全編に漂わせ、ちょっとアートのような理解困難な絵の構成で、最後は大団円。何を主張したことになるのだろう。河瀬直美の過去の作品の名声と、この「Vision」は、あまりにも落差が大きい。

 2018年、日仏合作。


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「破れ目」の思想~映画「万引き家族」 [映画時評]

「破れ目」の思想~映画「万引き家族」

 

 最近読んだ加藤典洋著「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」に「破れ目」という言葉が出てくる。完ぺきに見える思想構築物の中に発見された論理的破綻とでもいうべきもの。加藤はこの言葉をルソーからドストエフスキーへ、という文脈の中で使っている。ルソーの社会契約説の中で説明しきれないもの、それをドストエフスキーが「地下室の手記」で著し、さらに「社会契約」の外側、つまり法の外側の存在=新たな立法者としてラスコーリニコフという存在を造形した「罪と罰」に言及する形で、加藤は「破れ目」を使っている。

 

 是枝裕和監督の「万引き家族」を観た。加藤が言う「破れ目」を追究し、法の外側に視点を置いて、ある人間集団のありようを追った作品に思えた。そこは、社会の吹き溜まりのような場所である。しかし、だからこそ居心地がよく、人間的真実があるような場所でもある。社会の破れ目であり、何かが破たんした場所でもある。破たんしたものはいったい何か。それは作品の後半で明らかになる。

 都会のビルに挟まれて立つ、古びた平屋。5人が「家族」と称して住んでいる。生活費の柱は初枝(樹木希林)の年金。それを、細々とした各自の稼ぎと、父治(リリー・フランキー)と息子翔太(城桧吏)の連係プレーによる万引きで得た収入で補う。治と翔太は万引きの帰り、団地のベランダで震えるゆり(佐々木みゆ)を見かけ、連れて帰る。ゆりにも万引きの特訓が始まる。クリーニング店をリストラされる信代(安藤サクラ)、親には海外留学と偽ってJK専門の風俗店で働く亜紀(松岡茉優)…。

 事件が起きる。初枝が急死するのだ。年金を途絶えさせたくない治らは、遺体を床下に埋めて彼女の死を隠ぺいする。ゆりの親からは捜索願が出る。そして翔太とゆりの万引きが発覚、すべてが明るみに出る。刑事から初枝の死体遺棄、ゆりの誘拐が追及され、世間からはひんしゅくと軽蔑の視線が投げかけられる。しかし、世間の目の裏側にあるのは体裁と建前と根拠のない常識である。世間はそんなもので断罪するが、果たして「万引き」でつながっていた家族に「真実」はなかったのか…。しかし、それを絆と呼んでは、あまりに薄っぺらになってしまう。やっぱりそれは、人間社会の「破れ目」と呼ぶのがふさわしい。「体裁」や「常識」の内側にいると信じている人々には、永遠に見えることのない何か。

 是枝監督はこれまで「そして父になる」(2013)、「海街diary」(2015)、「海よりもまだ深く」(2016、未見)、「三度目の殺人」(2017)で、一貫して家族の姿を見つめた。「海街diary」は、鎌倉を舞台に美人姉妹の共同生活を描き、かつての小津安二郎を想起させる画風だった。小津は、戦後こそ中流階級のモダンな生活を虚無的な視線で描いたが、初期は路地裏の庶民生活に潜む真実を追った社会派ファルス(笑劇)に近いものをつくってきた。底流に「小津調」を秘める是枝作品群は、この「万引き家族」を観てあらためて思うのだが、小津作品の系譜を逆コースで歩んでいるように思える。

 リリー・フランキーはこの怪演をもって不世出の演技者となった。おそらく、それに続くのが安藤サクラであろう。

 2018年、カンヌ国際映画祭最高賞。


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アナーキーな描写が足りない~「孤狼の血」 [映画時評]

アナーキーな描写が足りない~「孤狼の血」

 

 かつての「仁義なき戦い」シリーズに警察小説を組み合わせたようなストーリー。しかし、「仁義なき戦い」が、戦後焼跡・闇市で勃興した暴力団の抗争をアナーキーに描いたのに比べ、この「孤狼の血」のなんとマイルドなことか(その暴力描写、エログロな画調にもかかわらず、だ)。これは主演を張った菅原文太と役所広司の「味」のちがいとともに、もっと奥深く、映像の裏側にある「思想」のちがいにもよると思える。

 呉原市(呉を類推させるが、一応架空の都市)。時は昭和63年、つまり昭和の末期(暴対法施行は平成に入ってからだから、暴対法以前という設定)。広島に本拠を置く巨大組織・五十子組傘下の加古村組に関係する金融機関の職員が突然失跡する。この事件を機に、地場の尾谷組との抗争が激化する。所轄のマル暴担当刑事・大上章吾(役所広司)は新任の刑事日岡秀一(松坂桃李)と組み、捜査の常識を外れた手法で、事件の真相に迫っていく。

 大上はマル暴担当でありながら、暴力団の上層部とも深いつながりを持つ。そうしたやり方に日岡は疑問を持つが、大上は意に介さない。それどころか、一触即発の両勢力を巧みに操ろうとする。日岡の忠告に大上は「もう綱渡りの綱の上に乗っているんだ。あとは落ちるか落ちないかだ」と答える―。

 映画の性格上、広島弁が「標準語」になっているが、役所広司の広島弁はお世辞にも「板についている」とは言い難い。何かが違う。広島弁が似合っていたのは、五十子正平を演じた石橋蓮司、クラブのママでありやくざの情婦を演じた真木よう子あたり。なお女優陣では真木とともに、日岡に近づく得体のしれない女・岡田桃子を演じた阿部純子が光っていた。

 冒頭の「映像の裏側にある『思想』の違い」に立ち戻る。戦後の日本映画は、満州映画協会(満映)を一つの遺産として復興した。スターは、原節子と並ぶ人気を誇った李香蘭。ちなみに戦中の日本映画の水準の高さは、日本近現代史の研究者ジョン・ダワーも、著作「昭和」で認めるところである。この大陸的無国籍映画の系譜は、例えば日活の石原裕次郎、小林旭主演映画に引き継がれ(そういえば、日活のヒロイン浅丘ルリ子の父は満州国の官吏だった。したがって浅丘は幼少期を中国東北部で過ごしている。詳しくは林真理子「RURIKO」参照)、やくざ映画の原点ともいわれる「人生劇場 飛車角と吉良常」のヒットに気を良くした東映のシリーズ第二弾は、中国大陸に舞台を移した。

 こうして満映、日活、東映に引き継がれた大陸的無国籍アナーキズムは日本映画の底流を形成してきたといえる。この味わいが、「孤狼の血」には決定的に欠けているのだ。そのためか、大上が常軌を逸した捜査手法をとるのは暴力集団を手玉に取ってかたぎの市民を救うため、というなにやら陳腐なヒューマニズムあふれる設定に回収されてしまう。

 ――と、憎まれ口の一つもたたいたが、現在の日本映画の中でいえば、それほど悪くない水準なのかもしれない。監督は「彼女がその名を知らない鳥たち」の白石和彌。2018年、東映。


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棺を覆いて~映画「blank13」 [映画時評]

棺を覆いて~映画「blank13

 

 中国の言葉に「棺を覆いて事定まる」というのがある。文芸評論家小林秀雄なども引いていた。生きている人間にはしがらみや感情がまとわり、なかなか本当の姿は見えないものだが、死んでしまえばそうした一切が消え、その人間の本当の価値が分かるという。 「blank13」も、そうした感慨がわく作品だった。もっとも、小林の場合は歴史上の人物を分析する上でのマクラに使ったが、この映画に登場するのは市井のしがない、というよりもむしろろくでなしの男である。

 13年前、稼ぎのない父・松田雅人(リリー・フランキー)は借金だけを残して失踪する。残された母・洋子(神野三鈴)と二人の息子は必死で貧困と闘う。母は体を壊しかけるが、やがて息子たちは社会に巣立つ。そんなおり、胃がんで余命3カ月と告げられた父の消息が飛び込んでくる。母と兄・ヨシユキ(斎藤工)は会うことを拒絶するが、幼いころ父とキャッチボールをした思い出を持つ弟・コウジ(高橋一生)は恋人・西田サオリ(松岡茉優)と、病床を訪れる。やがて父は他界し、葬儀には見知らぬ人たちが訪れ、父の空白の13年間を語り始める…。

 そこには、家族の知らない父の姿があった。しかし、父に見捨てられた家族の心象は複雑である。切ない家族の風景。

 ギャンブル狂いのどうしようもない男をやらせても、リリー・フランキーはさまになり、実在感がある。映像も丹念に撮られ、好感が持てる。監督の齊藤工(俳優の場合とは姓を変えている)の情熱が伝わる。ただ、冒頭の「火葬」に関するくだりはくどい。葬儀シーンはセリフ回しで見せようとしているが、映像が優先する方がよかった。でないと観念が先だった作品に見えてしまうからだ。

 齊藤の映画愛と独特の感性は伝わる作品だった。


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権力者と官僚の関係を考えさせる作品~映画「ザ・シークレットマン」 [映画時評]

権力者と官僚の関係を考えさせる作品

~映画「ザ・シークレットマン」

 

 このところ、権力とメディアの関係を考えさせられる作品が相次いだ。一つは「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」、もう一つは「ザ・シークレットマン」。ともに1970年代初頭、米国で起きた事件をモデルにした。

 ベトナム戦争をめぐる機密文書、いわゆるペンタゴン・ペーパーズの内容がNYタイムズ紙、ワシントンポスト紙などによって報じられ、差し止めを求めた政府が敗訴したエルズバーグ事件。この直後、ワシントンの民主党本部に侵入、盗聴器を仕掛けた5人を逮捕したウォーターゲート事件が発生した。両事件とも当時のニクソン政権を痛撃、特にウォーターゲート事件はニクソン大統領を辞任に追い込んだ。この時、精力的な報道を展開したワシントンポスト紙のウッドワード、バーンスタイン両記者が注目を浴びたが、同紙のキャンペーンの源には一人の情報提供者がいた。紙面では「ディープスロート」と呼ばれ、実名が明かされることはなかった。彼の名が判明したのは大統領が辞任して31年後、2005年のこと。「ディープスロート」自身が名乗り出たためだった。当時、ニュースにはなったものの、30年前ほどのセンセーショナルな扱いでは報じられなかった。

 この「ディープスロート」、すなわちFBI副長官だったマーク・フェルトを主人公にしたのが「ザ・シークレットマン」である。一言でいえば、予想以上に面白く観た。それは、「ペンタゴン・ペーパーズ」がメディアの側から事件を見ている、つまり観客が知る事件のかたちのままにつくられたのに対して、「ザ・シークレットマン」はFBI副長官の側から事件をとらえ直し映像化している点にあった。それは二つのことを観るものに教えてくれる、もしくは考えさせてくれた。

 一つは、マーク・フェルトはなぜFBI情報をリークするに至ったか、である。あらゆる情報の集積拠点であるFBIに対してホワイトハウスは影響力を行使しようとするが、それに抗してFBIを自立機関とすべく苦闘するマーク・フェルトは、権力者に対して効果的なリークがなければ事件の本質は見えてこないと思ったのだ。その構図は「ディープスロート」はなぜ「ディープスロート」だったか、という問いの答えを観るものに暗示している。もう一つは、マーク・フェルトという一人の実直な人間を通して、官僚とは何かを考えさせる点だ。

 この二つをもって、この映画は単に40年余り前の事件を描いたという点に収まらず、現代に通じるテーマ性を持つに至った。ホワイトハウスとFBIの軋轢は、ちょうど1年程前に解任されたジェームズ・コーミーFBI長官とトランプ大統領の関係を連想させる。そして「官僚とは何か」という問いかけは、そのまま昨今の霞が関で右往左往する官僚のありように鋭い批判の刃を向ける。

 それにしてもこの映画、最近のラインアップでは地味な部類の作品と思うが、GW中とはいえ、観た映画館の100席余りが満席だったのには驚いた。何がそうさせたのだろう。

 2017年、米国。原題は「Mark Felt: The Man Who Brought Down the White House」(マーク・フェルト、ホワイトハウスを倒した男)。邦題よりこっちのほうがいいな。


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家族の崩壊を虚無的に描く~映画「ハッピーエンド」 [映画時評]

家族の崩壊を虚無的に描く~映画「ハッピーエンド」

 

 フランス・カレー地方に住む裕福な家族の崩壊を描く。その視線は虚無感に満ちている。

 …と、ここまで書いて、このテーマ設定は小津安二郎に似ている、と思った。そしてこの作品では、スマホ画面が「勘どころ」といえるシーンで登場する。登場人物を録画する画面が、スクリーンに広がる。そこには既視感がある。小津が、ローアングルにカメラを置くことで日本家屋の柱や欄間をドラマのフレームとして使った、あの感覚と似る。小津はそこに「生活感」をにじませたが、「ハッピーエンド」のミヒャエル・ハネケ監督はスマホ画面の向こうにSNS社会を意識させる。SNSによって個人は分断され、解体され、そして家族は崩壊する。これが、この作品のテーマであろう。

 ハネケ監督はこれまで「白いリボン」「愛、アムール」といった衝撃的な作品を世に問うた。どこが衝撃的だったか。一見何気ない日常、「白いリボン」では美しくさえある日常のシーンが積み重なるにつれ、死のにおいを漂わせたからだ。「愛、アムール」では、パリのしゃれたアパートに住む老夫婦が、ついに死の時を迎えるまでを描く。

 さて「ハッピーエンド」である。建設会社を営むロラン一家。当主のジョルジュ(ジャン・ルイ・トランティニアン)は娘のアンヌ(イザベル・ユペール)に家業を譲り、孫のピエール(フランツ・ロゴフスキ)にも経営の一角を担わせていた。アンヌの弟トマ(マチュー・カソビック)は一家の長男であるが、医師として働いている。トマには離婚した妻がおり、娘のエヴ(ファンティーヌ・アルドゥアン)がいた。この前妻は男に捨てられ、うつ病の治療中に急死する。親を亡くしたエヴは、ロラン一家に引き取られる…。ここまでが、物語のフレームである。

 年老いたジョルジュは一家のありように絶望して自殺を企てる。そこに現れたエヴに、なぜか同じ「死のにおい」を感じる。アンヌは弁護士のローレンス(トビー・ジョーンズ)といつも電話で話し込んでいる。トマはチャットで不倫にのめりこんでいる。ピエールは会社経営の任に堪え切れず、精神不安定である。こうした中で、孤独と得体のしれない闇を抱えたジョルジュとエヴが惹かれ合う。

 ジョルジュはエヴに、介護していた妻を殺したことを告白する。エヴは実は、トマの前妻に薬を盛った経験を持つが、そのことはジョルジュには明かさないでいた。しかし、二人は同じ体験を持つことをいつしか感じとっている。

 ジョルジュの「妻殺し」は、実は「愛、アムール」のラストと重なっている。人物の設定は変えてあるが、ハネケ監督も意図的にストーリーを継続させている。主人公の名は同じジョルジュであり、演じるのも同じジャン・ルイ・トランティニアンである。「ハッピーエンド」のラストで車いすのジョルジュが入水自殺を図るが、その模様を目撃したエヴは助けるでもなくスマホを取り出して動画を撮影する。おそらく、このシーンがハネケ監督の描きたかった現代の風景であろう。SNSによってタコツボ思考に陥り、自ら分断化を求める人々。それに絶望する老人たち。そうした構図を、スマホ画面をフレームとして重ねることで描きたかったに違いない。虚無感のにじむ結末である。そして、なんとアイロニーに満ちたタイトルであることか。

 

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ジャーナリズムの王道を描く~映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」 [映画時評]

ジャーナリズムの王道を描く~
映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

 

 1971年、米国防省の研究スタッフであったダニエル・エルズバーグによってベトナム戦争の機密文書のコピーがニューヨークタイムズ紙に持ち込まれた。同紙はコピーの信ぴょう性をめぐって3カ月にわたる検討を重ねた末、ニール・シーハン記者を中心にチームを編成、キャンペーン報道に踏み切った。それは、政府が公表してきたベトナム戦争の真相とは大きく違うものだった。国家機密の漏えいととらえたニクソン大統領とマクナマラ国防相は司法による差し止めを求め、対立は法廷に持ち込まれた。一時はNYタイムズの独走状態だった報道は、ワシントンポスト紙が後追いをしたため、新たな局面を迎えた…。

 このエルズバーグ事件がスピルバーグによって映画化された。事件の推移を縦軸に、横軸にはワシントンポストの女性オーナー、キャサリン・グラハムの苦悩と決断を置いた。キャサリンは映画会社MGMの経営者の娘として生まれ、ワシントンポストのオーナーと結婚したがオーナーが自殺したため跡を継いだ女性である。新聞経営やジャーナリズムとは無縁なところで生まれ育った。そうした女性が米国ジャーナリズムの歴史に大きな足跡を残したのである。キャサリンにはメリル・ストリープ、ワシントンポストの編集主幹ベン・ブラッドリーにはトム・ハンクスが扮した。

 米メディアの中で、全国紙としての地位を固めていたNYタイムズに比べ、ワシントンポストは当時、ローカル紙の地位に甘んじていた。しかし、ペンタゴン・ペーパーズを報道することでジャーナリズムの世界で一定の評価を得ることができる…。

 キャサリンは最終的に「いいわよ、やりましょう」と決断するのだが、そこに至る道筋は一通りではなかったようだ。彼女とワシントンポスト社内の議論は、当時NYタイムズ紙のベトナム特派員で、後にノンフィクションライターとなったデビッド・ハルバースタムの「メディアの権力」(サイマル出版会)に詳細に記録されている。この中でハルバースタムは「報道の自由を守る唯一の方法は、報道することなのです」という同紙編集スタッフの名セリフも記録している。もちろん、映画でもこの言葉は登場する。ただし、事実とは違ってベン・ブラッドリーの発言として。この言葉はキャサリンの自伝「わが人生」(TBSブリタニカ、1997年)にも残されている。「新聞の良心が試される時が来た」という同紙幹部の意見や「やりましょう、実行です」というキャサリンの決意とともに。

 報道差し止めか否かの議論は最高裁まで持ち込まれ、最終的に新聞の側が勝利する。「新聞のない政府より政府のない新聞を選ぶ」といったトマス・ジェファーソン第3代大統領の言葉がなお重みを持つことが立証された瞬間だった。

 いま、米国では「フェイクニュース」とメディアを選別、非難する大統領が生まれ、日本では臆面もなく政府に擦り寄るメディアが登場するに至った。こういう時代だからこそ、エルズバーグ事件を通じてジャーナリズムの王道、輝けるジャーナリズムの時代を描くことに意味があるのだろう。映画の演出もその辺をわきまえていて、余計な説明はつけず淡々と事実を追っている点、好感が持てる。



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名匠も年を取ったな~映画「15時17分、パリ行き」 [映画時評]

名匠も年を取ったな~映画「1517分、パリ行き」

 

 2015年の事件を下敷きにした87歳クリント・イーストウッド監督の最新作である。舞台はヨーロッパ、アムステルダムからパリに向かう特急列車。銃で武装したテロ犯がヨーロッパ各国から乗り合わせた554人を人質にする。そこで立ち向かった米国人3人の活躍を描いた。

 米空軍のスペンサー・ストーン、オレゴン州兵のアレク・スカラトラス、そして2人の友人アンソニー・サドラー。幼なじみで偶然、夏の休暇をともに過ごすためヨーロッパに来た。映画では、「お手柄」の3人は本人自身が演じている。それぞれの少年期(このシーンは当然、別人が演じているが)、日常生活が描かれ、彼らがどれだけ「平凡なアメリカ人」であったかが強調される。日本的な感覚では、兵役についていた彼らがとても「平凡」な人間とは思えないが。

 彼らは疾走する特急列車内で無差別テロを企てた男を組み伏せ、途中の駅で治安部隊に引き渡す。重傷を負った乗客も医療班の手に渡され、死を免れる。事件後にはフランス大統領から3人にレジオンドヌール勲章が贈られる…。

 窃盗犯を捕まえた地域の防犯協会のメンバーが警察に表彰された、といったニュースが新聞の地域版に載ったりするが、この映画の展開はそうしたニュースの拡大版のようにも見える。仕掛けが大掛かりな割にテロ犯の人間性も掘り下げられておらず(この点は「アメリカン・スナイパー」での敵兵の描き方でも感じたことだが)、映画としては平板な印象がぬぐえないのだ。

 そんな中で、興味深いシーン。ベルリンを訪れた3人が、総統地下壕でヒットラーは自殺した、というガイドの説明に異論を挟み、「いつも米国のお手柄であるわけではない。ヒットラーはソ連軍が迫ってきたのでここで自殺した」と反論される。ヨーロッパを解放したのは米国を主力とする連合国軍、という通説への皮肉であろう。裏を返せば、かつてヨーロッパをヒットラーの手から解放したソ連軍はもういないのだから、ヨーロッパを守るのは米国しかないんだよ、と言っているようでもある。イーストウッドはそんなことが言いたかったのだろうか。

 いずれにしても、平板さと底の浅さを見るにつけ、イーストウッドも年を取ったな、と実感させられた一作である。

 

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排除される「異物」たち~映画「羊の木」 [映画時評]

排除される「異物」たち~映画「羊の木」

 

 刑務所を仮釈放された6人の男女が、国家の秘密プロジェクトによって過疎に悩む漁業の町・魚深に送りこまれる。10年間の居住義務がある6人は、いずれも殺人を犯すという過去を持っていた。このプロジェクトは、過疎の町の再生策になるのか…。

 受け入れに当たって、6人の過去は町民に伏せられている。6人相互にもしらされていない。こうして、のどかな町に拠点を移した6人は、それぞれに生活を始める。しかし、すんなりとはとけこめない。周囲の町民も、異物を見る目に変わってくる。こうした変化を敏感に感じた6人の心理にもさざ波が立ち始める。

 過疎対策としての元受刑者受け入れ計画の遂行を任された市職員月末一(錦戸亮)は6人と町民の間で右往左往するが、秘密プロジェクトなのでだれにも悩みを打ち明けられない。6人のうち、過剰防衛で殺人罪に問われた宮腰一郎(松田龍平)、元組員の大野克美(田中泯)の存在感が見事だ。特に松田が演じる宮腰は、一見普通に見えるが実は最も社会への適応力がなさそうな役柄をリアルに演じる。

 殺人を犯したとはいえ、罪は償っているのだから偏見なく社会は受け入れるべきだ、とか、善意で接すれば相手も善意で応じてくれるはず、とか、そうした性善説だけではどうにもならないものを映画は語る。それは何か。突然の闖入者を共同体は異物として無意識のうちに排除しようとする、そうした「得体のしれないもの」への本能的な動きではないか。

 映画では、「のろろ」という土俗信仰の祭りが登場する。これもまた、得体のしれないものである。ラストでは、この「のろろ」が、共同体への適応能力を欠いた宮腰を「成敗」するシーンがある。得体のしれない闖入者に対する共同体の不気味な動きを暗示していて興味深い。タイトル「羊の木」(羊のなる木)は、作中でもイメージとして登場し、タタールの言い伝えから来ているらしいが、地域共同体のメタファ(隠喩)と読めばいいのか。タイトルは理解できなかったが、作品そのものは面白い。

 山上たつひこ、いがらしみきお原作、「桐島、部活やめるってよ」「紙の月」の吉田大八監督。2018年。

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耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」 [映画時評]

耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」

 

 がんで余命を告げられた大林宜彦監督の作品。壇一雄の短編を映画化した。軍靴の足音が迫る時代の若者群像を描き、めくるめく168分に仕上げた。耽美的な映像に抵抗のある向きもあるかもしれないが、私自身はかつての鈴木清順や林静一「紅犯花」の遠い記憶を蘇らせるようで懐かしい思いがした。

 1941年、太平洋戦争が始まる直前の佐賀県唐津市の予備校が舞台。親元を離れ、アムステルダムから帰国した榊山俊彦(窪塚俊介)は、若い叔母・江馬圭子(常盤貴子)のもとで新学期を迎える。そこには肺を病む美しい従妹・美那(矢作穂香)がいた。利彦はやがて、級友の吉良(長塚圭史)や鵜飼(満島真之介)、美那の友人・千歳(門脇麦)らと交友を深める…。

 丘の上に立つ叔母の居宅は和洋混交で海が見え、アンニュイな気配が漂う。美那や、彼女を取り巻く少女たちも、貴族的な頽廃を漂わせている。俊彦の旧友・吉良は虚無的で合理的な頭脳の持ち主。鵜飼は美しい肉体に健全な精神を宿し、アポロンの神を思わせる。しかし、最も美しく存在感があるのは叔母の圭子であった。彼らは海辺へピクニックに出掛け、時に互いを傷つけ合い、たばこを吸い、酒を飲む。戦争が迫る中での、ささやかな抵抗…。

 こうして、耽美の極致ともいえる映像世界が展開される。もはや、ストーリーを丹念に追うことに意味はないだろう。映像の裏側に潜むエロスとタナトスと不穏な狂気。しかし、本当に狂っていたのは誰だ。突然現れる出征兵士の隊列。肺を病んで血を吐く美那。しかし、本当に病んでいたのは誰だ。若者たちか、それとも時代か。

 これまで多くの「青春映画」をつくった大林が、実はこんな映画を撮りたかった、といっているようだ。若者は、自身の手で生と死を選ぶ。それを国家などに勝手に押し付けられてたまるか。戦争の愚かさを、戦場ではなく日常世界の映像美で描いて見せる。その可能性を感じさせた映画だった。

 蛇足を言えば、壇の原作では物語の舞台は架空の町となっており、大林の証言(光文社文庫「花筐」から)によれば、壇の示唆によって「佐賀県唐津」に設定、その際、唐津くんちも舞台装置として入れたのだという。また、大林は先の証言の中で、壇から映画化の許可を得たのは1975年と明かしたうえで、戦争の時代を軍国少年として生きた経験からくる怯えが、自分に映画を撮らせている、と述懐している。そして、戦争の時代を懸命に生きた若者を描く「花筐」がこれほどにリアリティを持つ今の時代への「怯え」をも語っている。

 

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花 筐 (光文社文庫)

花 筐 (光文社文庫)

  • 作者: 檀 一雄
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2017/12/07
  • メディア: 文庫
 

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