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米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」 [映画時評]

米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」

 

 フロリダの黒人街を舞台に差別と貧困、いじめ、ドラッグ、ゲイの問題に焦点を当て、その中で生きていく一人の青年シャロンの内面を浮き彫りにした作品である。製作総指揮はブラッド・ピット。全編青を基調にした美しい映像とドキュメンタリータッチの迫真に満ちたカメラワークが貫かれている。ドラマ的なまとまりよりもそうした映画としてのタッチに比重が置かれている。その分、ストーリーの細かい説明は省かれ、やや難解である。

 3章に分かれ、それぞれ別の俳優がシャロンを演じている。ナイーブな少年期、いじめに遭いながら孤独と向き合う青年期、刑務所を出た後、筋肉という鎧を身にまとい、薬の売人としてのし上がる成年期―。

 ストーリーも、最後にすとんと腹に落ちるものではない。おそらく、読み方はいろいろだろう。何よりも、米国の現実に迫った作品。そんな評価が妥当であろうか。


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重厚で安定した映像美~映画「追憶」 [映画時評]

重厚で安定した映像美~映画「追憶」

 

 「駅 STATION」や「夜叉」「あなたへ」で高倉健を主役に、日本的な味わいの映像美を追求してきた降旗康男監督が、岡田准一を主役に据えて撮った新たな「降旗ドラマ」である。木村大作を映像監督に起用、日本海に沈む夕陽と北アルプスの山塊がドラマに奥行きを与える。

 海辺のスナック「ゆきわりそう」は、家庭の温かみを知らない三人のこどもたちにとって、つかの間の和みを共有する場であった。しかし、店を取り仕切っていた涼子(安藤サクラ)を訪ねてきた刑務所帰りの元やくざが平穏を乱し、三人はその男を殺してしまう。涼子は罪をひとり背負うことを決め、三人にその場の出来事を「忘れる」ことを約束させる。

 25年後、三人のうちの一人四方篤(岡田准一)は刑事になっていた。ある日、殺人事件の被害者があの時の一人、川端悟(柄本祐)であることを知る。経営する会社が傾き、金策の最中だった。捜査するうち、悟は何度か、土建屋を営む田所啓太(小栗旬)から金を渡されていたことを知る。田所も、あの時の三人のうちの一人である。事件をネタに悟がゆすっていたのではないか…。自らの出自に潜む秘密と刑事としての倫理のはざまで揺れる篤。「事件」を背負って自首し、刑務所内で元やくざの子を産んだ涼子は今どこに。調べていくうち、涼子の子が田所の妻であることを知る。

 涼子はある事故によって車いす生活を強いられ、認知症のため記憶もなくしていた。そんな涼子を篤は訪ねる…。

 幼少期の事件を心の中に抱え、その後ある事件の刑事、被害者、容疑者として再会するという展開はC・イーストウッド監督「ミスティック・リバー」を思わせる。そこに日本海の冬の波と夕陽、北アルプスの雪山が物語のフレームとしてかぶせられれば、「駅」や「夜叉」と並ぶ日本的映像美の極致ともなる。印象的なのは夕陽を背にした涼子が青いセーターを着ているシーン。青はスペインでは誠実の色とされ、聖母マリアが青をまとっていることで知られる。夕陽と青が、涼子をマリアに昇華させるのである。こうした映像美とともに、岡田准一、安藤サクラの重厚で安定した演技が光る。

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無人兵器の非倫理性を問う~映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」 [映画時評]

無人兵器の非倫理性を問う~
映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」

 

 米国は、かつてのように圧倒的な軍事力で世界を制圧できなくなっている。特に、米ソ冷戦が終結しテロリスト勢力との非対称戦を迫られるようになってその傾向が強まった。そのため、無人攻撃機を多用しようという機運が高まっている。しかし、こうした軍事戦術には批判も多い。自身を安全地帯に置きながら機械(ロボット)によって敵を殺害することの非倫理性【注】。そして、誤爆によって一般市民を巻き込み犠牲にするケースが避けられないことなどによる。しかし、無人攻撃機による戦争は確実に広がりを見せている。

 こうした現代の戦争を描いたのが「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」である。舞台はアフリカ、ケニアのナイロビ。しかし、指揮を執る人間はそこにはいない。「現場」があるだけだ。ロンドンと米ネヴァダに映し出されるモニターを確認しながら命令と実行が行われる。

 ナイロビの一角にソマリアから流れてきたイスラム過激派アル・シャバブが潜むことを突き止めた英軍諜報機関のキャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)は、フランク・ベンソン国防相(アラン・リックマン)とともに、上空6000㍍にいる米無人攻撃機を使って米英統合による捕獲作戦を遂行しようとする。ところが、攻撃目標の近くにパンを売る現地の少女がいることが分かる。さらに、標的の家屋内では若者二人による自爆テロの準備が進められていることが判明する。

 無人兵器による攻撃を猶予すれば、自爆テロは実行されるだろう。その結果、80人もの犠牲者が出ることが予測された。しかし、そのために少女を見殺しにできるのか。攻撃を延ばせば、準備の確証をつかみながら、自爆を阻止できなかったと世界は非難するだろう。ミサイル攻撃によって少女を殺せば、やはり世界は非難するだろう。特に、テロリストたちには格好の宣伝材料になるだろう…。

 最後にはテロリストも殺害し少女も救われた、などというハッピーエンドの甘いお話ではない。戦争とは何か、戦争が根源的に持つ非人間性、そしてそれを増幅させる無人攻撃機の存在。「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」と並ぶ、現代の戦争を告発した秀作だ。2015年、英国製作。

 

【注】世界史を見ると、戦争は第一次大戦直後を除いて違法化されていない。これは、対話による問題解決が困難になった場合に限り、敵対する関係国が兵を出し合って暴力的に戦い、その結果をもってどちらが服従するか結論を得る「決闘の論理」に依拠しているためと思われる。その場合、兵士は制服によって所属国を明確にする必要があり、原則として市民を巻き込まないことが求められる。しかし、ゲリラによる非対称戦が「普通の戦争」になった現在、こうした思想は崩れつつある。その場合、それでも戦争を人間でなく機械に代用させることは倫理的な問題にならないのか。これは現代の戦争の是非をめぐる大きな命題と思われる。

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悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」 [映画時評]

悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」

 民族のジグソーパズルといわれたユーゴは1943年の独立以来、チトーという稀有の指導者によって辛くも保たれた。1980年にチトーが亡くなり、1989年にベルリンの壁が崩壊してユーゴ共産党の屋台骨が揺らぐと、パズルのピースが散乱するのは早かった。ユーゴは五つの民族の寄せ集めといわれたが、中でもクロアチアとセルビアの反目は激しかった。底流には第二次大戦中、クロアチア人によるナチ傀儡政権が、ユダヤ人だけでなくセルビア人の虐殺を行ったことがあるとされる。1991年、クロアチアがユーゴからの独立を宣言。彼らの居住地域の少数派だったセルビア人は危機感を強めた。クロアチアとセルビアの悲惨な紛争が起き、95年まで続いた。
 映画は、こうした時代背景の中で三つの物語を紡ぐ。一つは1991年。紛争直前のアドリア海沿岸で引き裂かれたセルビア人の娘イェレナとクロアチアの青年イヴァン。二つの村の境界線にはセルビア人が作った検問があった。ザグレブ(現在のクロアチアの首都)へと向かう計画を立てた二人だが、イェレナは家族に引き戻される。彼女を取り戻そうとしたイヴァンに悲劇が起きる。
 二つ目は2001年、紛争後のクロアチア。セルビア人の母とその娘ナタシャが荒れ果てた自宅に戻る。クロアチア人の若者アンテに修理を頼むが、お互い紛争の憎しみと心の傷は消えることがない。そんな中でアンテとナタシャはひかれあう。
 三つ目は2011年、ほぼ現代といえるクロアチア。帰郷した大学生のルカは、かつてのセルビア人の恋人マリヤを訪れる。紛争のさなか、ルカは身ごもったマリヤを捨てた過去を持つ。許しを乞うが、「もう終わったの」と冷たくされる。一晩、享楽の中に身を置いたルカは、再びマリヤのもとを訪れる。
 3編の中で、特にこの編の終わり方がいい。語りすぎず、伝えるべきものを伝えている。
 旧ユーゴは、世界でも例を見ないほど悲惨な戦いの地だった。戦う相手は、昨日までの隣人だった。それだけに心に残った傷は深い。悲しみ、憎しみ、絶望。それを癒やすものは、愛しかない。そんなメッセージが伝わってくる。アドリア海のきらめく光が、この地の持つ悲劇性を際立たせる。
 3編とも男性をゴーラン・マルコヴィッチ、女性をティハナ・ラゾヴィッチが演じた。2015年、クロアチア、スロベニア、セルビア共同製作。監督・脚本ダリボル・マタニッチ。


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この国のかたちが危うい~映画「標的の島 風かたか」 [映画時評]

この国のかたちが危うい~
映画「標的の島 風かたか」

 三上智恵監督作品「標的の島 風かたか」を観た。2016年4月に起きた米軍基地関係者によるうるま市の女性殺害事件への抗議集会(6月)のシーンから始まる。稲嶺進・名護市長が、苦渋の表情で語る。「我々はまた風かたかになれなかった」。「風(かじ)かたか」とは風よけのこと。市民、民衆が一人の女性さえ助けることができなかった。そんな思いを語っている。しかし、その前に国は民衆の「風かたか」になっているのか。そんな問いが全編を貫く。
 アジア・太平洋戦争末期、日本軍10万人が沖縄に駐留した。沖縄を守るため、と誰しもが思った。しかし、日本軍は沖縄の民衆を守らなかった。あるときは盾にし、あるときは足手まといだとして自死を強いた。軍は民を守らない。そのことが、沖縄の民の揺るがぬ歴史の教訓として今も息づいている。基地に立ち向かう沖縄の民のそうした精神の土壌が、沖縄の民俗芸能を交えた厚みあるシーンの中で語られる。
 映画はさらに宮古島、石垣島で進むミサイル基地建設、自衛隊基地をめぐる自治体と民衆の闘いを追う。先島諸島では、中国に対する軍事的抑止の名のもとに日米一体の軍事要塞化が進められている。いったん標的になった島の島民はどこに逃げるのか。そう考えれば、先島は本土防衛のための捨て石であることが分かる。本土の「風かたか」である。
 2016年夏の参院選では島尻安伊子・沖縄北方相が大差で落選、伊波洋一・元宜野湾市長が当選した。これ以上ない「基地へのノー」が示されたにもかかわらず、政府は翌日から高江のヘリパッド建設に着手した。辺野古新基地建設も、政府は埋め立てを強行する構えだ。こうした流れの中で、末期がんと宣告された山城博治さんの命がけの闘いが続く。
 こうした「沖縄の闘い」を前2作(「標的の村」「戦場ぬ止み」)と同様に三上監督は追い続けるが、けっして作風は深刻でも暗くもない。沖縄の民俗芸能を交え、民のたくましさと明るさを前面に押し出している。
 上映後、詩人A・ビナードさんとのトークで三上監督は「この映画は、沖縄が大変だからみんなで助けましょうといっているのではない。ほっておけばこの国の民主主義が大変だ、ということ」と語っていた。「沖縄」の問題としてではなく「この国」の問題としてとらえることができるか。



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前半の映像がなかなかいい~映画「ライオン」 [映画時評]

前半の映像がなかなかいい~映画「ライオン」

 私はどこから来てどこへ向かおうとしているのか。だれしもそのことを気に掛ける。アイデンティティへのこだわりである。これをなくすと単なる根無し草になる。昔「デラシネの旗」(五木寛之)という小説があったが、よほどの熱い季節をくぐり抜けてこないと、なかなかそんな気にはならない(注:デラシネはフランス語で根無し草)。
 映画「ライオン」は、自分はどこからきたかを見失った青年が、現代の情報ツールを使ってルーツを探り当てる話である。
 2012年、あるニュースが世界を駆け巡った。オーストラリアに住む青年が、インドの母のもとへ25年ぶりに帰ってきたという。
 1987年のインド。5歳のサルー(サニーパワール、成年後はデブ・パテル)は、兄とともに仕事を求めてある駅のプラットホームに立った。兄はそこから一人でどこかへ向かった。ベンチに残された少年は、たまたま来た列車に乗り込んだ。乗客のいない列車だった。少年の叫びを無視してひたすら走った。
 着いたのは西ベンガルのカルカッタ。少年は保護されたが、どこから来たのさえ分からない。少年はオーストラリア・タスマニアの夫婦(デビッド・ウェンハム、ニコール・キッドマン)のもとに引き取られた。そして25年。
 アイデンティティへの渇望から、青年はかすかな記憶を頼りに自分のルーツを探る。乗った列車は2、3日走り続けた。当時の列車の運行速度を調べれば、自分の出生地を割り出すための範囲を特定できる。そのエリアをグーグルアースで徹底的に調べて、見覚えのある景色を発見できれば、自分がいた場所はわかるはずだ…。
 25年という時間を区切りとして、映像は前半と後半でくっきり分かれる。少年の視線を通して描かれるインドの大地と貧困と人口爆発。それに、帰るべき家を見失った少年の孤独な叫びが重なる。その映像美は、不在の父を追ってドイツへと向かう姉弟の列車の旅路を描いたテオ・アンゲロプロス「霧の中の風景」の孤独感漂う叙事詩を思い起こさせる。
 しかし、グーグルアースによる「検索」を描いた後半はむしろ淡々としていて物足りない。映像的には、前半の重さと後半の軽さがアンバランスだ。
 タイトルの「ライオン」は、いただけない。ストーリーの展開と全くかみ合わず、最後のナレーションを聞くまで、なぜこのタイトルなのか理解できなかった。
 2016年、オーストラリア製作。


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戦争の非人道性を正面から描く~映画「ヒトラーの忘れ物」 [映画時評]

戦争の非人道性を正面から描く~映画「ヒトラーの忘れ物」

  デンマークは第二次大戦中、ナチによってほとんど戦闘もないまま占領・保護下に置かれたが、ドイツ降伏によって19455月解放された。戦時中、ナチスドイツは大西洋の壁と称して長大な海岸線防御網を構築。特に、遠浅が続くデンマークの海岸線は米英の上陸作戦を警戒、莫大な数の地雷を埋めた。
 現在は、対人地雷禁止条約(オスロ条約)によって国際的には戦争中であっても地雷を埋める行為は禁止されている。しかし、米中露が批准しておらず、効果は疑問符がつく。実際、今も多くの紛争地域で無数の地雷が使われていると思われる。米中露3カ国が批准しない背景には朝鮮半島情勢があるともいわれる。38度線を挟んで「休戦状態」である朝鮮半島では戦争は継続状態にあり、休戦ライン周辺には莫大な数の地雷が埋め込まれているとも聞く。こうした情勢が、対人地雷全面禁止を求める国際世論に影を落としている。
 再び1945年のデンマークに戻る。映画では、ナチスドイツによる対人地雷の敷設を含め、三つの非人道的な行為が描かれている。一つは少年兵の存在。これも現在ではジュネーブ条約などで禁止されているが、発展途上国などではいまだに少年兵が存在する。もう一つは、地雷撤去に捕虜を使うという、ジュネーブ条約違反(捕虜虐待)。
 ここでいう三つの非人道的行為は、すべてナチスドイツに責任があるとは言い難い。英国からの指令によるとされているが、捕虜を非人道的に扱った行為は、デンマークの歴史的な闇の部分といえるだろう。
 映画は、19455月、即ちドイツ降伏の時点から始まる。デンマークの軍曹(イギリス風の軍服を着ている)が、ドイツの少年兵11人をある海岸に連れていく。任務は、少年兵に地雷の扱いを教え、45000個を撤去すること。しかし、誤爆が相次ぎ、少年兵は4人に減ってしまう。ようやく地雷撤去を終えたと思ったとたん、軍上層部からはスカリンゲンの海岸に埋められた72000個を撤去するよう命令が下る…。 デンマークの海岸線には総数150万個の地雷が埋められたといわれ、母国へ帰還できなかったドイツ兵2000人が撤去作業に従事、約半数が命を落としたという。そして、スカリンゲンの海岸には今も撤去されない地雷が残るという。
 ドイツ、デンマーク合作。両国にとっては、触れられたくない戦争の傷跡であるに違いない。にもかかわらず、フィクションであるとはいえ、このようなシリアスな映像にする見識の確かさに敬意を表したい。

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戦時下にしては甘すぎるストーリー~映画「マリアンヌ」 [映画時評]

戦時下にしては甘すぎるストーリー~映画「マリアンヌ」

  1942年の仏領モロッコといえばあの名作「カサブランカ」を思い出すが、この映画ではイントロの舞台設定に使われているだけのようだ。第2次大戦下のラブストーリーという意味では共通するが、それ以外ではほとんど共通点はない。監督は「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」「フォレスト・ガンプ」のロバート・ゼメキス。というわけで、かなりの力作と思いきや、意外に凡作だった。
 カナダ人諜報員マックス(ブラッドピット)が落下傘で砂漠に降り立つ。カサブランカに向かい、仏の女性諜報員マリアンヌ(マリオン・コティヤール)と合流する。狙いは夫婦を装ってドイツ大使に近づき、殺害することである。目的を果たした二人はロンドンに逃亡するが、工作を通じて偽装ではない「愛」が芽生える。
 空襲下ではあるが、ロンドンで二人は幸福な日々を過ごす。しかし、あるときマックスは衝撃的な情報を受け取る。ロンドンからドイツ向けに軍事情報が発信されており、発信源はマリアンヌではないかとするものだ。そしてマリアンヌは既に1941年に死亡しており、現在のマリアンヌは別人だとするものだった。マックスは濡れ衣と信じ、かつてマリアンヌと行動を共にした仏レジスタンスのメンバーを捜す。そして、その結果は…。
 最初に書いたように、スパイミステリーとラブストーリーを組み合わせてあるだけに、どうしてもラブストーリーの甘さが勝ってしまっている。ラストシーンも、どこかで整えられた「愛の物語」ふうの感じ、つまり「都合のよさ」が抜けない。
 名監督ゼメキスに言うのもなんだが、例えば現在と戦時を交互に組み合わせた「入れ子」風の展開にできなかったのだろうか。そうすれば、二人の子アナの存在も生き、物語に緊迫感が生まれてくるだろう。どうみてもこれでは、戦時と思えぬ緊迫感のなさと砂糖菓子のような甘さが気になってしまう。


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「文明と人間」を考えさせる~映画「ハドソン川の奇跡」 [映画時評]

「文明と人間」を考えさせる~映画「ハドソン川の奇跡」

 いわゆるアメリカン・ヒーローたちの知られざる内面的葛藤、という意味では、同じクリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」があった。イラク戦争を舞台に狙撃兵の苦悩を描いたものだけに、その愛国主義的映像に若干うんざりさせられたが、今回は、経験と機転によって飛行機事故から乗客を救った機長の物語。政治的な色彩はなくその分、安心して楽しめる。
 真冬のハドソン川にUSエアウェイズ1549便が不時着水したのは2009115日。その時のようすを記憶している。むしろ、危険を顧みず乗客の救出に向かったNY市民の勇気がメディア上でたたえられた印象が強い。機長はむしろ、最初から最後まで「ヒーロー」であったように思うが、日本での情報は限られている。この映画のような事態があったことは容易に推測できる。
 機長のチェズレイ・サレンバーガー(愛称サリー、=トム・ハンクス)は42年のキャリアを持つベテランである。この日もラガーディア空港を難なく飛び立った。しかし、直後にカナダガンの群れに遭遇。鳥が飛びこんだため、両方のエンジンが同時停止という緊急事態を迎える。高度わずか850㍍。ラガーディア空港に引き返そうとするが、推力不足であきらめざるを得ない。近隣の空港へ向かうのも絶望的な事態だった。下手をすればニューヨークのビル群に激突する。その時、目の前にあったのはハドソン川だった―。コックピットの緊迫したやりとり。高度を下げ、機体を水平に保ちながらの着水。
 機長は、絶望的な状況の中で乗客全員の命を救ったと、たちまち英雄視される。しかし、ここでNTSB(国家運輸安全委員会)の手が入る。飛び立った空港か隣接の空港に着陸することもできたのに、乗客を不要に危険にさらしたのではないかというのだ。飛行42年のベテランは、わずか208秒の機体操作の是非をめぐって罪に問われようとしていた。
 公聴会では、あらゆるシミュレーションが展開された。しかし、シミュレーションはあらかじめシナリオが想定されている。ぎりぎりの局面で判断する、その時間はどこに組み込まれているか。コンピュータにヒューマンファクターはどう組み込まれているか―。それが最終的に問いかけられる。
 この結末は、実は逆のことも言っているように思える。航空機だけでなく、我々はコンピュータの制御によって安全を保障されている。しかし、そこに寄りかかってしまうと思わぬヒューマンエラーを犯すことがある。そうした人間的な過誤は、あらかじめコンピュータに組み込まれているだろうか。人間は時にコンピュータを超えることがあるかもしれないが、コンピュータに寄りかかったために過ちを犯すこともある。そうした「人間と文明」という骨太のテーマが、ここにはあるように思う。クリント・イーストウッド監督は相変わらずうまい。


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「いま」の時代に、どう読むべきか~映画「沈黙 SILENCE」 [映画時評]

「いま」の時代に、どう読むべきか

~映画「沈黙 SILENCE

  遠藤周作が1966年に発表した小説の映画化である。17世紀、江戸時代初期の日本。キリスト教弾圧が熾烈を極めたころ。ポルトガルのイエズス会宣教師・ロドリゴとガルペは、自らの師ともいえるフェレイラが弾圧に屈して棄教したと聞き、その事実を確かめようと日本に渡る。そして、苛烈な弾圧の中でガルペは信者たちに寄り添い、命を落とす。ロドリゴは、案内役だったキチジローの裏切りによって獄につながれる…。
 苛烈な弾圧を目撃する中で、踏み絵を踏まないとはどういうことか、神は弱者には寄り添わないのか、という「神と人間」「信仰と人間」をめぐる極めて深い問題が提示される。
 しかし、この映画は、そうした問題にとどまらないものを、我々に示している。既に棄教したフェレイラはロドリゴと再会し「この国はすべてのものを腐らせる沼だ」と述懐する場面がある。日本の思想風土は、キリスト教の本来のかたちである「唯一絶対神」を、今の時代でも認めない。すべての神を相対化する。もちろんそれは「神」に限ったことではなく、日本の思想風土はすべての外来思想を相対化する。 ここから見えてくるものは、キリスト教という外来思想(=近代)と、それを拒む反近代の構図であり、その相克の先にある思想と生活の問題、すなわち「『転向』とは何か」である。遠藤周作が、そうした問題意識の中でこの小説を書いたかどうかは寡聞にして知らないが、少なくとも1960年代という時代の中で、そうした読み解き方をされたのではないか、とは容易に推測できる(私も、そうした読み方をした記憶がある)。
 この物語は、封建的な江戸時代にこんなことがあったね、というだけでなく、現代においてどういう意味を持つのか、という読み方をすべきだろう。多少青臭い表現をすれば、「イデー(理念)」と「現実」の落差をどう受け止めるのか、信仰という理念に生きることは美しいかもしれないが、ではそこで弱者はどう生きるのか、という大テーマが背後に横たわっている。マーティン・スコセッシ監督が「いま」という時代に、この「沈黙」の映画化にこだわった理由も、そこにあるのではないか。


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