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やはり戦場に赴くことを拒否すべきでは~映画「ハクソー・リッジ」 [映画時評]

やはり戦場に赴くことを拒否すべきでは
~映画「ハクソー・リッジ」

 

 非暴力主義に立ち、良心的兵役拒否を貫きながらも祖国愛から志願し、衛生兵として従軍。沖縄戦で75人の米兵を救ったとされる実在の人物を描いた。

 「なんじ殺すなかれ」という宗教的な教えを固く守るデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は祖国への忠誠を誓い、第2次大戦で陸軍を志願。しかし、銃を持つことを拒否し、軍法会議にかけられる。周囲の助けもあって信念を理解されたドスは、武器を持たず前線に赴くことを許される。そこは1945年5月、日本本土決戦を控えた沖縄だった。

 ハクソーとは弓のこぎり。沖縄の浦添城址にある前田高地の地形を見て米軍が名付けた。沖縄戦では本島の北谷海岸に米軍が上陸、南へ転じ嘉数高地、前田高地を攻撃した。さらに南には首里城があり、そこには日本軍の司令部があった。日本軍にとって前田高地は落としてはならない拠点だった。必然的に前田高地をめぐる戦闘は激烈を極めた。日本軍もだが、米軍にも多数の死傷者が出たとされる。しかし、負傷者を後衛に送り返すにはハクソー(弓のこぎり)と呼ばれる急峻な地形がネックになった。そこでドスがとった行動は…。

 ドスがどのような精神形成期を経たかを追った前半の牧歌的な運びと違い、後半はトゥーマッチとも思える血なまぐさいシーンが続く。良心的兵役拒否者が戦場での働きによって後に大統領から名誉勲章を受けるに至るという、針の穴を通すようなストーリー展開からすれば、この凄惨なシーンは必要だったのだろう。

 沖縄戦体験者ではないので、これらのシーンがどこまで史実に忠実かどうかは断言できない。浦添市のホームページなどを見る限り否定的なコメントはないが、一方で沖縄戦の実態とはかけ離れている、という声も聞く。それらを踏まえたうえで、いくつかの基本的な疑問を呈する。

 沖縄戦にあたって、日本軍は防衛拠点を築くべく戦艦大和を向かわせたが、米軍機の集中攻撃によって鹿児島沖で撃沈され、制空権、制海権は完全に米側が掌握していることが立証された。事実、沖縄本島上陸に当たっては「鉄の暴風」と呼ばれた大量の艦砲射撃が行われ(地形まで変わったといわれる)、その後、米軍が上陸した。制空権も米側にあったはずだから、米機による援護もあったと思われる。こうした一方的な戦況下、日本軍は住民を巻き込み、ガマ(壕)に潜んで米軍を迎え撃つという戦法(住民を盾にする戦法)が主力だったと思われるが、その描写がない(その前に、米機による援護射撃のシーンがない)。これは意図的なものなのか。

 前述したように、衛生兵ドスの勇敢さと功績を浮き彫りにするには、まず戦場の凄惨さを強調する必要があり、日本軍の抵抗がどれだけ頑強であったかを描く必要があったということだろうか。そうだとすれば、少なくとも、戦場で英雄的な行動をした一人の衛生兵に焦点を当てた、あくまでも米国サイドの視点で作られた作品という見方はできるだろう。

 もう一つ言えば、ここまで良心的兵役拒否を貫くのであれば、最終的に兵役につくことを拒否してもらいたい。自らは銃を持たずとも、戦場では後衛として「功績」をあげることで、戦争(=殺し合い)に加担したという批判は逃れようもないからだ。実在の人物を追ったとはいえ、やはりそこに作品の限界があると思う。

 監督メル・ギブソン、2016年、米国。


ハクソーリッジ.jpg

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老境の寂寞と60年代ポップアートが交錯~映画「僕とカミンスキーの旅」 [映画時評]

老境の寂寞と60年代ポップアートが交錯

~映画「僕とカミンスキーの旅」

 

 こんな面白い映画を見たのは久しぶりだ。悲喜劇のようであり、ロードムービーのようであり、そしてそのどちらにもはまらない。カミンスキーは実在の人物のようであり(ということは実在の人物ではないのだが)、老境の寂寞と孤独感はずしりと重く、しかしテンポはよく、ところどころに気の利いた蘊蓄あるセリフが散りばめられている。

 カミンスキー(イエスパー・クリステンセン)は1960年代、アンディ・ウォーホルらとともに一世を風靡した盲目?の画家である。マチスの弟子であり、ピカソの友人でもある。しかし、今はスイスの山中で隠遁生活を送っている。

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)はヒトヤマあてようとカミンスキーの評伝を書くべくアタックする。カミンスキーの娘ミリアム(アミラ・カサール)にも軽くあしらわれ、どことなく招かれざる客であるゼバスティアンだが、なんとか元画家の懐に飛び込む。カミンスキーには若き日の恋人テレーゼ(ジェラルディン・チャップリン)がいた。彼女に会うため、ゼバスティアンとカミンスキーのドタバタ道中が始まる。

 しかし、やっと会ったテレーゼは昔のテレーゼではなかった。同居人と暮らし、カミンスキーにけんもほろろ(というか、彼女には彼女の「日常」が既にあった)の対応を取る。失意のカミンスキーは「海を見たい」と言い、二人で海岸を訪れる。

 60年代のポップアートの「空気」があちこちに漂い、絵画と映画の融合が試みられて観るものを心地よくさせる。カミンスキーとテレーゼの関係が、ミリアムによって既に「清算」されていることなど、ちょっと辛口に美術界の裏側を見せて興味深い。

 蘊蓄あるセリフといえば、こんなのがあった。達磨大師の弟子が「私にはもう何も捨てるものがありません」というと大師は「その、捨てるものがないという執着を捨てなさい」と諭す。カミンスキーがゼバスティアンに語った寓話である。二人の関係を暗示したようで奥は深そうだが、実際何を言っているのかはよく分からない。ただ、この伏線に沿ってセバスティアンは取材で得たノート、音声テープすべてを海に捨て去る。

 うーむ、やっぱり深い。

 監督は「グッバイ、レーニン」のヴォルフガング・ベッカー、秀逸の原作はダニエル・ケールマン。2015年、ドイツ、ベルギー合作。


カミンスキー.jpg

 


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心理描写が粗雑、足りない時代背景~映画「光をくれた人」 [映画時評]

心理描写が粗雑、足りない時代背景~映画「光をくれた人」

 

 比較的評価の高い作品のようなので見たが、正直いって期待外れだった。第一の理由は、物語のフレームが説明不足であることと、作品内での心理描写があまりにも粗雑であるためであろう。

 トム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は第一次大戦(19141918年)でオーストラリアからフランス戦線に参加、激しい戦闘で心に深い傷を負う。その傷を癒やすため、オーストラリアの絶海の孤島ヤヌスの灯台守として暮らす決意をする。そんなトムにイザベル(アリシア・ビカンダー)はひかれ結婚、ともにヤヌスで暮らし始める…。

 オーストラリアは英国の同盟国であるから、当然連合国軍の側に立ち、ドイツを中心とする勢力と戦った。第一次大戦は世界史上最初の機械化された戦争であり、その前線の模様は残虐極まりないもので、レマルクの「西部戦線異状なし」でも描かれた。こうした時代背景は一片のセリフではなく、物語の一部として語られないと説得力はない。

 イザベルは島で二度妊娠するが、流産してしまう。悲嘆にくれていると島にボートが漂着する。男と女児が乗っており、男は既に死んでいた。イザベルは、女児を我が子として育てようとする。トムは反対するが、ついにはイザベルの主張を認める。

 この作品は「愛の物語」または「ラブストーリー」として紹介されることが多いが、看板に偽りありと思う。この展開は愛の物語でも何でもない。ただの短慮と身勝手の物語である。後にイザベルは我が子を失った実の母の哀しみを知って心を改めるが、身もふたもない言い方をすれば、そんなことは最初から分かっていなければならない。

 ルーシーと名付けた女児の洗礼の日、偶然にもトムは実の母のことを知る。迷いながらも、真相を伝えることを決意。一切の罪を自らかぶり投獄されようとしたとき、イザベルは自らも罪びとであることを告白する。このあたりの舞台回しは観客に感情移入を求めるよう、計算されている。

 実の母ハナ(レイチェル・ワイズ)は、ヤヌス島に最も近い町パートガウス(イザベルが住んでいた街でもある)の資産家の娘だった。ドイツ人の男と結婚したため勘当同然の扱いを受ける。街の若者とのトラブルを避けるため、ドイツ人の男は娘を連れボートで海へ出る。そしてヤヌス島へ漂着する。

 ドイツ人と結婚したことが、なぜ親たちの逆鱗に触れたか。ここにも、前述したような第一次大戦の傷跡を見ることはできようが、その説明は一切ない。ドイツは敵国だったのである。

 漂着ボートに乗った男は生きていたかどうか。生きていたとすればトムには殺人の嫌疑がかかる。実際、トムが問われたのは殺人と誘拐の罪だった。その殺人の嫌疑は後に晴れたのかどうか、物語の展開でははっきりしない。

 ハナのもとに娘は帰ってくる。しかしハナは、彼女がイザベルを慕っていることに衝撃を受け、イザベルのもとに返すとともに二人の減刑を警官に申し出る。一方でトムとイザベルは、島で育てるよりハナのもとに返したほうがいいという結論に達する。

 30年近くたって、一人暮らすトムのもとをルーシーが訪れる。イザベルは既に世を去っている。トムはルーシーにイザベルの遺書ともいえる手紙を渡す。それを読んだルーシーはイザベルの思いを受け入れ、再びトムのもとを訪れることを約束する。

 これでいいのかな、と思えるほど登場人物すべてが許し合い、そして大団円である。「灯台守」の暮らしを描いた「喜びも悲しみも幾年月」(1957年、木下恵介監督)には戦争をくぐり抜ける夫婦のたくましさがあった。「そして父になる」(2013年、是枝裕和監督)は、偶然がもたらした生みの親と育ての親の困惑と成長ぶりを、こまやかな心理描写の中で浮き彫りにした。そうした作品に比べて、この「光をくれた人」はあまりにも粗雑に思う。
 2016年、米・豪・NZ合作。


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緻密な心理描写~映画「セールスマン」 [映画時評]

緻密な心理描写~映画「セールスマン」

 

 監督は「別離」のアスガー・ファルハディ(イラン)。なんでもない日常の中に潜む危機を描きだして、見るものに戦慄を覚えさせた。この「セールスマン」もまた緻密に作りこまれた「日常の中の危機」の物語である。

 教師エマッド(シャハブ・ホセイ)は妻ラナ(タラネ・アリドゥステイ)と小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の上演を控えている。そんなある日、住んでいるアパートが付近の工事の手違いで崩壊の危機にさらされる。やっと見つけた新たな住まいには、以前の住人の荷物が置かれたままだった。

 引っ越しを済ませた二人にある日、思いがけない出来事が起きる。舞台のけいこを済ませて先に帰宅したラナが入浴中、誰かに襲われたのだ。前の住人だった女性と関係のある人物だと推理したエマッドは、ついにある人物にたどり着く。しかし、ラナは心の傷を抱えながらも、そうした夫の姿に同意できないものを感じている。そして、憎悪でも復讐の念でもなく、二人がとった行動は―。

 ファルハディ監督の緻密な心理描写は、相変わらず見事である。日常の薄皮一枚下に潜む感情のもつれ、価値観の違い、それらがもたらす人間関係の亀裂を鮮やかに浮き彫りにする。このあたりのこまやかさは、日本映画に通じる。「セールスマンの死」は第2次大戦後の米国市民の家庭崩壊、親子の断絶、若者の挫折感などを描き出したが、この有名な演劇が作中で演じられる。現代イラン市民にも、こうした精神風景が広がりつつあることを示唆していて興味深い。

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単純が生む面白さ~映画「ノー・エスケープ 自由への国境」 [映画時評]

単純が生む面白さ~
映画「ノー・エスケープ 自由への国境」

 

 トランプ大統領の選挙中の公約に、米国とメキシコ国境に壁を造るというのがあった。まだあきらめていないらしいが、移民排斥の動きは、トランプ大統領だけでなく米国民の感情の底流としてあるのだろう。この映画も、そうした感情を織り込みながら米国・メキシコ国境で起きていることを映像化した。

 といっても、政治的色彩はまったくない。追うものと追われるもの、撃つものと撃たれるもののせめぎ合いを映像化した。スティーブン・スピルバーグ監督の初期作品「激突!」は、ひょんなことで巨大トレーラーにつけ狙われる男の恐怖感を描いたが、それに似た味わいがある。ストーリーは単純明快、余計な説明などない。「ノー・エスケープ」のスタッフは「ゼロ・グラビティ」と同じというだけに(監督はアルフォンソ・キュアロンの息子ホナス・キュアロン)、作品のコンセプトは共通している。絶体絶命の環境の中でどう生きのびるか、それだけを追った。

 米国へ不法移民を試みるモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)らメキシコ人16人を乗せたおんぼろトラックが行く。ところが砂漠のど真ん中でエンスト、ブローカー2人とともに歩いて横断する羽目に。そこへウサギ狩りに興じるサム(ジェフリー・ディー・モーガン)が出くわす。国境を越えて入り込むメキシコ人たちを快く思わないサムはライフルで次々と狙撃していく。そして「ここは俺の国だ。邪魔はさせん」と叫ぶ。

 ただそれだけのストーリーだが、単純なだけに緊迫感は嫌がおうにも盛り上がる。「ゼロ・グラビティ」は宇宙空間が人間の生存を阻むが、「ノー・エスケープ」では砂漠が人間の生存を阻む。灼熱の太陽、水も食べ物も武器もなく、サボテンの下にはガラガラヘビ。追ってくるのはライフルと獰猛な猟犬。さあ、どうする…。

 

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超監視社会への流れを告発~映画「スノーデン」 [映画時評]

超監視社会への流れを告発~映画「スノーデン」

 

 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が711日付で施行された。多くの市民が懸念するように、複数の人間で特定の意思表示を企てただけで処罰の対象になりかねない。その前段として「企て」を立証するために、権力を行使する側の膨大な監視行為が行われる。

 国会での議論で、政府は「一般人が対象になることはない」といいながらも「目的が一変して犯罪集団とみなされた場合には、もはや一般人ではない」と答弁、抜け道を作った。「目的が一変した」ことを見定めるには一般市民への常時監視が必要であり、そのうえで犯罪集団とみなすのはあくまでも捜査機関である。「一般人が対象とはならない」というのは、論理矛盾というほかない。

 森達也著「すべての戦争は自衛から始まる」で、90年余り前の新聞記事が紹介された。ある学生から見せられたという。1925年、治安維持法が国会で成立したときのものだ。森はこれを見て「呆然とした」という。そしてこう続けた。「ここ数日の見出しと変わらないじゃないか」。その見出しとは、例えばこうである。

 「赤」の定義で押し問答/定義はハッキリせぬが/この法律だけは必要だという

 治安維持法は/傳家の寶刀に過ぎぬ/社會運動が同法案の為抑壓せられることはない

 ここでの「赤」は、現在では「犯罪集団」と置き換えられるだろう。それを除けば、90年以上もたって、代わり映えのしない議論をしているのである。治安維持法がその後、国家総動員体制に異を唱える人々にどれほどの威力を発揮したかは、いうまでもない。

 こうした動きは、日本に限ったことではない。世界共通、権力の習性というべきものであろう。だからこそ「監視への欲望」をむき出しにする権力への「監視」が必要になる。

 映画「スノーデン」は、オバマ大統領のもとで進められた米国の国民総監視体制を白日にさらした人物にスポットをあてた。エドワード・スノーデンが軍役で訓練中に重傷を負い除隊、その後、情報工作の才能を買われてNSA(国家安全保障局)やCIA(中央情報局)と接触を持ち、膨大なインターネット、電話の傍聴の事実を知る。それを、英ガーディアン紙などを通じて暴露、香港からロシアまでの亡命行までを描いた。

 監督のオリバー・ストーンは「7月4日に生まれて」や「プラトーン」で米国の裏面を描き、ピーター・カズニックとの共著「もう一つのアメリカ史」で米国の戦後史を塗り替えた。彼の作品に対しては、いつも賛否両論がある。「スノーデン」も、畳みかけるような細かいカットの連続で、分かりやすいとはいいがたい。しかし、傍聴・監視の事実を告発したスノーデンに対して「単なるハッカー」と切り捨てたオバマ大統領への怒りは、スクリーンを通してダイレクトに伝わる。

 ジャック・アタリは「21世紀の歴史」で近未来の世界を描き、民主主義の原理を凌駕する市場原理の社会が出現し、超監視社会が生まれると予言する。スノーデンは、NSAの情報監視システムが、既に日本に提供されていると明らかにしている。そうだとすれば、映画「スノーデン」で描かれたことは、日本と無縁の出来事ではない。だからこそ「超監視社会」の入り口に立とうとしている日本の現状に、多くの市民が懸念を抱き「ノー」を発信している。

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100年前と変わらぬヨーロッパ~映画「サラエヴォの銃声」 [映画時評]

100年前と変わらぬヨーロッパ~映画「サラエヴォの銃声」

 

 1914年、サラエヴォで響いた一発の銃声が、ヨーロッパを奈落の底に叩き落した。事件から100年、「ホテル・ヨーロッパ」では記念式典が開かれようとしている。大学教授にインタビューするジャーナリスト、演説の原稿を練るVIP、ストを企てる従業員とそれを阻もうとする経営者。そんな中に、あの事件と同姓同名の男、ガウリロ・プリンツィプが現れる…。

 「ヨーロッパはサラエヴォで死んだ」というセリフが出てくる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことを契機にヨーロッパは二分、第一次世界大戦が始まった。それから100年、ヨーロッパは変わったのか。映画の中でインタビューされた大学教授が延々とその歴史を語る。驚くべきことに、ヨーロッパは少しも変わってはいないのである。

 プリンツィプは演説会場に向かうVIPに銃を向けるが、ホテル従業員によって射殺される。これは何を意味するのか。偶然にも「暗殺」は未遂に終わったが、これはいつ既遂に変わるかもしれない。そうなれば、薄皮一枚下のヨーロッパの混乱が再発しても不思議はないのである。そんな皮肉が込められた一編である。監督、脚本はボスニア・ヘルツェゴビナ出身、「鉄くず拾いの物語」で注目されたダニス・タノヴィッチ。

 

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浅はかで軽薄な駄作~映画「たたら侍」 [映画時評]

浅はかで軽薄な駄作~映画「たたら侍」

 

 「たたら(鑪)」とは古代から続いた日本独自の製鉄法で、中国山地にも炉跡が残る。映画は戦国期から江戸期にかけての出雲の山村を舞台にした。期待はしなかったが、素材の魅力にひかれて観てしまった。感想は…。いやはや、である。入場料を返して、と本気で思った。

 たたら製鉄を生業とする村の若者、伍介(青柳翔)。かつて野武士に襲われた経験から、村を守る手段を持ちたいと思う。偶然村を訪れた商人に頼み、織田信長の家臣になろうとする…。

 ここまで筋書きを書くだけで気恥ずかしくなるほど軽薄な展開だ。しかし、我慢して先に行こう。伍介は戦場に赴くが、殺し合いの現場を見て耐えられず村に逃げ帰る。先の商人と織田軍の仲介をした男・与平(津川雅彦)が現れ、織田軍のように火筒(火縄銃)を持つことを勧める。伍介は「これさえあれば村を守れる」と、物見やぐらを築き、戦闘態勢を整える。

 たかだか数人の殺し合いを見ただけで腰を抜かした純朴な男が、どうして数丁の銃を持つだけで戦国時代に村を守れると思うのだろうか。かつて福井の一乗谷朝倉氏遺跡を訪れたことがあるが、戦国武将、特に織田の敵を滅ぼす際の徹底ぶりはすさまじい。一乗谷でも、前後から挟み撃ちにし、火を放って城下町ごと葬り去って、その後「日本のポンペイ」と呼ばれるに至った。400年を経て発掘が行われ、かつての城下町の全貌が明らかになったのである。こうした残忍さの背景には、戦国期、敵を根絶やしにしなければいつ復讐に遭うか分からなかったという事情がある。

 そういう時代背景を考えれば、伍介が簡単に村の自力防衛に走るという展開はいかにものどかで浅はかである。そのうち、与平は野武士風の屈強な男たちを村に連れてくる。ためらう伍介に、与平は「あなたが望んだこと」と言い放つ。

 伍介を慕うお國(石井杏奈)は村の舞台で舞い、村を出た伍介の安全を祈るが、こんなシーンいるのだろうか。織田勢がいつ攻めてくるか、という時に村人は出雲神楽に興じる。そんな余裕はあるのだろうか。伍介が勾玉のネックレスをしているのもひっかかる。

 与平は豊臣の手のものと見抜いた尼子(後に毛利に併合される)の新之助(AKIRA)が野武士たちを討つが、与平の銃によって倒れ、怒りに燃えた伍介が立ち上がる…。

 野武士が村を襲う冒頭シーン、自衛に走る村人、織田から豊臣、徳川へと天下人が代わる中、時の権力者に取り入ろうとする商人のしたたかさを描いたラストシーン。まるで黒澤明の「七人の侍」を裏返したような展開が続く。しかし、いうまでもなく「たたら侍」は、「七人の侍」の足元にも及ばない。それは何よりラストシーンで分かる。「七人の侍」では、田植えに励む農民のしたたかさを見て勘兵衛(志村喬)が「勝ったのは、あの百姓たちだ、おれたちではない」とつぶやくが、このセリフの重さは、占領期から独立期へと日本が移行した19531954年に作品が作られたことと重ね合わせて、初めて分かる。

 「たたら侍」は時代とどのように絡み合い、どんなメッセージを発しているのか。問いかけるのもせんない気がする。

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米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」 [映画時評]

米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」

 

 フロリダの黒人街を舞台に差別と貧困、いじめ、ドラッグ、ゲイの問題に焦点を当て、その中で生きていく一人の青年シャロンの内面を浮き彫りにした作品である。製作総指揮はブラッド・ピット。全編青を基調にした美しい映像とドキュメンタリータッチの迫真に満ちたカメラワークが貫かれている。ドラマ的なまとまりよりもそうした映画としてのタッチに比重が置かれている。その分、ストーリーの細かい説明は省かれ、やや難解である。

 3章に分かれ、それぞれ別の俳優がシャロンを演じている。ナイーブな少年期、いじめに遭いながら孤独と向き合う青年期、刑務所を出た後、筋肉という鎧を身にまとい、薬の売人としてのし上がる成年期―。

 ストーリーも、最後にすとんと腹に落ちるものではない。おそらく、読み方はいろいろだろう。何よりも、米国の現実に迫った作品。そんな評価が妥当であろうか。


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重厚で安定した映像美~映画「追憶」 [映画時評]

重厚で安定した映像美~映画「追憶」

 

 「駅 STATION」や「夜叉」「あなたへ」で高倉健を主役に、日本的な味わいの映像美を追求してきた降旗康男監督が、岡田准一を主役に据えて撮った新たな「降旗ドラマ」である。木村大作を映像監督に起用、日本海に沈む夕陽と北アルプスの山塊がドラマに奥行きを与える。

 海辺のスナック「ゆきわりそう」は、家庭の温かみを知らない三人のこどもたちにとって、つかの間の和みを共有する場であった。しかし、店を取り仕切っていた涼子(安藤サクラ)を訪ねてきた刑務所帰りの元やくざが平穏を乱し、三人はその男を殺してしまう。涼子は罪をひとり背負うことを決め、三人にその場の出来事を「忘れる」ことを約束させる。

 25年後、三人のうちの一人四方篤(岡田准一)は刑事になっていた。ある日、殺人事件の被害者があの時の一人、川端悟(柄本祐)であることを知る。経営する会社が傾き、金策の最中だった。捜査するうち、悟は何度か、土建屋を営む田所啓太(小栗旬)から金を渡されていたことを知る。田所も、あの時の三人のうちの一人である。事件をネタに悟がゆすっていたのではないか…。自らの出自に潜む秘密と刑事としての倫理のはざまで揺れる篤。「事件」を背負って自首し、刑務所内で元やくざの子を産んだ涼子は今どこに。調べていくうち、涼子の子が田所の妻であることを知る。

 涼子はある事故によって車いす生活を強いられ、認知症のため記憶もなくしていた。そんな涼子を篤は訪ねる…。

 幼少期の事件を心の中に抱え、その後ある事件の刑事、被害者、容疑者として再会するという展開はC・イーストウッド監督「ミスティック・リバー」を思わせる。そこに日本海の冬の波と夕陽、北アルプスの雪山が物語のフレームとしてかぶせられれば、「駅」や「夜叉」と並ぶ日本的映像美の極致ともなる。印象的なのは夕陽を背にした涼子が青いセーターを着ているシーン。青はスペインでは誠実の色とされ、聖母マリアが青をまとっていることで知られる。夕陽と青が、涼子をマリアに昇華させるのである。こうした映像美とともに、岡田准一、安藤サクラの重厚で安定した演技が光る。

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