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押しつけではないファシズムの怖さ~映画「ザ・サークル」 [映画時評]

押しつけではないファシズムの怖さ~映画「ザ・サークル」

 

 巨大なSNS企業が、そのテクノロジーを駆使して一元的な情報サービスの展開、すなわち「世界統一」を目指す。そのための戦略的ツールとして超小型カメラ「シー・チェンジ」が開発される。まず目指すのは、カメラ装着によって個人の日常をすべて公開する「透明化」計画だった。隠すことは罪であるという「思想」によって生み出されるものは、ユートピアなのかディストピアなのか…。

 メイ(エマ・ワトソン)は大学を出たものの、水道会社の派遣社員として不本意な日常を過ごしていた。ある日、大学時代のルームメイトからの誘いで、SNSの分野で世界一のシェアを誇るサークル社に転職する。そこで彼女は、シー・チェンジによる透明化計画の第一号に名乗りを上げ、瞬く間にネット上のアイドルになる。そうした中で両親や親友のマーサーはプライバシーのない生活に違和感を覚え、脱落もしくは逃走中に事故死する。

 テクノロジーの発展によってすべての情報が公開、共有されることはいいことなのか。プライバシーとは何か。完全透明化によって人々は完全な相互評価が可能になる。それはいいことなのか。それらが問われる。権力者が市民を監視するという構図(例えば映画「スノーデン」など)はこれまでも見られたが、この「ザ・サークル」の怖さは、市民(民間)の側から、それも個人の側から自主的に監視体制を受け入れてしまうということにある。押し付けられた全体主義ではなく、市民の側から求めた全体主義の怖さである。

 メイは個人の透明化だけでなく、サークル社自体の透明化を、経営者であるイーモン・ベイリー(トム・ハンクス)らに求めていく。しかし、映画ではその意図が何なのか、多少不透明である。そのため、いったんは「透明化計画」に疑問を持ったメイがラストシーンでは再びドローンによる監視を受け入れてしまうのだが、そこに至る彼女の心の動きが今一つ明確でない。その辺りが、観る者に消化不良をもたらしている。

 多少話を広げると、メディアの進展と過剰なテクノロジー信仰が新たな全体主義を生むというのは、映画やラジオといった「ニューメディア」を、大衆を鼓舞するための道具に使ったナチズム以来の定式である。この「ザ・サークル」も、そのことをあらためて思い知らせた作品といえる。この映画、肝心の米国では定まった評価を得なかったと聞く。作品のメッセージがやや曖昧であるためか、それとも、もともとファシズム=全体主義への共感も否定も持ち合わせない国民性のためか。興味深いところだ。社旗のマークが日の丸に似ているところも何やら思わせぶりだ。2017年、米国。

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日常と非日常のせめぎあい~映画「彼女がその名を知らない鳥たち」 [映画時評]

日常と非日常のせめぎ合い

~映画「彼女がその名を知らない鳥たち」

 

 タイトルの「鳥たち」とはさまざまな愛のかたちの隠喩であり、その意味ではこの映画は「恋愛映画」の範疇に入る。しかし、もっと奥深いものに見えた。日常と非日常、現実世界を転倒させることで生まれる幻想の世界―。そういう異次元の「世界」が、この「ラブストーリー」の背後には垣間見える。

 33歳の北原十和子(蒼井優)はもう6年、15歳年上の佐野陣治(阿部サダヲ)と暮らしている。はじめは寂しさをまぎらすためだったが、今では男の何もかもが気に食わない。体臭、食事の際の雑音、素振り。何もかも。しかし、別れられないでいる。

 十和子には8年前に別れた男がいた。黒崎俊一(竹野内豊)。不倫関係だった。今もその男が忘れられない。男の携帯に掛けるが、出たのは妻だった。そこから、黒崎は失踪したことが分かる。十和子は持っていた時計のことで時計店とトラブルになり、店の男とのやり取りの中で新しい不倫関係を結ぶ。その男、水島真(松坂桃李)は甘い言葉や非現実的な誘いを仕掛けて十和子を翻弄する。

 十和子のこの上ない侮蔑と嫌悪の対象である陣治は、そのまま十和子の日常であり分身である。だからこそ、十和子はそこから逃れようとして逃れられない。黒崎は十和子の「過去」である。手を伸ばして新たな関係を結ぼうとしても結べないのが「過去」という時間である。そして水島は、日常への嫌悪を転倒させた形で出現する幻想世界の中で醸成されたイメージであろう。十和子はつまり、結ばれることのない二人の男との関係を求めて絶望的にもがいている。

 陣治はそれに対して、十和子の手の届くところにいる。しかし、それゆえに十和子は陣治を足蹴にする。それに対して陣治は十和子の分身であるがゆえに、無私の愛を貫く。

 十和子をめぐる男たちの構図はこんなところだ。それらはラストに向かって一気になだれ込み、決着へと向かう。どんな決着の仕方なのかは、観てのお楽しみである。

 監督は白石和彌。原作は主婦、僧侶、会社経営などを経て50代で最初の小説を書いたという沼田かほる。恋愛小説なのかホラーなのか、それともスリラーなのか、混然として不思議な味わいの小説である。陣治のキャラクターは原作に比べ、かなりビジュアル的に誇張されている。映画的にはそれは「あり」だと思う。

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彼女がその名を知らない鳥たち (幻冬舎文庫)

彼女がその名を知らない鳥たち (幻冬舎文庫)

  • 作者: 沼田 まほかる
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2009/10/01
  • メディア: 文庫
 

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運命の妙と月日の流れ~映画「エルネスト」 [映画時評]

運命の妙と月日の流れ~映画「エルネスト」

 

 運命の妙を感じさせる映画である。

 エルネスト・チェ・ゲバラは1959年、広島を訪れる。平和公園の原爆慰霊碑を訪ね、「安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しませぬから」という碑文の意味を問う。そして「なぜここには主語がないのか」と疑問を投げかけた。

 20165月、慰霊碑前で短い演説をしたオバマ大統領は、「死が天から降ってきた」と述べ、主語を語らなかった。

 ゲバラはオバマと真反対の反応を、慰霊碑前で見せた。分けたものは「米国への想い」だった。ゲバラは怒りを込め、オバマは忠誠を誓った。

 キューバ危機は1962年に起きた。キューバの基地にソ連の核ミサイルが配備され、米国の危機感は最高度に高まった。それは現在の北朝鮮のそれどころではなかっただろう。目と鼻の先、米国の裏庭とも呼べるカリブ海に核ミサイルが置かれたのである。戦後最も核戦争が近かったときと、今も言われている。

 キューバ危機のさなか、ハバナ大学にボリビアから医大生が入学した。日系2世のフレディ前村ウルタード(オダギリ・ジョー)。フィデル・カストロ(ロベルト・エスピノーザ・セバスコ)とともにキューバ革命を主導し、「核戦争に勝者はいない」というゲバラ(ホアン・ミゲル・バレロ・アコスタ)に心酔し、米国の傀儡政権樹立の動きに対抗してボリビア内戦にゲバラとともに身を投じる。

 内戦のさなか、ゲバラは1967年に戦死する。ゲバラの命名で「エルネスト・メディコ」を名乗ったフレディもその直前にゲリラとして壮絶な死を遂げる…。

 映画はむしろ、淡々と事実を追っているように見える。しかし、その背後には一人の日系の若者を駆り立てずにはおかなかった「歴史の歯車」もしくは「運命の妙」のようなものを感じさせる。

 ゲバラは今から半世紀前、若者にとって「叛逆の象徴」だった。そのゲバラとともに戦った若者の軌跡が商業映画の題材になった。あらためて月日の流れをも感じる。

 2017年、日本・キューバ合作。

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モラルなんて関係ない、私は私~映画「エル ELLE」 [映画時評]

モラルなんて関係ない、私は私~映画「エル ELLE」

 

 冒頭からレイプシーンである。覆面男に襲われたミシェル(イザベル・ユペール)はしかし、何もなかったかのように日常生活に戻っていく。そこには元夫や独り立ちできない息子やはるかに年下の男性と戯れる母やら、昔残虐な事件を起こし牢獄にいる父親や、が登場する。彼女自身はエロチックな内容のゲーム会社のCEOであるらしい。

 社内での振る舞い、近隣との付き合い、ホームパーティー…。日常の描写の中で分かることは、ミシェルはかなり自由な存在であるらしいことだ。すべての男を自分の支配下におさめ、ある意味では女帝のようでもある。それで、この話に冒頭のレイプシーンはどう結びつくの?と思い始めたころ、再び覆面男が襲ってくる。その男は、実は隣家の男であった。そこで、彼女はついにレイプそのものが喜びになる。つまり、男にレイプを要求するようになる…。

 という、モラルなんて関係ない、私は私よ、という作品である。ハリウッドだと観客との一体感を大事にする。そこから決して踏み外さない。しかし、この映画はフランスの作品である。したがって、その辺は大胆に、しかし、巧妙に踏み外す。監督は「氷の微笑」のポール・バーホーベン。主演のイザベル・ユペールはミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」にも出たフランスの押しも押されもせぬ大女優である。それにしても64歳でこんな役をこなすとは。何とも恐ろしい。そして不道徳である。2016年製作。


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誰が誰を裁くのか~映画「三度目の殺人」 [映画時評]

誰が誰を裁くのか~映画「三度目の殺人」

 

 一見単純な事件の被告が供述を二転三転させ、真相が見えなくなっていく。男には30年前に殺人の過去があった。強盗殺人のうえ遺体を焼いたとなれば死刑は確実と思われた。だが…。

 見るものの思いによって男の発する言葉が違った色に見える。芥川龍之介の「藪の中」や大岡昇平の「事件」を思わせる展開だ。

 ほぼ全編、被告三隅(役所広司)と弁護士重盛(福山雅治)の対話シーンである。微妙に違ってくるのは、被害者の娘・山中咲江(広瀬すず)が絡んでから。それまで動かないと思われた三隅の殺意のありようが、咲江の独白で揺らぎ始める。

 三隅を演じる役所は重層的な心理劇を演じて文句なしの安定ぶりだ。裁判は真相追求ではなく勝つための戦術を模索する場だと割り切る重盛も福山が好演している。福山は是枝裕和監督の前作「そして父になる」でも、家庭を顧みない嫌みなエリートサラリーマンを巧く演じた。今回も「勝つこと」にこだわりながらも「誰が誰を裁くのか」という咲江の言葉を背に受け、人間存在の深淵を見てしまう役柄を巧く演じる。

 法廷心理劇としてはよくできており、タイトルからも分かる通り、死刑の是非が問われている。それにしては、被告が公判途中で起訴事実を否定したことへの裁判官の訴訟指揮がやや粗雑であること、三審制を視野に入れた問題のとらえ方が全くないなどの粗さがぬぐえないのは、やや残念だ。


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描いたのはワイダ自身~映画「残像」 [映画時評]

描いたのはワイダ自身~映画「残像」

 

 201610月、アンジェイ・ワイダ監督が亡くなった。1950年代から約60年、映画を作り続けた。その大きな柱は「灰とダイヤモンド」に代表されるソ連型社会主義=スターリニズムへの抵抗であった。遺作となった「残像」もまた、ソ連型社会主義への嫌悪と批判にあふれていた。

 ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(18931952)は、近代絵画の神髄を知る画家だった。ベラルーシに生まれ、第一次大戦にロシア兵として戦場に赴き片手片足を失う重傷を負った。シャガールやカンディンスキーを知己とし、1931年ポーランドのウッチに移り住んだ。ウッチでは近代美術館の建設に尽力、当地の造形大学で教鞭をとった。映画では、彼の晩年の4年間を描く。

 第二次大戦後、「灰とダイヤモンド」でもあったように、ポーランドはソ連の傘下に入る。戦禍からの解放感はなく、ポーランド統一労働者党による社会主義政策が推し進められた。社会主義リアリズムが唯一の芸術とされ、人間の視覚(主観)を通して得られた「残像」こそが芸術を構成するというストゥシェミンスキの理論は反革命的と断ぜられる。それでも抵抗を貫くストゥシェミンスキの絵画は当局の手によって破棄され、彼自身も大学を追われ芸術家としての資格(そんなものを国家=党が認定するというのがそもそもおかしいが)さえもはく奪される。「働かざる者食うべからず」ということで、食料の配給切符さえも入手できなくなる。

 ストゥシェミンスキの才能を知る知人や大学の教え子たちは彼を支えようとするが、全体主義体制のもと、どうにもならない。貧困と飢餓の中でストゥシェミンスキは進行性結核になり、路頭に迷い死んでいく…。

 重要なことは次の二つである。芸術はいかなる権力、権威によっても支配されない。仮に「革命」がいかに正しかろうと、革命的勢力が芸術の価値を決めることはできない。芸術はあくまで「革命」の同伴者であるにすぎないのだ。この点で20世紀のソ連型社会主義は決定的な過ちをおかした。

 もう一つは、いかなる形でも全体が個を支配してはならない、ということだ。「灰とダイヤモンド」はこのことを見事に映像化したが、この「残像」もまた、この点で太く大きな流れを形成している。ストゥシェミンスキが当局から「どちらの側に立つんだ」と問われ「自分の側だ」と答えるシーンがあるが、ワイダ自身、この問いに対する答えは生涯みじんも揺らいでいないように思う。

 ワイダが遺作としてこのテーマ(政治と芸術)を取り上げたのは興味深い。そして「残像」(原題:Powidoki /英題:Afterimage)と名付けたことも。描かれたのはかつての社会主義の「残像」そのものである。もちろんワイダが込めたのは、こうした時代が二度と来ないように、という思いであろう。そして、不屈の画家ストゥシェミンスキは、ワイダ自身であることもスクリーンから十分に伝わる。


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「家庭とは何か」をめぐってもがく人たち~映画「幼な子われらに生まれ」 [映画時評]

「家庭とは何か」をめぐってもがく人たち
~映画「幼な子われらに生まれ」

 

 重松清の原作である。彼の小説を読むとき、感じることが二つある。心理劇の名手であること。セリフの名手であること。しかし、この二つの特長は、それぞれ別個のことではない。おそらく、一つのことの裏表であろう。心理劇の名手であるからこそ、記憶に残るセリフの数々を生み出すのだろうと思う。

 たとえば、こんなセリフがある。

 

「…訊かないのね」

「なにが?」

「いまの私の気持ち。(略)全然興味ない?」

「そういうわけじゃないけどさ、でも、そんなこと…」

「昔からよ、あなた、理由は訊くくせに、気持ちは訊かないの」

 

 眼前の逃れられない事象に対する男と女の向き合い方、距離の取り方についての違いが、見事にセリフに込められている。ここでの事象とは、二人の間にできた子の堕胎であるが、女性はその行為に秘めた哀しみまでも理解してほしいと願う。男は二人の間の距離に無頓着なまま、「なぜ」という問いの形で行為の意味だけを探ろうとする。

 もちろん、このセリフも映画の中で生かされている。

 平凡なサラリーマン田中信(浅野忠信)は、学生時代から付き合っていた友佳(寺島しのぶ)と結婚、2年半で別れる。研究者を貫こうとする友佳とのすれ違いのためだ。信はその後、奈苗(田中麗奈)と再婚。奈苗には二人の女の子(薫と恵理子)がいた。別れた友佳との間にできた沙織とも定期的に合う機会がある信は、3人の女の子に対する微妙な感情的違いを抱えながらも、新しい「家庭」を支えていこうと思う。

 そんな時、奈苗に子ができたことが分かる。祝福されるべきニュースはしかし、思春期を迎えた薫に動揺をもたらす。薫は今の家庭を「ウソ」だといい、「パパは一人でいい、本当のパパに会いたい」という。信は「本当のパパ」である沢田隆司(宮藤官九郎)と連絡を取り、薫に会わせようとする。一方で友佳の再婚相手である男性は末期がんであることが分かる。

 二組の家庭の中での、血のつながった親子とつながらない親子のねじれた関係。「うそ」の親子と「本当」の親子。そんな色分けに意味はあるのか。血がつながらなければ本当の家庭は築けないのか…。

 こうしたテーマで物語が構成される場合、複雑な家庭の事情に押しつぶされて少女たちが非行に走り…といった「社会的」なストーリーになりがちだ。しかし、重松原作のこの物語は、関係者の微妙な心理の襞を徹底的に描こうとする。だから登場人物たちは変にぐれたりはせず基本的に誠実であり、問題に正面から向き合おうとする。そして、原作にも映画にも、明快な回答らしきものは提示されない。「家庭とは何か」という問いに対してひたむきに向き合い、もがき努力する一群の人々の姿が提示されるだけだ。しかし、それで見終わったときの充足感は十分に得られるのである。

 最後に、原作と映画の違いについての蛇足を二つ。

 奈苗の前夫・沢田は、原作ではギャンブルにはまり込むサラリーマンだったが、映画ではやさぐれた料理人に変えてあった、「絵」としてはその方が面白いかもしれないが、奈苗の結婚相手が少し崩れた料理人から平凡なサラリーマンというのは少しギャップがある。

 家庭内の「叛乱」に疲れた信が一人カラオケにはまるシーンがあるが、原作では風俗店の変身プレイにのめりこむことになっている。映画の設定では疲れた心を解放する、という意味合いしか持たないが、原作では「家庭」という重荷を脱ぎ捨てたいのだ、という信の心情がその裏側にあるように思う。つまり、設定に込められた意味の深さが違っている。

 そんな気になる点もあるが、生みの親か育ての親かを問いかけた「そして父になる」(是枝裕和監督)を想起させるレベルの作品であることは確かだ。三島由紀子監督。二人の女性とその子への対し方を微妙な表情の違いで見せる浅野の演技が秀逸だ。 


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やはり戦場に赴くことを拒否すべきでは~映画「ハクソー・リッジ」 [映画時評]

やはり戦場に赴くことを拒否すべきでは
~映画「ハクソー・リッジ」

 

 非暴力主義に立ち、良心的兵役拒否を貫きながらも祖国愛から志願し、衛生兵として従軍。沖縄戦で75人の米兵を救ったとされる実在の人物を描いた。

 「なんじ殺すなかれ」という宗教的な教えを固く守るデズモンド・ドス(アンドリュー・ガーフィールド)は祖国への忠誠を誓い、第2次大戦で陸軍を志願。しかし、銃を持つことを拒否し、軍法会議にかけられる。周囲の助けもあって信念を理解されたドスは、武器を持たず前線に赴くことを許される。そこは1945年5月、日本本土決戦を控えた沖縄だった。

 ハクソーとは弓のこぎり。沖縄の浦添城址にある前田高地の地形を見て米軍が名付けた。沖縄戦では本島の北谷海岸に米軍が上陸、南へ転じ嘉数高地、前田高地を攻撃した。さらに南には首里城があり、そこには日本軍の司令部があった。日本軍にとって前田高地は落としてはならない拠点だった。必然的に前田高地をめぐる戦闘は激烈を極めた。日本軍もだが、米軍にも多数の死傷者が出たとされる。しかし、負傷者を後衛に送り返すにはハクソー(弓のこぎり)と呼ばれる急峻な地形がネックになった。そこでドスがとった行動は…。

 ドスがどのような精神形成期を経たかを追った前半の牧歌的な運びと違い、後半はトゥーマッチとも思える血なまぐさいシーンが続く。良心的兵役拒否者が戦場での働きによって後に大統領から名誉勲章を受けるに至るという、針の穴を通すようなストーリー展開からすれば、この凄惨なシーンは必要だったのだろう。

 沖縄戦体験者ではないので、これらのシーンがどこまで史実に忠実かどうかは断言できない。浦添市のホームページなどを見る限り否定的なコメントはないが、一方で沖縄戦の実態とはかけ離れている、という声も聞く。それらを踏まえたうえで、いくつかの基本的な疑問を呈する。

 沖縄戦にあたって、日本軍は防衛拠点を築くべく戦艦大和を向かわせたが、米軍機の集中攻撃によって鹿児島沖で撃沈され、制空権、制海権は完全に米側が掌握していることが立証された。事実、沖縄本島上陸に当たっては「鉄の暴風」と呼ばれた大量の艦砲射撃が行われ(地形まで変わったといわれる)、その後、米軍が上陸した。制空権も米側にあったはずだから、米機による援護もあったと思われる。こうした一方的な戦況下、日本軍は住民を巻き込み、ガマ(壕)に潜んで米軍を迎え撃つという戦法(住民を盾にする戦法)が主力だったと思われるが、その描写がない(その前に、米機による援護射撃のシーンがない)。これは意図的なものなのか。

 前述したように、衛生兵ドスの勇敢さと功績を浮き彫りにするには、まず戦場の凄惨さを強調する必要があり、日本軍の抵抗がどれだけ頑強であったかを描く必要があったということだろうか。そうだとすれば、少なくとも、戦場で英雄的な行動をした一人の衛生兵に焦点を当てた、あくまでも米国サイドの視点で作られた作品という見方はできるだろう。

 もう一つ言えば、ここまで良心的兵役拒否を貫くのであれば、最終的に兵役につくことを拒否してもらいたい。自らは銃を持たずとも、戦場では後衛として「功績」をあげることで、戦争(=殺し合い)に加担したという批判は逃れようもないからだ。実在の人物を追ったとはいえ、やはりそこに作品の限界があると思う。

 監督メル・ギブソン、2016年、米国。


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老境の寂寞と60年代ポップアートが交錯~映画「僕とカミンスキーの旅」 [映画時評]

老境の寂寞と60年代ポップアートが交錯

~映画「僕とカミンスキーの旅」

 

 こんな面白い映画を見たのは久しぶりだ。悲喜劇のようであり、ロードムービーのようであり、そしてそのどちらにもはまらない。カミンスキーは実在の人物のようであり(ということは実在の人物ではないのだが)、老境の寂寞と孤独感はずしりと重く、しかしテンポはよく、ところどころに気の利いた蘊蓄あるセリフが散りばめられている。

 カミンスキー(イエスパー・クリステンセン)は1960年代、アンディ・ウォーホルらとともに一世を風靡した盲目?の画家である。マチスの弟子であり、ピカソの友人でもある。しかし、今はスイスの山中で隠遁生活を送っている。

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)はヒトヤマあてようとカミンスキーの評伝を書くべくアタックする。カミンスキーの娘ミリアム(アミラ・カサール)にも軽くあしらわれ、どことなく招かれざる客であるゼバスティアンだが、なんとか元画家の懐に飛び込む。カミンスキーには若き日の恋人テレーゼ(ジェラルディン・チャップリン)がいた。彼女に会うため、ゼバスティアンとカミンスキーのドタバタ道中が始まる。

 しかし、やっと会ったテレーゼは昔のテレーゼではなかった。同居人と暮らし、カミンスキーにけんもほろろ(というか、彼女には彼女の「日常」が既にあった)の対応を取る。失意のカミンスキーは「海を見たい」と言い、二人で海岸を訪れる。

 60年代のポップアートの「空気」があちこちに漂い、絵画と映画の融合が試みられて観るものを心地よくさせる。カミンスキーとテレーゼの関係が、ミリアムによって既に「清算」されていることなど、ちょっと辛口に美術界の裏側を見せて興味深い。

 蘊蓄あるセリフといえば、こんなのがあった。達磨大師の弟子が「私にはもう何も捨てるものがありません」というと大師は「その、捨てるものがないという執着を捨てなさい」と諭す。カミンスキーがゼバスティアンに語った寓話である。二人の関係を暗示したようで奥は深そうだが、実際何を言っているのかはよく分からない。ただ、この伏線に沿ってセバスティアンは取材で得たノート、音声テープすべてを海に捨て去る。

 うーむ、やっぱり深い。

 監督は「グッバイ、レーニン」のヴォルフガング・ベッカー、秀逸の原作はダニエル・ケールマン。2015年、ドイツ、ベルギー合作。


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心理描写が粗雑、足りない時代背景~映画「光をくれた人」 [映画時評]

心理描写が粗雑、足りない時代背景~映画「光をくれた人」

 

 比較的評価の高い作品のようなので見たが、正直いって期待外れだった。第一の理由は、物語のフレームが説明不足であることと、作品内での心理描写があまりにも粗雑であるためであろう。

 トム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は第一次大戦(19141918年)でオーストラリアからフランス戦線に参加、激しい戦闘で心に深い傷を負う。その傷を癒やすため、オーストラリアの絶海の孤島ヤヌスの灯台守として暮らす決意をする。そんなトムにイザベル(アリシア・ビカンダー)はひかれ結婚、ともにヤヌスで暮らし始める…。

 オーストラリアは英国の同盟国であるから、当然連合国軍の側に立ち、ドイツを中心とする勢力と戦った。第一次大戦は世界史上最初の機械化された戦争であり、その前線の模様は残虐極まりないもので、レマルクの「西部戦線異状なし」でも描かれた。こうした時代背景は一片のセリフではなく、物語の一部として語られないと説得力はない。

 イザベルは島で二度妊娠するが、流産してしまう。悲嘆にくれていると島にボートが漂着する。男と女児が乗っており、男は既に死んでいた。イザベルは、女児を我が子として育てようとする。トムは反対するが、ついにはイザベルの主張を認める。

 この作品は「愛の物語」または「ラブストーリー」として紹介されることが多いが、看板に偽りありと思う。この展開は愛の物語でも何でもない。ただの短慮と身勝手の物語である。後にイザベルは我が子を失った実の母の哀しみを知って心を改めるが、身もふたもない言い方をすれば、そんなことは最初から分かっていなければならない。

 ルーシーと名付けた女児の洗礼の日、偶然にもトムは実の母のことを知る。迷いながらも、真相を伝えることを決意。一切の罪を自らかぶり投獄されようとしたとき、イザベルは自らも罪びとであることを告白する。このあたりの舞台回しは観客に感情移入を求めるよう、計算されている。

 実の母ハナ(レイチェル・ワイズ)は、ヤヌス島に最も近い町パートガウス(イザベルが住んでいた街でもある)の資産家の娘だった。ドイツ人の男と結婚したため勘当同然の扱いを受ける。街の若者とのトラブルを避けるため、ドイツ人の男は娘を連れボートで海へ出る。そしてヤヌス島へ漂着する。

 ドイツ人と結婚したことが、なぜ親たちの逆鱗に触れたか。ここにも、前述したような第一次大戦の傷跡を見ることはできようが、その説明は一切ない。ドイツは敵国だったのである。

 漂着ボートに乗った男は生きていたかどうか。生きていたとすればトムには殺人の嫌疑がかかる。実際、トムが問われたのは殺人と誘拐の罪だった。その殺人の嫌疑は後に晴れたのかどうか、物語の展開でははっきりしない。

 ハナのもとに娘は帰ってくる。しかしハナは、彼女がイザベルを慕っていることに衝撃を受け、イザベルのもとに返すとともに二人の減刑を警官に申し出る。一方でトムとイザベルは、島で育てるよりハナのもとに返したほうがいいという結論に達する。

 30年近くたって、一人暮らすトムのもとをルーシーが訪れる。イザベルは既に世を去っている。トムはルーシーにイザベルの遺書ともいえる手紙を渡す。それを読んだルーシーはイザベルの思いを受け入れ、再びトムのもとを訪れることを約束する。

 これでいいのかな、と思えるほど登場人物すべてが許し合い、そして大団円である。「灯台守」の暮らしを描いた「喜びも悲しみも幾年月」(1957年、木下恵介監督)には戦争をくぐり抜ける夫婦のたくましさがあった。「そして父になる」(2013年、是枝裕和監督)は、偶然がもたらした生みの親と育ての親の困惑と成長ぶりを、こまやかな心理描写の中で浮き彫りにした。そうした作品に比べて、この「光をくれた人」はあまりにも粗雑に思う。
 2016年、米・豪・NZ合作。


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