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排除される「異物」たち~映画「羊の木」 [映画時評]

排除される「異物」たち~映画「羊の木」

 

 刑務所を仮釈放された6人の男女が、国家の秘密プロジェクトによって過疎に悩む漁業の町・魚深に送りこまれる。10年間の居住義務がある6人は、いずれも殺人を犯すという過去を持っていた。このプロジェクトは、過疎の町の再生策になるのか…。

 受け入れに当たって、6人の過去は町民に伏せられている。6人相互にもしらされていない。こうして、のどかな町に拠点を移した6人は、それぞれに生活を始める。しかし、すんなりとはとけこめない。周囲の町民も、異物を見る目に変わってくる。こうした変化を敏感に感じた6人の心理にもさざ波が立ち始める。

 過疎対策としての元受刑者受け入れ計画の遂行を任された市職員月末一(錦戸亮)は6人と町民の間で右往左往するが、秘密プロジェクトなのでだれにも悩みを打ち明けられない。6人のうち、過剰防衛で殺人罪に問われた宮腰一郎(松田龍平)、元組員の大野克美(田中泯)の存在感が見事だ。特に松田が演じる宮腰は、一見普通に見えるが実は最も社会への適応力がなさそうな役柄をリアルに演じる。

 殺人を犯したとはいえ、罪は償っているのだから偏見なく社会は受け入れるべきだ、とか、善意で接すれば相手も善意で応じてくれるはず、とか、そうした性善説だけではどうにもならないものを映画は語る。それは何か。突然の闖入者を共同体は異物として無意識のうちに排除しようとする、そうした「得体のしれないもの」への本能的な動きではないか。

 映画では、「のろろ」という土俗信仰の祭りが登場する。これもまた、得体のしれないものである。ラストでは、この「のろろ」が、共同体への適応能力を欠いた宮腰を「成敗」するシーンがある。得体のしれない闖入者に対する共同体の不気味な動きを暗示していて興味深い。タイトル「羊の木」(羊のなる木)は、作中でもイメージとして登場し、タタールの言い伝えから来ているらしいが、地域共同体のメタファ(隠喩)と読めばいいのか。タイトルは理解できなかったが、作品そのものは面白い。

 山上たつひこ、いがらしみきお原作、「桐島、部活やめるってよ」「紙の月」の吉田大八監督。2018年。

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耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」 [映画時評]

耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」

 

 がんで余命を告げられた大林宜彦監督の作品。壇一雄の短編を映画化した。軍靴の足音が迫る時代の若者群像を描き、めくるめく168分に仕上げた。耽美的な映像に抵抗のある向きもあるかもしれないが、私自身はかつての鈴木清順や林静一「紅犯花」の遠い記憶を蘇らせるようで懐かしい思いがした。

 1941年、太平洋戦争が始まる直前の佐賀県唐津市の予備校が舞台。親元を離れ、アムステルダムから帰国した榊山俊彦(窪塚俊介)は、若い叔母・江馬圭子(常盤貴子)のもとで新学期を迎える。そこには肺を病む美しい従妹・美那(矢作穂香)がいた。利彦はやがて、級友の吉良(長塚圭史)や鵜飼(満島真之介)、美那の友人・千歳(門脇麦)らと交友を深める…。

 丘の上に立つ叔母の居宅は和洋混交で海が見え、アンニュイな気配が漂う。美那や、彼女を取り巻く少女たちも、貴族的な頽廃を漂わせている。俊彦の旧友・吉良は虚無的で合理的な頭脳の持ち主。鵜飼は美しい肉体に健全な精神を宿し、アポロンの神を思わせる。しかし、最も美しく存在感があるのは叔母の圭子であった。彼らは海辺へピクニックに出掛け、時に互いを傷つけ合い、たばこを吸い、酒を飲む。戦争が迫る中での、ささやかな抵抗…。

 こうして、耽美の極致ともいえる映像世界が展開される。もはや、ストーリーを丹念に追うことに意味はないだろう。映像の裏側に潜むエロスとタナトスと不穏な狂気。しかし、本当に狂っていたのは誰だ。突然現れる出征兵士の隊列。肺を病んで血を吐く美那。しかし、本当に病んでいたのは誰だ。若者たちか、それとも時代か。

 これまで多くの「青春映画」をつくった大林が、実はこんな映画を撮りたかった、といっているようだ。若者は、自身の手で生と死を選ぶ。それを国家などに勝手に押し付けられてたまるか。戦争の愚かさを、戦場ではなく日常世界の映像美で描いて見せる。その可能性を感じさせた映画だった。

 蛇足を言えば、壇の原作では物語の舞台は架空の町となっており、大林の証言(光文社文庫「花筐」から)によれば、壇の示唆によって「佐賀県唐津」に設定、その際、唐津くんちも舞台装置として入れたのだという。また、大林は先の証言の中で、壇から映画化の許可を得たのは1975年と明かしたうえで、戦争の時代を軍国少年として生きた経験からくる怯えが、自分に映画を撮らせている、と述懐している。そして、戦争の時代を懸命に生きた若者を描く「花筐」がこれほどにリアリティを持つ今の時代への「怯え」をも語っている。

 

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花 筐 (光文社文庫)

花 筐 (光文社文庫)

  • 作者: 檀 一雄
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2017/12/07
  • メディア: 文庫
 

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あくまでも「あの時代」の飢餓感~映画「あゝ、荒野」前・後編 [映画時評]

あくまでも「あの時代」の飢餓感~映画「あゝ、荒野」前・後編

 

 寺山修司の原作を50年ぶりに映画化した。新宿を舞台に、プロボクサーとしてもがく二人の若者の荒涼とした飢餓感を描いた。原作の初版が1967年。この年の秋、第一次羽田闘争で京大生・山崎博昭が死亡、翌年には日大、東大闘争をはじめ全国に大学闘争が燎原の火のように広がった。このとき、若者の心中に何があったか、いまだに明快な解はない。こんな時代に、寺山は「あゝ、荒野」を世に問うた。

 少年院を出た新次(菅田将暉)は、あてもなく新宿の街をさまよう。二木健二(ヤン・イクチュン)は理髪店で働いていた。新次の父親は自殺、母は家を出ていった。建二の父も、息子を見捨てて失踪した。似た境遇の二人は元ボクサーでホスト上がりの片目こと堀口(ユースケ・サンタマリア)に、ボクシングジムに入らないかと声をかけられる。

 新次には、裏切ったかつての仲間山本裕二(山田裕貴)への復讐心が燃え盛っていた。そして、自分を捨てた母・君塚京子(木村多江)への憎悪も。日韓の混血児として生まれた建二は吃音症と赤面症に悩んでいた。そんな二人は心を通わすが、闘争心に歯止めがきかない新次と内にこもる建二は別々の道を歩み始める。

 …と、ボクサーへの階段を駆け上がる二人のストーリーに親への愛憎が絡み、さらには時代のフレームが架け替えられる。一つは2011年の3.11。もう一つは社会奉仕プログラム法制定をめぐるデモ隊の動き。こうして物語は東京五輪後の2021年から2022年の設定で進められる。

 まず、このフレームの変更について触れよう。確かに、50年前の物語を現代に再生するにあたって時代設定は難問だ。そのまま50年前のことにすると「なぜ今、映画化?」という疑問がわく。今回も、この点が吟味されたのだと思う。しかし、1960年代後半の大学闘争に足を踏み入れた人間なら分かることだが、当時の精神的飢餓情況とその中での実存を問う行為は、それなりに重かった。言い換えれば、当時の社会状況があるからこそありえた「飢餓」ではなかったか。高度経済成長半ばでの、深刻な貧困がまだら模様に残った社会。戦争の傷が癒えぬ中での戦後思想の不確実さと、それに伴う戦中世代(つまり親世代)への不信。揺るがぬ家父長制への懐疑と反抗。こうしたものが生み出す閉塞感が、若者にアナーキーな飢餓感を植え付けたのではなかったか。

 時代がもたらしたこうした側面をフィルターとして用いれば、この映画で描かれた二人のボクサーの飢餓感はよくわかる。半面、3.11=原発事故被災者や、プログラム法反対デモが、なんとちゃちな時代装置に見えることか。作中で、3.11事故を自虐的に語り、自殺願望を持つ東都電力社員(もちろん東京電力のパロディー)が出てくるが、そんな社員が事故後10年たって存在するのか。こうしてみると、時代設定の変更はあまり効果的ではなかったと思われる。

 菅田将暉は文句なしの熱演である。時代がどうであろうと、演じた「飢餓の境地」は痛いほどよく伝わる。「息もできない」で、暴力に明け暮れる取り立て屋を演じたヤン・イクチュンは、ここでも存在感を発揮した。この二人の出来が、作品を名作に押し上げた。脇を固めるユースケ・サンタマリア、木村多江もいい。一方で、新次と行動を共にする女・木下あかりは、役柄のわりに存在感が薄い。何とかならなかったか。

 結論を言えば、この映画は、持って行き場のない若者の閉塞感と飢餓感を熱く描いたが、あるのは「あの時代=寺山の時代」のもので「今の時代」のものではない、ということだ。例えば、「死」を輪郭として持ちながらあくまでも言語遊戯的、予定調和的な「夜空は最高密度の青空だ」と比べればわかる。感性の温度がまるで違う。それは時代のせいだろうと思う。2017年、岸善幸監督。

 

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歴史的事実を法廷で確定するという違和感~映画「肯定と否定」 [映画時評]

歴史的事実を法廷で確定するという違和感~

映画「肯定と否定」

 

 アウシュビッツでのホロコーストはあったのか、なかったのか。確かに、虐殺されたユダヤ人の数は誇張ではないか、ガス室は本当にあったのか、との歴史論争がないわけではない。しかし、「あったのかなかったのか」と問えば、その事実は否定のしようがない。あったのだ。日本にも同様の議論がある。南京大虐殺である。南京事件の場合、国際的に認知された経緯に疑問を挟む向きがあり(石川達三の小説「生きてゐる兵隊」が国際的に知られる基本テキストになったという経緯のことである)、犠牲者数への疑問だけでなく、「事件」そのものがなかった、という極論まで出ている。

 ナチスによってアウシュビッツ強制収容所(後に絶滅収容所)で何が行われたかの論争が法廷に持ち込まれた。英国人作家デイヴィッド・アーヴィング(映画ではティモシースポール)が1996年、米国人作家デヴォラ・リップシュタット(同レイチェル・ワイズ)と出版社を相手取って英国内で起こした名誉棄損訴訟である(映画では、提訴は2000年と設定)。

 この裁判をベースに映画は作られた。ただし、原告、被告とも作家ではなく歴史学者とされている。ホロコースト否定論を批判したリップシュタットの著作に対して、アーヴィングが英裁判所への提訴という手段で反撃に出る。英国の法廷では被告側に立証責任があるという(変な話だ。「推定無罪」の原則がないがしろにされている)。困難な立場に立たされたリップシュタットだが、法廷で自らは議論の前面には出ず、弁護団の手に闘いを委ねる。抽象的な否定・肯定論を闘わすのではなく、証拠によって地道な議論を重ねるためだ。その結果、最終的にホロコースト肯定派のリップシュタットが勝利、ヒトラー待望論を説くアーヴィングが敗れる…。

 映画での、「ホロコーストはあったのか、なかったのか」という歴史認識をめぐる論争が法廷に持ち込まれた、という設定には違和感がある。もともとは作家間の名誉棄損訴訟であった。法的に問題にされたのは、ホロコーストの事実を、自らの歴史観に沿って軽視、ないしはあいまいにする(つまり脚色する)行為がどの程度まで許容されるかであったように思う。許容範囲内であればホロコースト否定論者という形容は名誉棄損にあたるし、範囲外であれば名誉棄損にはあたらないことになる。このあたりの細かい点はすっ飛ばして、映画は「ホロコーストはあったかなかったか」というストーリーの運びにしている。このほうが分かりやすいのは確かだが、これはやはり無理がある。歴史的事実の認定をめぐっては、最終的に歴史学者に任せるしかないと思われる。

 そんなわけで、分かりやすさを優先したつくりのため、歴史認識は誰が決めるのか、という点や、歴史論争と法廷ドラマのどちらに軸足を置くのか、といった基本点がややあいまいになったという印象がぬぐえない。2016年、英米合作。

 

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今なお続く米国の病根~映画「デトロイト」 [映画時評]

今なお続く米国の病根~映画「デトロイト」

 

 今から半世紀前、世界は「1968」で揺れた。フランス、米国、そして日本。あれは何だったか。さまざまな総括がなされる中で、一定の共通項として認められているのは反権力・反権威の新世代(ニューウエーブ)の台頭、ベトナム戦争への反発、テレビの出現(メディア革命)による情報の世界同時的共有、そして公民権運動の広がり(世界的に見ればこれが一番大きい)だった。

 映画「デトロイト」は1967年7月の、人種差別に端を発した住民暴動を取り上げた。中でも、いまだに真相が闇の中という「アルジェ・モーテル」での惨劇に焦点を当てた。監督はキャスリン・ビグロー。2008年にイラク戦争の米軍爆発物処理班のひりひりする日常を描いた「ハート・ロッカー」で注目され、2012年「ゼロ・ダーク・サーティ―」はビンラディン捜索に執念を燃やすCIAの女性分析官を描いた。いずれも、ドキュメンタリータッチの緊迫感ある映像で畳みかける手法が秀逸だった。

 この「デトロイト」も、前作に劣らず緊迫の映像が連続する。しかし、何かが違っている。前にあげた2作も「アメリカ」をスクリーン上に浮かび上がらせたが、今回は映像の裏側にとてつもない何かを潜ませているように思える。冒頭で書いたように、デトロイト暴動から1年後、米国ではベトナム反戦とともに人種差別撤廃の動きが高まる。この映画「デトロイト」は、そこへ向かう米国の熱く暗い思想潮流を暗示させる。

 1967年、デトロイトでは白人が郊外に住み、市内の環境の悪い区域に黒人は押し込められていた。ささいなことで白人警官の尋問に腹を立てた黒人たちが暴動を起こし、デトロイト市警、ミシガン州警、ミシガン州兵までもが出動する事態になった。「アルジェ・モーテル」に宿泊していた黒人グループの一人が、冗談としておもちゃのピストルを窓から撃つ。発射音に驚いた警官、州兵は「狙撃者がいる」として臨戦態勢に入った。制圧された黒人たちはデトロイト市警によって現場で尋問を受ける。指揮を執ったのは、狂信的なレイシストとして知られるある男だった。尋問は死の恐怖を伴う「ゲーム」によって進められたが…。

 事件の真相は後の捜査によって一定の解明をなされるが、結局は携わった警官たちに無罪判決が下される。「正義」のない法廷に黒人たちの憤りが募る。

 事件はいまだ真相は確定していないという。そのことに、今なお続く米国の「病根」を見る思いだが、映画はそこを関係者の証言などで丹念に掘り起こし、真実に迫ろうとしている。なお、この年、フリージャズのジョン・コルトレーンが亡くなった。そのエピソードがセリフの端にちらりと出てくるのが興味深かった。2017年、米国。

 

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都会の若者の心象風景~映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」 [映画時評]

都会の若者の心象風景~
映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」

 

 最果タヒの詩集をモチーフに映像化した。

 だから、作中でこんな詩が流れる。

 

 都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。

 塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない。

 夜空はいつでも最高密度の青色だ。

 

 美花(石橋静河、原田美枝子の娘)は看護師。女子寮に住んでいる。仕事が終わると自転車でもう一つの職場に駆け付ける。そこはガールズバー。慎二(池松壮亮)は建設現場の日雇い労務者。周りには、少し年上の智之(松田龍平)や中年の岩下(田中哲二)、それに借金を作って返済のため来日したフィリピンの男らがいる。ある日、憂さ晴らしのためガールズバーをのぞく。美花と慎二が出会う。

 数日後、ある居酒屋で美花と慎二は再び会う…。

 しかし、詩の持つ皮膚感覚をモチーフにしたこの作品について、細かいストーリーテリングは不要と思われるのでここまでにしよう。

 

 その後、付き合い始めた慎二と美花はぶっきらぼうな会話を重ねる中で、お互いのバリアを少しずつ消していく。ともに田舎の出身だが、もうそこに帰るところはない。かといって都会が温かく受け入れてくれているわけでもない。作中でもいくつかのあっけなく、無残な「死」が描かれるが、二人の心中にも、根拠のない「死」の不安がいつも渦巻いている。なにかよくないことが起きるのではないか。そんな思いがいつも頭をもたげる。不条理への漠然とした恐怖である。

 ラストで二人は、「朝までにニュース速報で不吉なニュースが流れたら」という会話を交わす(その内容をここで書くと、すべてネタがばれてしまうので書かないが)。その前段にあった「嫌なことも二人で分け合えば半分になる」ことの延長線上の会話である。

 そんなわけで、都会の孤独を生きる二人は、孤独がもたらす心の痛みを共有する。共有することで「痛み」は半減されると信じて…。

 

 作品化されたものは山あり谷ありのストーリーと人間模様ではない。都会で不器用に生きる若者の心の動き、心象風景、心臓の鼓動そのもの、であろう。それらを表現するという意味では、よくできている。前作「舟を編む」を上回る作品を世に問うた石井裕也監督に拍手である。

 

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出自が生む原罪感と共犯意識~映画「光」 [映画時評]

出自が生む原罪感と共犯意識~映画「光」

 

 この映画は、何を語りたかったのだろうか。人間の皮膚の下に潜む悪魔性。そうした解釈が頭をよぎるが、そう語ってしまうと違っている気もする。人間には、各々の出自に対する複雑な感情がある。どんなに飾り立て、気取ったところで、その出生地に行けばただの「餓鬼」に過ぎないのだ。キリストも結局は、人々の記憶の中では馬小屋で生まれた平凡な子どもに過ぎないのである。

 ふとしたことでのある行為が共犯意識を生み、原罪観とでもいうべきものを心の底に宿す。それが日常の皮層一枚下で生きのびる。この「光」もそうしたことを暗示しているように見える。

 区役所に勤める黒川信行(井浦新)は、妻・南海子(橋本マナミ)と子とともに平凡な暮らしを続けている。そこへかつての島の暮らしを知る輔(瑛太)が現れる。輔は南海子に近づき、信行はやはり島で付き合っていた女優・篠浦未喜(芸名、島では中井美花、長谷川京子)と不倫関係を続ける。3人が育った東京の離島・美浜島は津波に襲われ、今はない。その災害の直前、3人は異常な体験をしていた。

 美花と灯台守との性的関係を目撃した信行は、その灯台守を殺害する。その行為は輔に見られ、しかもカメラで記録されていた。津波の後、25年たって再会した3人は、それぞれに出自の秘密を抱えたまま、日常を破たんさせていく…。

 冒頭に書いたように、出自と、そこでの秘密の行為を共有することで生まれる不思議な共同関係(共犯関係)こそが、この映画のテーマとしてふさわしく、作品の広がりにつながるように思える。しかし、残念ながら映画の作りは「ホラー」の延長線にある。大森立嗣監督、2013年の「さよなら渓谷」には及ばなかったようだ。2017年製作。井浦新と瑛太は好演。


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ヒトラーは儲かる~映画「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」 [映画時評]

ヒトラーは儲かる~

映画「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」

 

 先日、ある新聞で「ヒトラーは儲かる」という開高健の言葉が紹介された【注】。エッセイからの引用らしいが、原典は分からない。別段、ヒトラーを賛美しているわけではなく、彼ほど「あの世」から呼び戻される人間は、歴史上ほかに見当たらないとの趣旨だった。それにしてもこの言葉、サントリー宣伝部にいたという開高らしい表現だ。言い方を変えると、ヒットラーやナチスドイツを題材にすれば、無条件で作品が成立してしまうところがある。この「ユダヤ人を救った動物園」も、そうした映画だった。

 時代は、独ソ不可侵条約が結ばれた1939年から第二次大戦が終わった直後まで。独ソ不可侵条約締結直後の39年9月1日には、ナチスドイツが電撃的にポーランドを侵攻した。

 このころ、ワルシャワ動物園を管理していた夫婦、ヤン・ジャビンスキー(ヨハン・ヘルデンベルグ)とアントニーナ・ジャビンスキー(ジェシカ・チャスティン)が主人公。これに、夫妻の友人でドイツの生物学者、ベルリン動物園長ルッツ・ヘック(ダニエル・ブリュール)が絡む。ドイツの侵攻でワルシャワ動物園も大きな被害を受ける。檻から逃げた動物たちはポーランド軍に射殺された。その後、ナチス将校として現れたヘックは、動物をベルリンに移送することを提案。やむなくアントニーナは夫で園長のヤンが不在のまま、受け入れる。しかし、冬が迫るとヘックは、このままでは越冬は困難と次々に射殺してしまう。こうした行動にヤンの不信感が募る…。

 ワルシャワにはユダヤ人の街ワルシャワ・ゲットーが造られ、鉄条網で囲まれる。ここから一人でも多くのユダヤ人を助けたい。そういう思いで、ヤンは動物たちのいなくなった園内で豚を飼うことを思いつき、その餌集めの合間にトラック荷台に隠したユダヤ人たちを動物園内にひそかに運び込む。ヘックとヤン、あるいはヘックの機嫌をとりながら対応するアントニーナの、緊迫のやり取りが展開される。

 ヨーロッパ戦線の戦況は大詰めへ向かう。ヤンはワルシャワ武装蜂起(1944年のものと思われる。1943年にワルシャワ・ゲットーで武装蜂起が起きたが、これではないようだ)に参加、銃弾を受け、行方不明となる。

 戦争が終わり、ワルシャワの廃墟に人が戻る。動物園跡にもアントニーナが帰ってきた。そしてヤンは…。

 ナチスドイツ侵攻下のワルシャワの人々の暮らしをそのまま写し取り、ここに「動物園の管理者」というキャラクターを加えて独自性を出した。個人的には、もう少し歴史的背景が詳しく描かれていれば興も増したと思う。そして、ヒトラーへの忠誠と友情の間で悩むヘックの心情をもっと彫り深く描けていれば。その中で、観た感想を率直に言えば「ヒトラーは儲かるなあ」である。

 2017年、米・英・チェコ合作。邦題は何とも気恥ずかしい。原題はThe Zookeeper's Wife(動物園飼育係の妻)と簡単明瞭。作品の最後で、この動物園によって300人のユダヤ人の命が救われたと紹介されるあたり、作品化にユダヤ資本のにおいがしないでもない。

【注】1224日付朝日「日曜に想う」(福島申二編集委員)

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独特のタッチで難民問題を描く~映画「希望のかなた」 [映画時評]

独特のタッチで難民問題を描く~映画「希望のかなた」

 

 「ル・アーブルの靴磨き」のアキ・カウリスマキ監督が再び難民問題と向き合った。アフリカからの密航少年と元芸術家の男の交流を描いた前作では脇役の観があった難民問題だが、「希望のかなた」ではシリアから逃れてきた青年を主人公に据え、この問題を正面から見つめた作品になった。そうした中、相変わらず「カウリスマキの世界」は健在で、社会の底辺をたくましく飄々と生き抜く群像を独特のタッチで描いた。

 シリアの内戦ですべてを失ったカーリド(シェルワン・ハジ)は貨物船に隠れ、フィンランドのヘルシンキに流れ着く。「フィンランドは過酷な内戦も経て、いい人ばかりの国」と聞いていたが、無情にも難民申請は却下される。本国移送のため勾留されるが、すきを見て逃亡。途方に暮れる中でレストランを営むヴィクストロム(サカリ・クオスマネン)に出会う。ヴィクストロムは賭けポーカーで大金を得て、古びたレストランを手に入れたばかりだった。カーリドはその店の片隅で寝起きしながら業務を手伝う。

 カーリドにはともにシリアを出た妹がいた。消息を探るうち、リトアニアにいることが分かる。強制送還をまぬかれ偽造パスポートで暮らすカーリドには、そこへ向かう手立てがない。しかし、あるトラック運転手が彼女を巧妙に車内に隠し、ヘルシンキまで連れてきてくれた。

 アル中の妻と別れたばかりのヴィクストロムは、ぶっきらぼうなだけの男である。しかし、どこかに善意と優しさを持っている。「難民排斥」を叫ぶネオナチの暴力にさらされながらも、カーリドはヴィクストロムのような男たちの善意に支えられ生きていく。

 カウリスマキの作品は、ハッピーエンドが用意されたものが多い。しかし、この「希望のかなた」は珍しく結末が宙づりである。難民申請をするため警察を訪れた妹を、カーリドはどこかの川べりで待っている。妹の申請が却下されれば、カーリドまでも捜索の手が伸びる。申請が認められればカーリドとともにハッピーエンドである。国際的に現在進行形の問題だけに、ここはカウリスマキが一石を投じる結末を選んだ、と読んだ。原題「Toivon tuolla puolen」は「私はそうならないことを願う」というフィンランド語。邦題はこれを「希望のかなた」とした。主演のシェルワン・ハジはシリア出身。ダマスカスでフィンランド女性と出会い、フィンランドに移住。映画の基礎を学び監督、俳優として活動しているという。カウリスマキは「ル・アーブルの靴磨き」で港町三部作をつくるとしたが、「希望のかなた」のクランクアップでは難民三部作にタイトルを変更したらしい。いずれにせよ、次作が楽しみだ。

 2017年、フィンランド製作。

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戦時下、映画に情熱を燃やした人たち~映画「人生はシネマティック!」 [映画時評]

戦時下、映画に情熱を燃やした人たち

~映画「人生はシネマティック!」

 

 1940年のロンドン。ドイツによる戦略爆撃によって街は荒れ果てていた。CBSのヨーロッパ総局長だったエド・マーロウが「こちら、ロンドン」とラジオで戦況をアメリカ本土に伝えていた時代だ。こうした時代にも、英国で映画作りに情熱を燃やす人たちがいた。そうした人々の物語である。

 コピーライターの秘書をしていたカトリン・コール(ジェマ・アータートン)はある日、人手不足に悩む情報省映画局に雇われる。偶然、彼女が書いたコピーが情報省幹部バックリー(サム・クラフリン)の目に留まったのだ。彼女は、ダンケルク撤退作戦で活躍した二人の女性をテーマにした映画のセリフづくりを依頼される。

 時局柄、国民の戦意を削ぐようなセリフはご法度。作るものは、いわば国策映画、プロパガンダ映画にならざるを得ない。それでも、カトリンは情熱を込めてタイプを打ち続ける。そんな中でさまざまなトラブルが彼女を待ち受ける。国策に沿うようシナリオに無理難題を押し付ける上層部、セリフや役柄に注文を出す老男優アンブローズ・ヒリヤード(ビル・ナイ)。若者はみな戦場に出ていったため、彼のような老いぼれ俳優でも使わざるを得ないのだ。それでも仕事が軌道に乗り始めたころ、同棲していた売れない画家の浮気が発覚する。失意の彼女に寄り添うのは、同じシナリオライターのエリス(ジャック・ヒューストン)だった…。

 緊迫の戦時下でも映画にかける情熱はあったし、ロマンもあった。そんなストーリーに花を添えるのは、「戦争」をシニカルに見つめつつもエスプリを忘れない登場人物たちの軽妙なせりふ回し。「(観客が)人生の1時間半を捧げられる映画を」なんていいですね。もっとも、シナリオライターが主人公だから、このぐらいは当たり前か。観終わって幸せな気分に浸れる一本。

 2016年、英国BBC制作。原題「Their Finest」は「彼らに極上の作品を」ぐらいの意味か。この作品に関しては、邦題がよくできている。

 

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