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上質で分かりやすいジョン・ル・カレ~映画「われらが背きし者」 [映画時評]

上質で分かりやすいジョン・ル・カレ

~映画「われらが背きし者」

 「裏切りのサーカス」「誰よりも狙われた男」以来のジョン・ル・カレ原作。二つの特徴がある。一つは「寒い国から帰ってきたスパイ」以来、「スパイ」自身を主人公にしてきたジョン・ル・カレが一般人を主人公にしたこと。もう一つは、伏線をちりばめて精巧な寄せ木細工のような組み立てがあまり見られなかったことだ。

 とはいえ、一般人を主人公にしたのは、サスペンスを高めるという意味では、効果的だった。その分ストーリーは単純化し、一本調子になったきらいがあるが。

 休暇でモロッコを訪れた大学教授ペリー(ユアン・マクレガー)は、レストランでうさん臭いロシア人ディマ(ステラン・スカルスガルド)と出会う。そして、USBメモリーを渡され、英国当局に届けてくれと頼まれる。彼はロシア・マフィアのマネーロンダリングを担当していたが、ボスが替わったため身の危険を感じ、MI6に保護を求めているのだ。仕方なく引き受けたペリーは、闇社会のブラッドマネーをめぐる攻防戦に引き込まれていく…。

 と、こんな具合である。ジョン・ル・カレはこれまでスペイ戦での心理劇を得意としたが、これは007のような分かりやすいストーリーである。舞台がモロッコ、スイス、フランス、英国とめぐり、畳みかけてくる展開も飽きさせない。ジョン・ル・カレだから、そこここにスコッチのような上質の香りが立ち上るのも心地いい。ちょっと軽くて分かりやすい「ジョン・ル・カレ」が楽しめる。2016年、英国。

 それにしても、冷戦期のスパイものから手掛けているジョン・ル・カレは何歳になったのか。ウィキペディアで調べたら、来年秋で85歳だという。元気なものだ。



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最後の大逆転が見もの~映画「手紙は憶えている」 [映画時評]

最後の大逆転が見もの

~映画「手紙は憶えている」



 老齢のクリストファー・プラマー演じるゼブ・グットマンが、アウシュビッツで家族を殺されたナチへの恨みを晴らそうと、北米各地を彷徨する。きっかけは高齢者施設で出会ったマックス・ザッカー(マーティン・ランド―)。ゼブと同じく、家族を殺されたというマックスは脳こうそくで車いす生活。そこでゼブに、恨みを晴らしてくれるよう依頼する。すでに相手はほぼ特定されている。戦後、「ルディ・コランダー」の偽名で米国に亡命した。該当者を4人まで絞り込んだリストを、ゼブに託す。しかし、ゼブはこのとき重度の認知症で、1週間前に妻が死んだことさえ、覚えてはいなかった。そこで、マックスは内容を細かく手紙にしたためる。

 追っている男の本名は「オットー・ヴァリッシュ」であることも分かっている。ようやくカナダで突き止めた4人目の男がそうらしい。男がロビーに降りてくるまでの間、ゼブはピアノに向かった。昔、手ほどきを受けたことがある。彼が弾いたのは、あのヒトラーが好んだワグナーだった―。

 ここから、アウシュビッツで家族を殺された恨みを晴らす、という全体の構図が大逆転する。ゼブが捜し当てた男はオットー・ヴァリッシュではなく、クニベルト・シュトルムだと名乗った。しかし、ナチでありアウシュビッツにいたことも間違いないという。では、オットー・ヴァリッシュはどこにいるのか。男とゼブの腕には、アウシュビッツの収容者であったことを示す囚人番号の刺青。それは一番違いだった。

 ここからは、書けない。書いてしまったら、映画を見る価値が半減する。

 なかなか良くできた脚本である。クリストファー・プラマーと、元ナチの老人を演じるブルーノ・ガンツ(「ヒトラー最期の12日間」でヒトラーを演じた)の対決も重厚で見ものである。しかし、作品としては一抹の軽さを感じる。重度の認知症であるゼブが北米大陸を自在に捜し回れる不思議さ、組織的な殺戮工場であったアウシュビッツで、収容所内の特定のブロック責任者にのみ殺意が向けられることなどが原因としてあげられる。

 しかし、まあそんな小難しいことはいわずに、と思えば、なかなかに引き込まれるドラマである。2015年、ドイツ・カナダ合作。

手紙は憶えている.jpg


家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」 [映画時評]

家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」


 

 妻の死に立ち会って初めて気づく日常の空洞。そこから永い再生の物語が始まる。どうやって? どこへ向かって?

 流行作家となり、テレビにも顔を出す衣笠幸夫(ペンネーム津村啓=本木雅弘)は外向きの顔とは別にコンプレックスの塊である。自己諧謔の日々の中で妻夏子(深津絵里)との生活も冷え切っていた。そんなある日、妻は親友との旅の途中、バス事故で急死する。自宅で愛人と不倫の時間を過ごしていた幸男は、妻の死に際して涙も出ない自分の姿に気づく。バス会社との交渉の中で、事故で亡くなった夏子の親友の夫・大村陽一(竹原ピストル)に出会い、ストレートな心情の吐露に心を動かされる。

 陽一はトラックの運転手。二人の子を残して数日間家を空けなければならない。途方に暮れる姿を見て、幸夫は子供たちの面倒を見ることを申し出る。なぜそう思ったかは、彼自身にも分からない。幸夫の子育てシミュレーション、もしくは家族ごっこが始まる。妻の死の瞬間、最大の裏切りを行っていたことへの贖罪なのか。心に空洞を生んでいた妻との生活の何かを埋めるためなのか。幸夫のマネジャー岸本信介(池松荘亮)は「奥さんの死できちんと泣きましたか」と問う。

 「ゆれる」以来、西川美和には注目している。小説と映像という、ほとんど交錯する部分のない表現手段を過不足なく使い分ける。才人というほかない。原作は、主要人物の一人称で記述され、その分、細かい心理描写に立ち入っている。妻の骨を拾いながら、あっけないほど冷静な自分に気づく幸夫。妻の携帯の未送信ボックスに、あるフレーズを発見して激しく動揺する幸夫。陽一の子供たちの面倒を見ながら、不思議な充足感のようなものを感じる幸夫。それは、夏子との生活の中で味わっただろうか―。

 社会的名声や経済的裏付けがあっても、家族意識は崩壊する。多くは崩壊した事実さえ気づかない。そこに、屈折のない家族像を対比させることで、意識の空洞を浮き彫りにする。そこから再生の道筋を歩む一人の人間のかたちを描き出した。そんな映画であり、小説である。翻訳家・柴田元幸は巻末の「解説」の冒頭、「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」というトルストイ「アンナ・カレーニナ」のフレーズを引用している。その通りであろう。

 16㍉フィルムを使ったという映像の「味」がいい。



家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」 [映画時評]

家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」


 最近の日本映画に「家族」をテーマにした作品が多いのはなぜだろう。この「淵に立つ」もそうだが、近く封切られる「永い言い訳」もおそらくそうだろう。最近見た「オーバーフェンス」も、妻に愛想をつかされた男が主人公だった。少し前には「そして父になる」もあった。いずれも平凡な家庭の崩壊、もしくはその瀬戸際に立つ者たちの物語である。

 もちろん、それらをひとくくりにして語るのは乱暴だろう。「永い言い訳」は夫婦間の話であり、「オーバーフェンス」は妻に去られた男が、それでも一筋の光明を見出して社会に一歩を踏み出す。「そして父になる」は、血の継承こそが成立の基盤であると思われていた親子のありように一石を投じた。

 「血の継承」という表現を使ったが、もともと日本人には戦前からの家父長的家族意識が強かったと思われる。天皇制につながる家父長制は戦後、徹底的に批判され表向きはなくなったかに見えるが、実は伏流水としてさまざまな形で生き伸びてきた。例えば日本独自の会社組織も、底流には、戦後社会で表向き批判されたはずの家族意識が連綿としてある。

 しかし、高度経済成長から大衆消費社会、その極限ともいえるコンビニ社会の出現に至って、個食=大衆の原子化(こんな表現をだれか使っていた。丸山真男だったか)の時代に立ち至り、家族の崩壊が避けられない流れになりつつある。

 元々、「家族の崩壊」をメーンテーマに据えたのは小津安二郎だった。しかし、小津の場合はモダニズムと新中流家庭が舞台設定としてあり、見るものに多少の余裕を与えていた。しかし、最近の家族崩壊ドラマにはそんなものはなく、切迫感が漂う。

 さて、「淵に立つ」である。

 金属加工業を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と妻・章江(筒井真理子)には10歳の娘・蛍(篠川桃音)がいる。中流のごく平凡な家庭である。そこに、刑務所を出たばかりの八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。利雄は彼を雇い、妻に独断で部屋まで与える。どうやら、二人だけの秘密がありそうだ。一緒に暮らすうち、草太郎は人を殺した過去があることが分かる。そして、草太郎はこの家族に癒えることのない傷を残して姿を消す…。

 8年が過ぎる。利雄はある秘密を抱えたまま、興信所を使って草太郎の行方を追う。そこに、一人の若者が工場で雇ってほしいと訪ねてくる。そのうち、若者・山上孝司(太賀)と草太郎は一本の線でつながっていることが分かり、利雄・章江夫婦に精神の崩壊の危機が訪れる。

 利雄と草太郎の間に何があったか、草太郎は失跡する直前、蛍に何をしたのか、印象派の絵画でも見るように、それらの「具象」は見事に消されている。ただ、登場人物の心の闇と不安と戦慄がスクリーンに展開される。

 小津は家族の崩壊を一種の諦念を漂わせて描写したが、深田晃司監督は正反対の粘っこい視線で人間の心理を浮き上がらせる。そして、浅野忠信と筒井真理子の怪演が深田の演出にこたえている。

 あらためて言えば、こんな「家族ドラマ」は、外国映画にはない日本独自のジャンルのように思う。米欧では「男と女」の物語であったり、世界史の中で翻弄される家族の物語であったりする。多少の例外はあるにしても、こんな形で「家族意識」の内部に立ち入ることはないのではないか。私小説的家族映画、そんな呼び方をすればいいのだろうか。


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スポーツと政治」掘り下げが足りない~映画「栄光のランナー」 [映画時評]

「スポーツと政治」掘り下げが足りない


~映画「栄光のランナー」

 ヒトラーが国の威信をかけた1936年のベルリン五輪は今も史上最高の五輪だったと評価する向きもある。そのベルリン五輪に、米国の陸上選手として出場、四つの金メダルに輝いたジェシー・オーエンスのエピソードをからませたのが、この映画である。貧しい黒人家庭に生まれたオーエンス(ステファン・ジェームス)はオハイオ州立大に進学、陸上コーチのラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に才能を見出される。1930年代の初め、極端な人種政策をとるヒトラーのもとでの五輪に対してボイコットの機運が高まる。米黒人地位向上委員会からも出場ボイコットの要請があり、オーエンスは悩むが、結局は純粋に競技に没頭することを選択する―。

 米国内での貧困と差別、ヒトラー政権下での人種政策への抗議、そうした問題とスポーツとの距離をどうとるかという、本当はシリアスなテーマだが、映画ではほとんど直線的にストーリーが展開する。このへんはアメリカ映画らしく、陰影はほとんどない。だから展開が容易に推測できる。

 当時、隆盛を極めたナチスドイツの国情についても、それほど掘り下げた跡はみられない。そんな中で何人かの人間像が印象に残る。一人はベルリン五輪の記録映画「オリンピア」の監督、レニ・リーフェンシュタール。彼女はヒトラーの命で「民族の祭典」「美の祭典」の2部構成計約100分の作品を完成させ、内外で高く評価されたが、戦後はナチスのプロパガンダに加担したとして映画界から追放された。とはいっても、宣伝相ヨゼフ・ゲッペルスとの確執など、必ずしもナチの路線に同化してはいなかったと見られているが、そうした微妙な位置関係も比較的正確に表現されている。

 もう一人は後にIOC会長になるいうブランデージ。ヒトラーと手を組み、ベルリン五輪開催に向け、大きな力になったといわれている。もともとIOC役員には親ナチ的な思想の持ち主が多く、ブランデージもその一人であった。近年ではスペインのファランフェ党にいたサマランチが知られる。五輪そのものがファシズムに親和性があると見る向きもあるぐらいだ。

 しかし、こうしたエピソードはあくまでも後景にすぎない。スポーツと政治というテーマを深く掘り下げればもっと今日的な共感が得られただろうが、オーエンスの人間性にも迫れず、何分にもストーリーが単調であった。米国の田舎出の黒人青年がヒトラーの鼻を明かした、といった類の浅薄な評が横行するのも残念なことである。独仏カナダ合作。

 リーフェンシュタールの生涯を映画化すれば面白いと思うのだが…。


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絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」 [映画時評]

絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」

 

 国内興行収入で100億円を突破、各界から絶賛されているという「君の名は。」を観た。結論を言えば、精緻で美しい絵に比べて主人公のキャラの底の浅さが目立ち、感情移入できない印象だった。

 ある田舎の少女・宮水三葉と都会の少年・立花瀧の心が、ある日以来たびたび入れ替わる。この仕掛け自体はこれまでにも使われ(大林信彦「転校生」など)、目新しいものではない。しかし、これにある宇宙規模の出来事と過去の組み換えというSF的要素を組み合わせたところに、興業的成功を生んだ要因があると思われる。

 ストーリーの骨格は一応面白く、都会と片田舎という舞台設定とその魅力を十分に引き出した絵のうまさには感心するのだが、三葉と瀧のキャラクターが貧弱で薄っぺらすぎるのだ。したがって二人の出会いと別れ、そしてまた出会いという展開に感情移入できない。この映画を見て涙したという感想を目にするが、その心理が今一つわからない。別の言い方をすれば、もともと恋愛関係にあったわけでない二人が、ある惨劇の現場でどうして「好きだ」と打ち明けてしまうのか理解に苦しむし、よみがえりのための過去の改変になぜそこまでこだわるのかも、今一つ説得力がない。例えば「くちかみ酒」を飲むと過去にさかのぼれるという仕掛けも唐突に出てくるし、そんな怪しい酒をためらいなく飲むという瀧の行為にも納得がいきかねるが、ファンタジーだからよしとするのだろうか。

 絵とストーリーが先行し、人間が貧弱というのが私の偽らざる感想である。

 そのうえでいえば、スマホによる記憶の共有と村の神事、シャープな都会のビルと村の自然という現代日本の新旧の両極ともいえる「風景」はよく描かれ、その背景にある不条理感や逃れがたい宿命との葛藤という得体のしれないものの存在をにおわせているところが、この作品の魅力といえなくもない。

 

 

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荒涼とぬくもりの3部作~映画「オーバー・フェンス」 [映画時評]

荒涼とぬくもりの3部作~映画「オーバー・フェンス」


 逆境の中での生への執着を描いた作家・佐藤泰志の原作を映画化した「函館3部作」が完成した。第1作は熊切和嘉監督の「海炭市叙景」(2010年)、第2作は呉美穂監督の「そこのみにて光輝く」(2014年)、そして第3作が山下淳弘監督の「オーバー・フェンス」(2016年)である。
 佐藤の作品を読んでいつも思い浮かべるのは、打ちっぱなしのコンクリート壁にポツンと灯る裸電球である。冷たくザラリとした荒涼の中に、かすかな希望とぬくもりが危うく佇んでいる。どの作品も、そんな味わいである。佐藤は自らが生まれ育った「函館」という地方都市にこだわりながら、若者たちの閉塞感と捨てきれぬ希望を描いた。
 函館は北海道の南端・渡島半島にある。北海道は日本列島の北の果てにあり、函館は北海道の半島のどん詰まりにある。こうしたどん詰まり感を、紀伊半島の出身者である中上健次は、次のように書く。
 ――海に腹をさらし、山に背を向けているのがその半島の生活の意味である(略)
 ――半島は爆弾でもある。
 ――ものを見る人間に、半島は本質として無政府である。
(「夢の力」講談社文芸文庫、1994年)
 中上は、彼一流の過激な言葉遣いで半島という辺境に閉塞感と解放感が入り混じる不思議な情景をみている。函館に暮らした佐藤にも、このような心象が潜んでいただろうか。
 もう一つ思うのは、地方都市が抱える古さと新しさの混在する中での、不安な心持である。「海炭市叙景」に触れて、川本三郎はこう書いている。
 ――古い町はさびれたが、新しい町はまだ育っていない。完成されていない。そこからくる不安が、人々に何かを待たせるのだろう。「海炭市」では、不安とともにあることが生きる条件になる。
(「言葉の中に風景が立ち上がる」新潮社、2006年)
 「古京はすでに荒(れ)て、新都はいまだ成らず」と、人心の不安を表現した「方丈記」の一節を思わせる。この二つのうち、前者は函館の地理的特性から生まれる思想のかたち、後者は地方都市の置かれた状況から生まれる思想のかたちを表しているように思う。
 映画「海炭市叙景」(いうまでもないが、海炭市とは函館のことである)は連作18編のうち5編を取り上げ、オムニバス風に仕上げた。不況でドックを解雇された男と彼を待つ妹、都市再開発に抗う老女、妻の裏切りに心を乱す市職員…。共通項は「敗者」であるが、みんな何かを待っている。待つことで希望の輪郭を心の中に描こうとする。
 「海炭市叙景」がタイトルそのままに市井の哀歓を描いたのに比べ、「そこのみにて光輝く」は、男女の出会いを描いている。鉱山事故をきっかけに仕事をやめた達夫(綾野剛)と傷害事件で仮出所した拓児(菅田将暉)の出会い。拓児の自宅には、夜の盛り場で売春をし、暮らしを支える姉の千夏(池脇千鶴)がいた…。そこには、絶望感を抱きながらも枯れるには早い男と女が逆光に佇んでいる。
 「オーバー・フェンス」は、作家の道を一度は断念し、函館の職業訓練校に入ったころの佐藤自身の体験がベースにあるという。妻に見限られて故郷に戻り、失業保険で食いつなぎながら職業訓練校に通う白岩義男(オダギリジョー)。生きる目的を失い、惰性で過ごす日々。そんなある日、訓練校の仲間の男に誘われてキャバクラに行き、風変わりな女・田村聡(蒼井優)と出会う。なぜか、危うさを秘めた女の言動に惹かれていく。白岩は聡に、訓練校で開かれる校内対抗ソフトボール大会に来てほしいと頼む…。前2作に比べるとストーリーは重くはなく、比較的さらりとした味わいである。
 実際の佐藤は訓練校を中退したのち再び上京、「オーバー・フェンス」や「そこのみにて光輝く」を書きあげ、長期連作「海炭市叙景」を完成させる前に41歳で自死した。「海炭市叙景」は1年の四季の中で書こうとされていたと聞く。冬から始まり、早春のあたりで終わっている。芥川賞に5回ノミネートされた作家である。

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報道することの明と暗~映画「ニュースの真相」 [映画時評]

報道することの明と暗~映画「ニュースの真相」


 2004年の米大統領選。ジョージ・W・ブッシュは再選を目指していた。そんな折、ベトナム戦争の兵役拒否疑惑が持ち上がる。CBSイブニングニュースのアンカー、ウオルター・クロンカイトの跡を継いだダン・ラザー(ロバートレッドフォード)はすでにテレビジャーナリズムの巨人だった。彼がやはりアンカーを務める「60ミニッツⅡ」のプロデューサー、メアリー・メイプス(ケイト・ブランシェット)は、4年前にもこの疑惑を追ったが、モノにできなかった。今度も取材チームを編成、疑惑解明を急ぐ。関係者が一様に口をつぐむ中、一人の男がメモのコピーを提示する。それこそ、彼女が求めていたものだった―。
 何度もコピーを重ねて不鮮明なメモは、本物なのか。放送時間ぎりぎりまで、真偽をめぐる議論が続く。そして時間切れ。ベトナム戦争の兵役を逃れ、テキサス州空軍の訓練をもサボタージュしていたというブッシュの行状が、ダン・ラザーによって語られた。「これで大統領を追いつめることができる」。スタッフはだれもがそう思った。
 しかし、放送翌日、思いもしなかったことが保守系のブロガーによって指摘された。兵役逃れの根拠としたメモは偽物だったというのだ。根拠として、1968年から1973年までのものとされたメモが、当時なかったはずの「ワード」によって打たれたものであることを挙げていた。一転、CBSは守勢に立たされ、メモが本物であることを証明しなくてはならなくなった。しかし、何度もコピーされ不鮮明なメモを本物と証明するのは極めて困難だった。
 やがてCBSは独立委員会によって結論を得ようとする。当然、メアリーも召喚される。同伴の弁護士は、けっして反論しないよう忠告する。しかし、耐えに耐えたメアリーは最後の局面で持論を全面展開する。結果としてメアリーは解雇処分になる。そして、ダン・ラザーは、この事件を最後に、CBSイブニングニュースを降りる。
 メアリーが独立委員会で行った反論が興味深い。メモが本物であることの立証責任は報道した側にある、とする委員に対して、当時の用語、勤務形態、なにより当事者がメモを残していたことを知っていること、これらは真実だとする根拠にはならないのか。かつてのペンタゴン・ペーパーズ、ディープスロートはどうだったのか―。
 ダニエル・エルズバーグによって1971年に持ち出されたベトナム政策の国防総省機密文書、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」をニューヨークタイムスが掲載、司法長官は掲載差し止めを命令した。これに対してワシントン・ポストが掲載を引き継ぐ。当時、W・ポストの編集局内ではこんな議論があったという。「報道の自由を守る唯一の方法は、報道することだ」(D・ハルバースタム「メディアの権力」)
 それが100%真実だと確信できなければ報道できないのか。報道の最前線は、常にこのことを自問自答する。ペンタゴン・ペーパーズもウォーターゲート事件(大統領の陰謀)も、アメリカジャーナリズムの輝かしい金字塔である。最近公開された「スポットライト」はカトリック教会という強大な権力に挑むジャーナリズムを描いた。
 これらに比べると、「ニュースの真相」はジャーナリズムの後退戦を描いた作品である。真実を追求する闘いには、常にこうしたリスクが伴う、ということである。なお、ブッシュ自身の兵役逃れは実際にあったのかどうか。これが問題の本筋と思われるが、このことを問う前に文書の真偽に焦点が合わされ、最も重要な問題にはフタがされてしまった。権力側によるこうした手法は、外務省機密漏えい事件と似ていなくもない。
 この映画は、ブッシュをはじめ関係者を実名で登場させ、実写フィルムも交えている。この種の映画を日本で作った場合、これほど淡々と作れるかどうか。おそらく、「この映画はフィクションです」という断り書きが最後に入るのではないか。こんなところにも、日米のギャップを感じてしまう。2015年、アメリカ・オーストラリア合作。

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夏の夜のスリラー~映画「帰ってきたヒトラー」 [映画時評]

夏の夜のスリラー~映画「帰ってきたヒトラー」

 

 「アドルフ」はもともと、日本でいえば「太郎」や「二郎」といった平凡な、どこにでもある名前だったらしい。しかし、戦後ドイツで我が子にこの名前を付ける親はいないという。ヒトラーは戦後ドイツの最大のタブーになったのである。しかし、そのタブーを正面から笑い飛ばす映画が登場した。

 ヒトラーは1945年、ベルリンの総統府地下壕で愛人とともに銃で頭を撃ち自殺した。この経緯は「ヒトラー最期の12日間」(2004年、ドイツ・イタリア・オーストリア)が、過不足なく描いている。ところが、この「帰ってきたー」では、ヒトラーが2014年のドイツにタイムスリップする。もちろんありえないことで荒唐無稽といってしまえばそれまでだが、とりあえずそのことは言わない。

 戦後ドイツ社会をさまようヒトラー(オリバー・マスッチ)は、まず「そっくりさん」として扱われ、あるテレビ番組に出演する。「今の時代こそ責任ある指導者と変革が必要なのだ」と堂々たる演説で、これがバカ受けする。現代ドイツの状況にピタリとはまっているからだ。一躍、テレビの人気者になったヒトラーはある撮影で、吠える犬に怒り即座に射殺する。どういう経路でか、このシーンが放映されてしまい、ヒトラー人気は急降下。おかげで時間が生まれたヒトラーは「我が闘争」に続く著作の執筆にかかる。インターネッツ(ドイツ風に)の存在を知ったヒトラーは、この上ない政治宣伝の道具であることに気づき、アジテーションを始める。そして、映画化の話が進む。あるシーンで「ヒトラーは怪物だ」と非難されても余裕しゃくしゃく、「選んだのは誰だ、普通の市民だ」「私は大衆ともにある」と答える―。

 戦後ドイツは、ヒトラーが不在であるからこそ「戦後ドイツ」たりえた。しかし、ここにヒトラーが据えられたとき、戦後は「戦後」たりうるのか。ひょっとして現代はヒトラーの時代そのものではないのか。そんな問いが投げかけられ、難民が押し寄せて排外主義が高まる現代ドイツの政治状況が映し出される。

 と、ここまできて、コメディータッチのこの映画は、実は現代のスリラーであることに気づかされる。猛暑の夏、涼みたい方はどうぞ、というわけだ。それとともに、強権政治と復古主義が不気味な高まりを見せる日本の政治状況にも通じることに気づかされる。2015年、ドイツ。強靭なエスプリがきいた映画だ。

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山岳映画と期待しないほうがいい~「ヒマラヤ~地上8000㍍の絆~」 [映画時評]

山岳映画と期待しないほうがいい~


「ヒマラヤ~地上8000㍍の絆~」

 韓国が作った本格的な山岳映画、という触れ込みで、期待して観たが…。うーむ。これは山岳映画なのか。少し違うような。

 8000㍍峰14座を世界で9番目に登った韓国の登山家、オム・ホンギルの実体験を映画化したといわれる。14座登頂を機に、登山家としては引退したホンギル(ファン・ジョンミン)は、ヒマラヤ4座を共にした後輩パク・ムテウ(チョン・ウ)ら3人がエベレストで遭難したとの報を受ける。そこは標高8750㍍、遺体回収など考えられない過酷な場所である。それでもホンギルはかつての仲間に呼びかけ、ムテウを山から降ろそうとする。かつての仲間は二の足を踏む。生活を捨て、死を覚悟して何の名誉にもならない遺体回収に加わるなどということは、考えられないのだ。ホンギルはやむなく単独で乗り込むことを決意する…。

 しかし、一人、二人と仲間が集まり、遭難したムテウらを除く全員がそろった。生活も名誉も捨てて、かつての仲間を山から降ろすためだけに、集まったのだ。そして、エベレストへの過酷な旅が始まる…。

 日本で山岳映画といえば、アルピニズムをめぐる論争やら個人と組織の軋轢やら、ついでにロマンが絡んで最後は自然賛美、というパターン(この部分、クラシカルモデルは井上靖「氷壁」)だが、そういったものはいっさいない。ただベタに人間関係が描かれる。日本と韓国の国民性の違い、ということなのだろうか。

 山岳シーンは風景、演出ともに、こういっては何だがチャチである。例えば8000㍍を超す地点でみんな酸素マスクもせず敏捷に動き、絶叫する。もともと名誉を求めた登山ではないので、初めから酸素マスクをつければいいのだが、みんなそんなことはしない。が、動きは精力的である。この辺の描写が嘘っぽい雰囲気を醸す(あとで気づいたが、酸素マスクをすると誰が誰か分からなくなることを懸念したのだろうか。それならそれで何か工夫のしようがありそうな)。

 終わってみれば山はそっちのけでひたすら熱い人間ドラマ。同じストーリーでも、おそらく日本ではこうは作らないだろうなあ、と嘆息した。

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