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「文明と人間」を考えさせる~映画「ハドソン川の奇跡」 [映画時評]

「文明と人間」を考えさせる~映画「ハドソン川の奇跡」

 いわゆるアメリカン・ヒーローたちの知られざる内面的葛藤、という意味では、同じクリント・イーストウッド監督の「アメリカン・スナイパー」があった。イラク戦争を舞台に狙撃兵の苦悩を描いたものだけに、その愛国主義的映像に若干うんざりさせられたが、今回は、経験と機転によって飛行機事故から乗客を救った機長の物語。政治的な色彩はなくその分、安心して楽しめる。
 真冬のハドソン川にUSエアウェイズ1549便が不時着水したのは2009115日。その時のようすを記憶している。むしろ、危険を顧みず乗客の救出に向かったNY市民の勇気がメディア上でたたえられた印象が強い。機長はむしろ、最初から最後まで「ヒーロー」であったように思うが、日本での情報は限られている。この映画のような事態があったことは容易に推測できる。
 機長のチェズレイ・サレンバーガー(愛称サリー、=トム・ハンクス)は42年のキャリアを持つベテランである。この日もラガーディア空港を難なく飛び立った。しかし、直後にカナダガンの群れに遭遇。鳥が飛びこんだため、両方のエンジンが同時停止という緊急事態を迎える。高度わずか850㍍。ラガーディア空港に引き返そうとするが、推力不足であきらめざるを得ない。近隣の空港へ向かうのも絶望的な事態だった。下手をすればニューヨークのビル群に激突する。その時、目の前にあったのはハドソン川だった―。コックピットの緊迫したやりとり。高度を下げ、機体を水平に保ちながらの着水。
 機長は、絶望的な状況の中で乗客全員の命を救ったと、たちまち英雄視される。しかし、ここでNTSB(国家運輸安全委員会)の手が入る。飛び立った空港か隣接の空港に着陸することもできたのに、乗客を不要に危険にさらしたのではないかというのだ。飛行42年のベテランは、わずか208秒の機体操作の是非をめぐって罪に問われようとしていた。
 公聴会では、あらゆるシミュレーションが展開された。しかし、シミュレーションはあらかじめシナリオが想定されている。ぎりぎりの局面で判断する、その時間はどこに組み込まれているか。コンピュータにヒューマンファクターはどう組み込まれているか―。それが最終的に問いかけられる。
 この結末は、実は逆のことも言っているように思える。航空機だけでなく、我々はコンピュータの制御によって安全を保障されている。しかし、そこに寄りかかってしまうと思わぬヒューマンエラーを犯すことがある。そうした人間的な過誤は、あらかじめコンピュータに組み込まれているだろうか。人間は時にコンピュータを超えることがあるかもしれないが、コンピュータに寄りかかったために過ちを犯すこともある。そうした「人間と文明」という骨太のテーマが、ここにはあるように思う。クリント・イーストウッド監督は相変わらずうまい。


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「いま」の時代に、どう読むべきか~映画「沈黙 SILENCE」 [映画時評]

「いま」の時代に、どう読むべきか

~映画「沈黙 SILENCE

  遠藤周作が1966年に発表した小説の映画化である。17世紀、江戸時代初期の日本。キリスト教弾圧が熾烈を極めたころ。ポルトガルのイエズス会宣教師・ロドリゴとガルペは、自らの師ともいえるフェレイラが弾圧に屈して棄教したと聞き、その事実を確かめようと日本に渡る。そして、苛烈な弾圧の中でガルペは信者たちに寄り添い、命を落とす。ロドリゴは、案内役だったキチジローの裏切りによって獄につながれる…。
 苛烈な弾圧を目撃する中で、踏み絵を踏まないとはどういうことか、神は弱者には寄り添わないのか、という「神と人間」「信仰と人間」をめぐる極めて深い問題が提示される。
 しかし、この映画は、そうした問題にとどまらないものを、我々に示している。既に棄教したフェレイラはロドリゴと再会し「この国はすべてのものを腐らせる沼だ」と述懐する場面がある。日本の思想風土は、キリスト教の本来のかたちである「唯一絶対神」を、今の時代でも認めない。すべての神を相対化する。もちろんそれは「神」に限ったことではなく、日本の思想風土はすべての外来思想を相対化する。 ここから見えてくるものは、キリスト教という外来思想(=近代)と、それを拒む反近代の構図であり、その相克の先にある思想と生活の問題、すなわち「『転向』とは何か」である。遠藤周作が、そうした問題意識の中でこの小説を書いたかどうかは寡聞にして知らないが、少なくとも1960年代という時代の中で、そうした読み解き方をされたのではないか、とは容易に推測できる(私も、そうした読み方をした記憶がある)。
 この物語は、封建的な江戸時代にこんなことがあったね、というだけでなく、現代においてどういう意味を持つのか、という読み方をすべきだろう。多少青臭い表現をすれば、「イデー(理念)」と「現実」の落差をどう受け止めるのか、信仰という理念に生きることは美しいかもしれないが、ではそこで弱者はどう生きるのか、という大テーマが背後に横たわっている。マーティン・スコセッシ監督が「いま」という時代に、この「沈黙」の映画化にこだわった理由も、そこにあるのではないか。


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他者としての「戦争」「原爆」~映画「この世界の片隅に」 [映画時評]

他者としての「戦争」「原爆」

~映画「この世界の片隅に」

 「夕凪の街 桜の国」に続くこうの史代原作の映画化である。ただし、今回は実写でなくアニメ化した。それはなぜかは、後でふれる。
 1944年、「いつもぼおっとしている」という浦野すずは、ある男性に見初められ、広島の江波から呉に嫁ぐ。戦況は緊迫し、絵が好きなすずは呉湾に浮かぶ軍艦を無心に描き、憲兵に間諜(スパイ)の疑いをかけられたりするが、優しい夫・北条周作との生活を不器用ながらも地道に築いていく。あくまでも普通の生活こそかけがえがないと思っている。しかし、呉では日に日に空襲が激しくなる。あるとき、姉の子を連れて空襲跡を歩いていたすずは、時限爆弾がセットされた不発弾に遭遇して姉の子を死なせ、自らも右手首を失う…。そして1945年8月6日。不気味な大きな雲が広島の方向から立ち上がった。直前には閃光と地鳴り。「新型爆弾らしい」という噂が駆け巡る。
 印象的なのは、「戦争」と「原爆」が「他者」もしくは「他在」のものとして描かれている点だ。爆撃機が突然焼夷弾を落とし、戦闘機が銃撃するという形で、「戦争」はいつも天災のようにやってくる。夫の周作も、軍に勤めてはいるが法務関係の仕事をしており、直接戦地へ赴くわけではない。つまり、当事者性が希薄である。何より、すずは嫁ぎ先の呉の地から、広島の原爆を「他在」のものとして見ている。
 しかし、「戦争」を他在のものとして描くには、それなりの仕掛けが必要である。呉湾に浮かぶ多くの軍艦、急降下する米軍戦闘機、山影から不気味に立ち上るきのこ雲。それを実写でスクリーンに載せるのは、かなり大掛かりな作業になる。あくまですずの心情に寄り添う形の作品にするためには、アニメが最適と判断したのではないか。
 それらを運命として受け入れる「強さ」(この表現には賛否あろうが、少なくともこの映画はそのように描く)を持つ女性としてすずを描いている。不器用な自分でも、この世界の片隅に受け入れてくれる場所があるなら、運命(すずにとって「結婚」も、選択ではなく運命であったようだ。このことは、「当時の女性がそうであった」ということなのか、「いつの時代もそうあるべきだ」と作り手が思っているのかはよく分からない)を受け入れ、優しく強く生きようとする。そういう思いを描いた映画である。
 「戦争」と「原爆」を「他者」とする視点は、被爆者である叔母の体験を後の世代の女性自身が追体験しようとする「桜の国」でも見られる(「夕凪の街」は原爆スラムに生きる被爆女性が主人公)。これは、こうの史代の基本的スタンスのように思える。広島の出身であることを意識した結果、逆にベタな(直接的な)対象への迫り方を避けたためか。それともほかの理由があるのか。聞いてみたい。しかし、少なくとも、1968年生まれで戦争体験とは全く無縁の彼女にとって、「戦争」も「原爆」も、時間軸から見れば「他在」のものであることは確かだろう。
 

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どこにでもある日常の風景を重ねてどこにもない人生が浮かび上がる~映画「ジュリエッタ」 [映画時評]

どこにでもある日常の風景を重ねて
どこにもない人生が浮かび上がる
~映画「ジュリエッタ」

  スペインのペドロ・アルモドヴァル監督作品である。つくづく思うのは、女性の描き方がとてもすぐれているということだ。波乱万丈のドラマがあるわけではない。日常の小さなエピソードを丹念に重ね、どこにもない世界を作り上げていく。あるいは、一つ一つのエピソードのつながりが分からないと思う向きがあるかもしれない。しかし、アルモドヴァルは決してそこを説明的に処理しようとは思っていない。あくまでも映像で訴える。そうした意味で、この映画は散文的ではなく映画的といえるかもしれない。
 マドリッドで暮らすジュリエッタ(エマ・スアレス)はある男とポルトガルに旅立とうとしていた。しかし、新生活を前に彼女は12年前に別れた娘アンティア(ブランカ・パレス、プリスシーリャ・デルガド)の親友だった女性とばったり出会う。彼女から、アンティアがマドリッドに戻りたがっていると聞いたジュリエッタの心は騒ぐ。そして、届くあてのない娘への手紙を書き始める。「今こそすべてを話したい」…そんな思いをにじませて。
 ここから、過去の回想シーンへと転換する。ある列車で偶然出会ったジュリエッタ(アドリアーナ・ウガルテ)と漁師ショアン(ダニエル・グラオ)の恋。小さないさかいの末にあらしの海に出たショアンはそのまま帰らぬ人となる。そのとき、一人娘アンティアは学校のキャンプに出掛けていた。父の死に疑問を持ったアンティアはうつ病になり、ある宗教団体に救いを求める…。
 ジュリエッタの「いま」と「過去」の切り分けが極めて鮮やかに処理されている。「いま」は赤、というより紅をベースに画調が整えられ、「過去」はブリリアントなブルーを基調にする。紅―暗い赤は聖衣、信仰、罪の意識が背後に舞っており、明るい青はスペインでは誠実、ひたむきを表すというように、若い日のジュリエッタの伸びやかな心境を縁取る。
 冒頭に書いたように、ここにあるのは誰にでも起こりうる日常のエピソードである。しかし、それらを丹念に積み重ねた結果、一人の女性の重厚な、そして彼女にしかない人生が浮かび上がる。その意味では、これは最近の日本でよく見かける私小説的な「家族ドラマ」に引けを取らない「家族ドラマ」である。2016年、スペイン。

 

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上質で分かりやすいジョン・ル・カレ~映画「われらが背きし者」 [映画時評]

上質で分かりやすいジョン・ル・カレ

~映画「われらが背きし者」

 「裏切りのサーカス」「誰よりも狙われた男」以来のジョン・ル・カレ原作。二つの特徴がある。一つは「寒い国から帰ってきたスパイ」以来、「スパイ」自身を主人公にしてきたジョン・ル・カレが一般人を主人公にしたこと。もう一つは、伏線をちりばめて精巧な寄せ木細工のような組み立てがあまり見られなかったことだ。

 とはいえ、一般人を主人公にしたのは、サスペンスを高めるという意味では、効果的だった。その分ストーリーは単純化し、一本調子になったきらいがあるが。

 休暇でモロッコを訪れた大学教授ペリー(ユアン・マクレガー)は、レストランでうさん臭いロシア人ディマ(ステラン・スカルスガルド)と出会う。そして、USBメモリーを渡され、英国当局に届けてくれと頼まれる。彼はロシア・マフィアのマネーロンダリングを担当していたが、ボスが替わったため身の危険を感じ、MI6に保護を求めているのだ。仕方なく引き受けたペリーは、闇社会のブラッドマネーをめぐる攻防戦に引き込まれていく…。

 と、こんな具合である。ジョン・ル・カレはこれまでスペイ戦での心理劇を得意としたが、これは007のような分かりやすいストーリーである。舞台がモロッコ、スイス、フランス、英国とめぐり、畳みかけてくる展開も飽きさせない。ジョン・ル・カレだから、そこここにスコッチのような上質の香りが立ち上るのも心地いい。ちょっと軽くて分かりやすい「ジョン・ル・カレ」が楽しめる。2016年、英国。

 それにしても、冷戦期のスパイものから手掛けているジョン・ル・カレは何歳になったのか。ウィキペディアで調べたら、来年秋で85歳だという。元気なものだ。



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最後の大逆転が見もの~映画「手紙は憶えている」 [映画時評]

最後の大逆転が見もの

~映画「手紙は憶えている」



 老齢のクリストファー・プラマー演じるゼブ・グットマンが、アウシュビッツで家族を殺されたナチへの恨みを晴らそうと、北米各地を彷徨する。きっかけは高齢者施設で出会ったマックス・ザッカー(マーティン・ランド―)。ゼブと同じく、家族を殺されたというマックスは脳こうそくで車いす生活。そこでゼブに、恨みを晴らしてくれるよう依頼する。すでに相手はほぼ特定されている。戦後、「ルディ・コランダー」の偽名で米国に亡命した。該当者を4人まで絞り込んだリストを、ゼブに託す。しかし、ゼブはこのとき重度の認知症で、1週間前に妻が死んだことさえ、覚えてはいなかった。そこで、マックスは内容を細かく手紙にしたためる。

 追っている男の本名は「オットー・ヴァリッシュ」であることも分かっている。ようやくカナダで突き止めた4人目の男がそうらしい。男がロビーに降りてくるまでの間、ゼブはピアノに向かった。昔、手ほどきを受けたことがある。彼が弾いたのは、あのヒトラーが好んだワグナーだった―。

 ここから、アウシュビッツで家族を殺された恨みを晴らす、という全体の構図が大逆転する。ゼブが捜し当てた男はオットー・ヴァリッシュではなく、クニベルト・シュトルムだと名乗った。しかし、ナチでありアウシュビッツにいたことも間違いないという。では、オットー・ヴァリッシュはどこにいるのか。男とゼブの腕には、アウシュビッツの収容者であったことを示す囚人番号の刺青。それは一番違いだった。

 ここからは、書けない。書いてしまったら、映画を見る価値が半減する。

 なかなか良くできた脚本である。クリストファー・プラマーと、元ナチの老人を演じるブルーノ・ガンツ(「ヒトラー最期の12日間」でヒトラーを演じた)の対決も重厚で見ものである。しかし、作品としては一抹の軽さを感じる。重度の認知症であるゼブが北米大陸を自在に捜し回れる不思議さ、組織的な殺戮工場であったアウシュビッツで、収容所内の特定のブロック責任者にのみ殺意が向けられることなどが原因としてあげられる。

 しかし、まあそんな小難しいことはいわずに、と思えば、なかなかに引き込まれるドラマである。2015年、ドイツ・カナダ合作。

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家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」 [映画時評]

家族の崩壊と再生~映画「永い言い訳」


 

 妻の死に立ち会って初めて気づく日常の空洞。そこから永い再生の物語が始まる。どうやって? どこへ向かって?

 流行作家となり、テレビにも顔を出す衣笠幸夫(ペンネーム津村啓=本木雅弘)は外向きの顔とは別にコンプレックスの塊である。自己諧謔の日々の中で妻夏子(深津絵里)との生活も冷え切っていた。そんなある日、妻は親友との旅の途中、バス事故で急死する。自宅で愛人と不倫の時間を過ごしていた幸男は、妻の死に際して涙も出ない自分の姿に気づく。バス会社との交渉の中で、事故で亡くなった夏子の親友の夫・大村陽一(竹原ピストル)に出会い、ストレートな心情の吐露に心を動かされる。

 陽一はトラックの運転手。二人の子を残して数日間家を空けなければならない。途方に暮れる姿を見て、幸夫は子供たちの面倒を見ることを申し出る。なぜそう思ったかは、彼自身にも分からない。幸夫の子育てシミュレーション、もしくは家族ごっこが始まる。妻の死の瞬間、最大の裏切りを行っていたことへの贖罪なのか。心に空洞を生んでいた妻との生活の何かを埋めるためなのか。幸夫のマネジャー岸本信介(池松荘亮)は「奥さんの死できちんと泣きましたか」と問う。

 「ゆれる」以来、西川美和には注目している。小説と映像という、ほとんど交錯する部分のない表現手段を過不足なく使い分ける。才人というほかない。原作は、主要人物の一人称で記述され、その分、細かい心理描写に立ち入っている。妻の骨を拾いながら、あっけないほど冷静な自分に気づく幸夫。妻の携帯の未送信ボックスに、あるフレーズを発見して激しく動揺する幸夫。陽一の子供たちの面倒を見ながら、不思議な充足感のようなものを感じる幸夫。それは、夏子との生活の中で味わっただろうか―。

 社会的名声や経済的裏付けがあっても、家族意識は崩壊する。多くは崩壊した事実さえ気づかない。そこに、屈折のない家族像を対比させることで、意識の空洞を浮き彫りにする。そこから再生の道筋を歩む一人の人間のかたちを描き出した。そんな映画であり、小説である。翻訳家・柴田元幸は巻末の「解説」の冒頭、「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」というトルストイ「アンナ・カレーニナ」のフレーズを引用している。その通りであろう。

 16㍉フィルムを使ったという映像の「味」がいい。



家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」 [映画時評]

家族意識の崩壊を凝視する~映画「淵に立つ」


 最近の日本映画に「家族」をテーマにした作品が多いのはなぜだろう。この「淵に立つ」もそうだが、近く封切られる「永い言い訳」もおそらくそうだろう。最近見た「オーバーフェンス」も、妻に愛想をつかされた男が主人公だった。少し前には「そして父になる」もあった。いずれも平凡な家庭の崩壊、もしくはその瀬戸際に立つ者たちの物語である。

 もちろん、それらをひとくくりにして語るのは乱暴だろう。「永い言い訳」は夫婦間の話であり、「オーバーフェンス」は妻に去られた男が、それでも一筋の光明を見出して社会に一歩を踏み出す。「そして父になる」は、血の継承こそが成立の基盤であると思われていた親子のありように一石を投じた。

 「血の継承」という表現を使ったが、もともと日本人には戦前からの家父長的家族意識が強かったと思われる。天皇制につながる家父長制は戦後、徹底的に批判され表向きはなくなったかに見えるが、実は伏流水としてさまざまな形で生き伸びてきた。例えば日本独自の会社組織も、底流には、戦後社会で表向き批判されたはずの家族意識が連綿としてある。

 しかし、高度経済成長から大衆消費社会、その極限ともいえるコンビニ社会の出現に至って、個食=大衆の原子化(こんな表現をだれか使っていた。丸山真男だったか)の時代に立ち至り、家族の崩壊が避けられない流れになりつつある。

 元々、「家族の崩壊」をメーンテーマに据えたのは小津安二郎だった。しかし、小津の場合はモダニズムと新中流家庭が舞台設定としてあり、見るものに多少の余裕を与えていた。しかし、最近の家族崩壊ドラマにはそんなものはなく、切迫感が漂う。

 さて、「淵に立つ」である。

 金属加工業を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と妻・章江(筒井真理子)には10歳の娘・蛍(篠川桃音)がいる。中流のごく平凡な家庭である。そこに、刑務所を出たばかりの八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。利雄は彼を雇い、妻に独断で部屋まで与える。どうやら、二人だけの秘密がありそうだ。一緒に暮らすうち、草太郎は人を殺した過去があることが分かる。そして、草太郎はこの家族に癒えることのない傷を残して姿を消す…。

 8年が過ぎる。利雄はある秘密を抱えたまま、興信所を使って草太郎の行方を追う。そこに、一人の若者が工場で雇ってほしいと訪ねてくる。そのうち、若者・山上孝司(太賀)と草太郎は一本の線でつながっていることが分かり、利雄・章江夫婦に精神の崩壊の危機が訪れる。

 利雄と草太郎の間に何があったか、草太郎は失跡する直前、蛍に何をしたのか、印象派の絵画でも見るように、それらの「具象」は見事に消されている。ただ、登場人物の心の闇と不安と戦慄がスクリーンに展開される。

 小津は家族の崩壊を一種の諦念を漂わせて描写したが、深田晃司監督は正反対の粘っこい視線で人間の心理を浮き上がらせる。そして、浅野忠信と筒井真理子の怪演が深田の演出にこたえている。

 あらためて言えば、こんな「家族ドラマ」は、外国映画にはない日本独自のジャンルのように思う。米欧では「男と女」の物語であったり、世界史の中で翻弄される家族の物語であったりする。多少の例外はあるにしても、こんな形で「家族意識」の内部に立ち入ることはないのではないか。私小説的家族映画、そんな呼び方をすればいいのだろうか。


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スポーツと政治」掘り下げが足りない~映画「栄光のランナー」 [映画時評]

「スポーツと政治」掘り下げが足りない


~映画「栄光のランナー」

 ヒトラーが国の威信をかけた1936年のベルリン五輪は今も史上最高の五輪だったと評価する向きもある。そのベルリン五輪に、米国の陸上選手として出場、四つの金メダルに輝いたジェシー・オーエンスのエピソードをからませたのが、この映画である。貧しい黒人家庭に生まれたオーエンス(ステファン・ジェームス)はオハイオ州立大に進学、陸上コーチのラリー・スナイダー(ジェイソン・サダイキス)に才能を見出される。1930年代の初め、極端な人種政策をとるヒトラーのもとでの五輪に対してボイコットの機運が高まる。米黒人地位向上委員会からも出場ボイコットの要請があり、オーエンスは悩むが、結局は純粋に競技に没頭することを選択する―。

 米国内での貧困と差別、ヒトラー政権下での人種政策への抗議、そうした問題とスポーツとの距離をどうとるかという、本当はシリアスなテーマだが、映画ではほとんど直線的にストーリーが展開する。このへんはアメリカ映画らしく、陰影はほとんどない。だから展開が容易に推測できる。

 当時、隆盛を極めたナチスドイツの国情についても、それほど掘り下げた跡はみられない。そんな中で何人かの人間像が印象に残る。一人はベルリン五輪の記録映画「オリンピア」の監督、レニ・リーフェンシュタール。彼女はヒトラーの命で「民族の祭典」「美の祭典」の2部構成計約100分の作品を完成させ、内外で高く評価されたが、戦後はナチスのプロパガンダに加担したとして映画界から追放された。とはいっても、宣伝相ヨゼフ・ゲッペルスとの確執など、必ずしもナチの路線に同化してはいなかったと見られているが、そうした微妙な位置関係も比較的正確に表現されている。

 もう一人は後にIOC会長になるいうブランデージ。ヒトラーと手を組み、ベルリン五輪開催に向け、大きな力になったといわれている。もともとIOC役員には親ナチ的な思想の持ち主が多く、ブランデージもその一人であった。近年ではスペインのファランフェ党にいたサマランチが知られる。五輪そのものがファシズムに親和性があると見る向きもあるぐらいだ。

 しかし、こうしたエピソードはあくまでも後景にすぎない。スポーツと政治というテーマを深く掘り下げればもっと今日的な共感が得られただろうが、オーエンスの人間性にも迫れず、何分にもストーリーが単調であった。米国の田舎出の黒人青年がヒトラーの鼻を明かした、といった類の浅薄な評が横行するのも残念なことである。独仏カナダ合作。

 リーフェンシュタールの生涯を映画化すれば面白いと思うのだが…。


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絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」 [映画時評]

絵と道具立てはいいが~映画「君の名は。」

 

 国内興行収入で100億円を突破、各界から絶賛されているという「君の名は。」を観た。結論を言えば、精緻で美しい絵に比べて主人公のキャラの底の浅さが目立ち、感情移入できない印象だった。

 ある田舎の少女・宮水三葉と都会の少年・立花瀧の心が、ある日以来たびたび入れ替わる。この仕掛け自体はこれまでにも使われ(大林信彦「転校生」など)、目新しいものではない。しかし、これにある宇宙規模の出来事と過去の組み換えというSF的要素を組み合わせたところに、興業的成功を生んだ要因があると思われる。

 ストーリーの骨格は一応面白く、都会と片田舎という舞台設定とその魅力を十分に引き出した絵のうまさには感心するのだが、三葉と瀧のキャラクターが貧弱で薄っぺらすぎるのだ。したがって二人の出会いと別れ、そしてまた出会いという展開に感情移入できない。この映画を見て涙したという感想を目にするが、その心理が今一つわからない。別の言い方をすれば、もともと恋愛関係にあったわけでない二人が、ある惨劇の現場でどうして「好きだ」と打ち明けてしまうのか理解に苦しむし、よみがえりのための過去の改変になぜそこまでこだわるのかも、今一つ説得力がない。例えば「くちかみ酒」を飲むと過去にさかのぼれるという仕掛けも唐突に出てくるし、そんな怪しい酒をためらいなく飲むという瀧の行為にも納得がいきかねるが、ファンタジーだからよしとするのだろうか。

 絵とストーリーが先行し、人間が貧弱というのが私の偽らざる感想である。

 そのうえでいえば、スマホによる記憶の共有と村の神事、シャープな都会のビルと村の自然という現代日本の新旧の両極ともいえる「風景」はよく描かれ、その背景にある不条理感や逃れがたい宿命との葛藤という得体のしれないものの存在をにおわせているところが、この作品の魅力といえなくもない。

 

 

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