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緻密な心理描写~映画「セールスマン」 [映画時評]

緻密な心理描写~映画「セールスマン」

 

 監督は「別離」のアスガー・ファルハディ(イラン)。なんでもない日常の中に潜む危機を描きだして、見るものに戦慄を覚えさせた。この「セールスマン」もまた緻密に作りこまれた「日常の中の危機」の物語である。

 教師エマッド(シャハブ・ホセイ)は妻ラナ(タラネ・アリドゥステイ)と小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の上演を控えている。そんなある日、住んでいるアパートが付近の工事の手違いで崩壊の危機にさらされる。やっと見つけた新たな住まいには、以前の住人の荷物が置かれたままだった。

 引っ越しを済ませた二人にある日、思いがけない出来事が起きる。舞台のけいこを済ませて先に帰宅したラナが入浴中、誰かに襲われたのだ。前の住人だった女性と関係のある人物だと推理したエマッドは、ついにある人物にたどり着く。しかし、ラナは心の傷を抱えながらも、そうした夫の姿に同意できないものを感じている。そして、憎悪でも復讐の念でもなく、二人がとった行動は―。

 ファルハディ監督の緻密な心理描写は、相変わらず見事である。日常の薄皮一枚下に潜む感情のもつれ、価値観の違い、それらがもたらす人間関係の亀裂を鮮やかに浮き彫りにする。このあたりのこまやかさは、日本映画に通じる。「セールスマンの死」は第2次大戦後の米国市民の家庭崩壊、親子の断絶、若者の挫折感などを描き出したが、この有名な演劇が作中で演じられる。現代イラン市民にも、こうした精神風景が広がりつつあることを示唆していて興味深い。

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単純が生む面白さ~映画「ノー・エスケープ 自由への国境」 [映画時評]

単純が生む面白さ~
映画「ノー・エスケープ 自由への国境」

 

 トランプ大統領の選挙中の公約に、米国とメキシコ国境に壁を造るというのがあった。まだあきらめていないらしいが、移民排斥の動きは、トランプ大統領だけでなく米国民の感情の底流としてあるのだろう。この映画も、そうした感情を織り込みながら米国・メキシコ国境で起きていることを映像化した。

 といっても、政治的色彩はまったくない。追うものと追われるもの、撃つものと撃たれるもののせめぎ合いを映像化した。スティーブン・スピルバーグ監督の初期作品「激突!」は、ひょんなことで巨大トレーラーにつけ狙われる男の恐怖感を描いたが、それに似た味わいがある。ストーリーは単純明快、余計な説明などない。「ノー・エスケープ」のスタッフは「ゼロ・グラビティ」と同じというだけに(監督はアルフォンソ・キュアロンの息子ホナス・キュアロン)、作品のコンセプトは共通している。絶体絶命の環境の中でどう生きのびるか、それだけを追った。

 米国へ不法移民を試みるモイセス(ガエル・ガルシア・ベルナル)らメキシコ人16人を乗せたおんぼろトラックが行く。ところが砂漠のど真ん中でエンスト、ブローカー2人とともに歩いて横断する羽目に。そこへウサギ狩りに興じるサム(ジェフリー・ディー・モーガン)が出くわす。国境を越えて入り込むメキシコ人たちを快く思わないサムはライフルで次々と狙撃していく。そして「ここは俺の国だ。邪魔はさせん」と叫ぶ。

 ただそれだけのストーリーだが、単純なだけに緊迫感は嫌がおうにも盛り上がる。「ゼロ・グラビティ」は宇宙空間が人間の生存を阻むが、「ノー・エスケープ」では砂漠が人間の生存を阻む。灼熱の太陽、水も食べ物も武器もなく、サボテンの下にはガラガラヘビ。追ってくるのはライフルと獰猛な猟犬。さあ、どうする…。

 

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超監視社会への流れを告発~映画「スノーデン」 [映画時評]

超監視社会への流れを告発~映画「スノーデン」

 

 「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ改正組織犯罪処罰法が711日付で施行された。多くの市民が懸念するように、複数の人間で特定の意思表示を企てただけで処罰の対象になりかねない。その前段として「企て」を立証するために、権力を行使する側の膨大な監視行為が行われる。

 国会での議論で、政府は「一般人が対象になることはない」といいながらも「目的が一変して犯罪集団とみなされた場合には、もはや一般人ではない」と答弁、抜け道を作った。「目的が一変した」ことを見定めるには一般市民への常時監視が必要であり、そのうえで犯罪集団とみなすのはあくまでも捜査機関である。「一般人が対象とはならない」というのは、論理矛盾というほかない。

 森達也著「すべての戦争は自衛から始まる」で、90年余り前の新聞記事が紹介された。ある学生から見せられたという。1925年、治安維持法が国会で成立したときのものだ。森はこれを見て「呆然とした」という。そしてこう続けた。「ここ数日の見出しと変わらないじゃないか」。その見出しとは、例えばこうである。

 「赤」の定義で押し問答/定義はハッキリせぬが/この法律だけは必要だという

 治安維持法は/傳家の寶刀に過ぎぬ/社會運動が同法案の為抑壓せられることはない

 ここでの「赤」は、現在では「犯罪集団」と置き換えられるだろう。それを除けば、90年以上もたって、代わり映えのしない議論をしているのである。治安維持法がその後、国家総動員体制に異を唱える人々にどれほどの威力を発揮したかは、いうまでもない。

 こうした動きは、日本に限ったことではない。世界共通、権力の習性というべきものであろう。だからこそ「監視への欲望」をむき出しにする権力への「監視」が必要になる。

 映画「スノーデン」は、オバマ大統領のもとで進められた米国の国民総監視体制を白日にさらした人物にスポットをあてた。エドワード・スノーデンが軍役で訓練中に重傷を負い除隊、その後、情報工作の才能を買われてNSA(国家安全保障局)やCIA(中央情報局)と接触を持ち、膨大なインターネット、電話の傍聴の事実を知る。それを、英ガーディアン紙などを通じて暴露、香港からロシアまでの亡命行までを描いた。

 監督のオリバー・ストーンは「7月4日に生まれて」や「プラトーン」で米国の裏面を描き、ピーター・カズニックとの共著「もう一つのアメリカ史」で米国の戦後史を塗り替えた。彼の作品に対しては、いつも賛否両論がある。「スノーデン」も、畳みかけるような細かいカットの連続で、分かりやすいとはいいがたい。しかし、傍聴・監視の事実を告発したスノーデンに対して「単なるハッカー」と切り捨てたオバマ大統領への怒りは、スクリーンを通してダイレクトに伝わる。

 ジャック・アタリは「21世紀の歴史」で近未来の世界を描き、民主主義の原理を凌駕する市場原理の社会が出現し、超監視社会が生まれると予言する。スノーデンは、NSAの情報監視システムが、既に日本に提供されていると明らかにしている。そうだとすれば、映画「スノーデン」で描かれたことは、日本と無縁の出来事ではない。だからこそ「超監視社会」の入り口に立とうとしている日本の現状に、多くの市民が懸念を抱き「ノー」を発信している。

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100年前と変わらぬヨーロッパ~映画「サラエヴォの銃声」 [映画時評]

100年前と変わらぬヨーロッパ~映画「サラエヴォの銃声」

 

 1914年、サラエヴォで響いた一発の銃声が、ヨーロッパを奈落の底に叩き落した。事件から100年、「ホテル・ヨーロッパ」では記念式典が開かれようとしている。大学教授にインタビューするジャーナリスト、演説の原稿を練るVIP、ストを企てる従業員とそれを阻もうとする経営者。そんな中に、あの事件と同姓同名の男、ガウリロ・プリンツィプが現れる…。

 「ヨーロッパはサラエヴォで死んだ」というセリフが出てくる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子が暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことを契機にヨーロッパは二分、第一次世界大戦が始まった。それから100年、ヨーロッパは変わったのか。映画の中でインタビューされた大学教授が延々とその歴史を語る。驚くべきことに、ヨーロッパは少しも変わってはいないのである。

 プリンツィプは演説会場に向かうVIPに銃を向けるが、ホテル従業員によって射殺される。これは何を意味するのか。偶然にも「暗殺」は未遂に終わったが、これはいつ既遂に変わるかもしれない。そうなれば、薄皮一枚下のヨーロッパの混乱が再発しても不思議はないのである。そんな皮肉が込められた一編である。監督、脚本はボスニア・ヘルツェゴビナ出身、「鉄くず拾いの物語」で注目されたダニス・タノヴィッチ。

 

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浅はかで軽薄な駄作~映画「たたら侍」 [映画時評]

浅はかで軽薄な駄作~映画「たたら侍」

 

 「たたら(鑪)」とは古代から続いた日本独自の製鉄法で、中国山地にも炉跡が残る。映画は戦国期から江戸期にかけての出雲の山村を舞台にした。期待はしなかったが、素材の魅力にひかれて観てしまった。感想は…。いやはや、である。入場料を返して、と本気で思った。

 たたら製鉄を生業とする村の若者、伍介(青柳翔)。かつて野武士に襲われた経験から、村を守る手段を持ちたいと思う。偶然村を訪れた商人に頼み、織田信長の家臣になろうとする…。

 ここまで筋書きを書くだけで気恥ずかしくなるほど軽薄な展開だ。しかし、我慢して先に行こう。伍介は戦場に赴くが、殺し合いの現場を見て耐えられず村に逃げ帰る。先の商人と織田軍の仲介をした男・与平(津川雅彦)が現れ、織田軍のように火筒(火縄銃)を持つことを勧める。伍介は「これさえあれば村を守れる」と、物見やぐらを築き、戦闘態勢を整える。

 たかだか数人の殺し合いを見ただけで腰を抜かした純朴な男が、どうして数丁の銃を持つだけで戦国時代に村を守れると思うのだろうか。かつて福井の一乗谷朝倉氏遺跡を訪れたことがあるが、戦国武将、特に織田の敵を滅ぼす際の徹底ぶりはすさまじい。一乗谷でも、前後から挟み撃ちにし、火を放って城下町ごと葬り去って、その後「日本のポンペイ」と呼ばれるに至った。400年を経て発掘が行われ、かつての城下町の全貌が明らかになったのである。こうした残忍さの背景には、戦国期、敵を根絶やしにしなければいつ復讐に遭うか分からなかったという事情がある。

 そういう時代背景を考えれば、伍介が簡単に村の自力防衛に走るという展開はいかにものどかで浅はかである。そのうち、与平は野武士風の屈強な男たちを村に連れてくる。ためらう伍介に、与平は「あなたが望んだこと」と言い放つ。

 伍介を慕うお國(石井杏奈)は村の舞台で舞い、村を出た伍介の安全を祈るが、こんなシーンいるのだろうか。織田勢がいつ攻めてくるか、という時に村人は出雲神楽に興じる。そんな余裕はあるのだろうか。伍介が勾玉のネックレスをしているのもひっかかる。

 与平は豊臣の手のものと見抜いた尼子(後に毛利に併合される)の新之助(AKIRA)が野武士たちを討つが、与平の銃によって倒れ、怒りに燃えた伍介が立ち上がる…。

 野武士が村を襲う冒頭シーン、自衛に走る村人、織田から豊臣、徳川へと天下人が代わる中、時の権力者に取り入ろうとする商人のしたたかさを描いたラストシーン。まるで黒澤明の「七人の侍」を裏返したような展開が続く。しかし、いうまでもなく「たたら侍」は、「七人の侍」の足元にも及ばない。それは何よりラストシーンで分かる。「七人の侍」では、田植えに励む農民のしたたかさを見て勘兵衛(志村喬)が「勝ったのは、あの百姓たちだ、おれたちではない」とつぶやくが、このセリフの重さは、占領期から独立期へと日本が移行した19531954年に作品が作られたことと重ね合わせて、初めて分かる。

 「たたら侍」は時代とどのように絡み合い、どんなメッセージを発しているのか。問いかけるのもせんない気がする。

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米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」 [映画時評]

米国の現実に迫る~映画「ムーンライト」

 

 フロリダの黒人街を舞台に差別と貧困、いじめ、ドラッグ、ゲイの問題に焦点を当て、その中で生きていく一人の青年シャロンの内面を浮き彫りにした作品である。製作総指揮はブラッド・ピット。全編青を基調にした美しい映像とドキュメンタリータッチの迫真に満ちたカメラワークが貫かれている。ドラマ的なまとまりよりもそうした映画としてのタッチに比重が置かれている。その分、ストーリーの細かい説明は省かれ、やや難解である。

 3章に分かれ、それぞれ別の俳優がシャロンを演じている。ナイーブな少年期、いじめに遭いながら孤独と向き合う青年期、刑務所を出た後、筋肉という鎧を身にまとい、薬の売人としてのし上がる成年期―。

 ストーリーも、最後にすとんと腹に落ちるものではない。おそらく、読み方はいろいろだろう。何よりも、米国の現実に迫った作品。そんな評価が妥当であろうか。


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重厚で安定した映像美~映画「追憶」 [映画時評]

重厚で安定した映像美~映画「追憶」

 

 「駅 STATION」や「夜叉」「あなたへ」で高倉健を主役に、日本的な味わいの映像美を追求してきた降旗康男監督が、岡田准一を主役に据えて撮った新たな「降旗ドラマ」である。木村大作を映像監督に起用、日本海に沈む夕陽と北アルプスの山塊がドラマに奥行きを与える。

 海辺のスナック「ゆきわりそう」は、家庭の温かみを知らない三人のこどもたちにとって、つかの間の和みを共有する場であった。しかし、店を取り仕切っていた涼子(安藤サクラ)を訪ねてきた刑務所帰りの元やくざが平穏を乱し、三人はその男を殺してしまう。涼子は罪をひとり背負うことを決め、三人にその場の出来事を「忘れる」ことを約束させる。

 25年後、三人のうちの一人四方篤(岡田准一)は刑事になっていた。ある日、殺人事件の被害者があの時の一人、川端悟(柄本祐)であることを知る。経営する会社が傾き、金策の最中だった。捜査するうち、悟は何度か、土建屋を営む田所啓太(小栗旬)から金を渡されていたことを知る。田所も、あの時の三人のうちの一人である。事件をネタに悟がゆすっていたのではないか…。自らの出自に潜む秘密と刑事としての倫理のはざまで揺れる篤。「事件」を背負って自首し、刑務所内で元やくざの子を産んだ涼子は今どこに。調べていくうち、涼子の子が田所の妻であることを知る。

 涼子はある事故によって車いす生活を強いられ、認知症のため記憶もなくしていた。そんな涼子を篤は訪ねる…。

 幼少期の事件を心の中に抱え、その後ある事件の刑事、被害者、容疑者として再会するという展開はC・イーストウッド監督「ミスティック・リバー」を思わせる。そこに日本海の冬の波と夕陽、北アルプスの雪山が物語のフレームとしてかぶせられれば、「駅」や「夜叉」と並ぶ日本的映像美の極致ともなる。印象的なのは夕陽を背にした涼子が青いセーターを着ているシーン。青はスペインでは誠実の色とされ、聖母マリアが青をまとっていることで知られる。夕陽と青が、涼子をマリアに昇華させるのである。こうした映像美とともに、岡田准一、安藤サクラの重厚で安定した演技が光る。

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無人兵器の非倫理性を問う~映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」 [映画時評]

無人兵器の非倫理性を問う~
映画「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」

 

 米国は、かつてのように圧倒的な軍事力で世界を制圧できなくなっている。特に、米ソ冷戦が終結しテロリスト勢力との非対称戦を迫られるようになってその傾向が強まった。そのため、無人攻撃機を多用しようという機運が高まっている。しかし、こうした軍事戦術には批判も多い。自身を安全地帯に置きながら機械(ロボット)によって敵を殺害することの非倫理性【注】。そして、誤爆によって一般市民を巻き込み犠牲にするケースが避けられないことなどによる。しかし、無人攻撃機による戦争は確実に広がりを見せている。

 こうした現代の戦争を描いたのが「アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場」である。舞台はアフリカ、ケニアのナイロビ。しかし、指揮を執る人間はそこにはいない。「現場」があるだけだ。ロンドンと米ネヴァダに映し出されるモニターを確認しながら命令と実行が行われる。

 ナイロビの一角にソマリアから流れてきたイスラム過激派アル・シャバブが潜むことを突き止めた英軍諜報機関のキャサリン・パウエル大佐(ヘレン・ミレン)は、フランク・ベンソン国防相(アラン・リックマン)とともに、上空6000㍍にいる米無人攻撃機を使って米英統合による捕獲作戦を遂行しようとする。ところが、攻撃目標の近くにパンを売る現地の少女がいることが分かる。さらに、標的の家屋内では若者二人による自爆テロの準備が進められていることが判明する。

 無人兵器による攻撃を猶予すれば、自爆テロは実行されるだろう。その結果、80人もの犠牲者が出ることが予測された。しかし、そのために少女を見殺しにできるのか。攻撃を延ばせば、準備の確証をつかみながら、自爆を阻止できなかったと世界は非難するだろう。ミサイル攻撃によって少女を殺せば、やはり世界は非難するだろう。特に、テロリストたちには格好の宣伝材料になるだろう…。

 最後にはテロリストも殺害し少女も救われた、などというハッピーエンドの甘いお話ではない。戦争とは何か、戦争が根源的に持つ非人間性、そしてそれを増幅させる無人攻撃機の存在。「ハート・ロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」と並ぶ、現代の戦争を告発した秀作だ。2015年、英国製作。

 

【注】世界史を見ると、戦争は第一次大戦直後を除いて違法化されていない。これは、対話による問題解決が困難になった場合に限り、敵対する関係国が兵を出し合って暴力的に戦い、その結果をもってどちらが服従するか結論を得る「決闘の論理」に依拠しているためと思われる。その場合、兵士は制服によって所属国を明確にする必要があり、原則として市民を巻き込まないことが求められる。しかし、ゲリラによる非対称戦が「普通の戦争」になった現在、こうした思想は崩れつつある。その場合、それでも戦争を人間でなく機械に代用させることは倫理的な問題にならないのか。これは現代の戦争の是非をめぐる大きな命題と思われる。

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悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」 [映画時評]

悲劇の地の愛のかたち~映画「灼熱」

 民族のジグソーパズルといわれたユーゴは1943年の独立以来、チトーという稀有の指導者によって辛くも保たれた。1980年にチトーが亡くなり、1989年にベルリンの壁が崩壊してユーゴ共産党の屋台骨が揺らぐと、パズルのピースが散乱するのは早かった。ユーゴは五つの民族の寄せ集めといわれたが、中でもクロアチアとセルビアの反目は激しかった。底流には第二次大戦中、クロアチア人によるナチ傀儡政権が、ユダヤ人だけでなくセルビア人の虐殺を行ったことがあるとされる。1991年、クロアチアがユーゴからの独立を宣言。彼らの居住地域の少数派だったセルビア人は危機感を強めた。クロアチアとセルビアの悲惨な紛争が起き、95年まで続いた。
 映画は、こうした時代背景の中で三つの物語を紡ぐ。一つは1991年。紛争直前のアドリア海沿岸で引き裂かれたセルビア人の娘イェレナとクロアチアの青年イヴァン。二つの村の境界線にはセルビア人が作った検問があった。ザグレブ(現在のクロアチアの首都)へと向かう計画を立てた二人だが、イェレナは家族に引き戻される。彼女を取り戻そうとしたイヴァンに悲劇が起きる。
 二つ目は2001年、紛争後のクロアチア。セルビア人の母とその娘ナタシャが荒れ果てた自宅に戻る。クロアチア人の若者アンテに修理を頼むが、お互い紛争の憎しみと心の傷は消えることがない。そんな中でアンテとナタシャはひかれあう。
 三つ目は2011年、ほぼ現代といえるクロアチア。帰郷した大学生のルカは、かつてのセルビア人の恋人マリヤを訪れる。紛争のさなか、ルカは身ごもったマリヤを捨てた過去を持つ。許しを乞うが、「もう終わったの」と冷たくされる。一晩、享楽の中に身を置いたルカは、再びマリヤのもとを訪れる。
 3編の中で、特にこの編の終わり方がいい。語りすぎず、伝えるべきものを伝えている。
 旧ユーゴは、世界でも例を見ないほど悲惨な戦いの地だった。戦う相手は、昨日までの隣人だった。それだけに心に残った傷は深い。悲しみ、憎しみ、絶望。それを癒やすものは、愛しかない。そんなメッセージが伝わってくる。アドリア海のきらめく光が、この地の持つ悲劇性を際立たせる。
 3編とも男性をゴーラン・マルコヴィッチ、女性をティハナ・ラゾヴィッチが演じた。2015年、クロアチア、スロベニア、セルビア共同製作。監督・脚本ダリボル・マタニッチ。


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この国のかたちが危うい~映画「標的の島 風かたか」 [映画時評]

この国のかたちが危うい~
映画「標的の島 風かたか」

 三上智恵監督作品「標的の島 風かたか」を観た。2016年4月に起きた米軍基地関係者によるうるま市の女性殺害事件への抗議集会(6月)のシーンから始まる。稲嶺進・名護市長が、苦渋の表情で語る。「我々はまた風かたかになれなかった」。「風(かじ)かたか」とは風よけのこと。市民、民衆が一人の女性さえ助けることができなかった。そんな思いを語っている。しかし、その前に国は民衆の「風かたか」になっているのか。そんな問いが全編を貫く。
 アジア・太平洋戦争末期、日本軍10万人が沖縄に駐留した。沖縄を守るため、と誰しもが思った。しかし、日本軍は沖縄の民衆を守らなかった。あるときは盾にし、あるときは足手まといだとして自死を強いた。軍は民を守らない。そのことが、沖縄の民の揺るがぬ歴史の教訓として今も息づいている。基地に立ち向かう沖縄の民のそうした精神の土壌が、沖縄の民俗芸能を交えた厚みあるシーンの中で語られる。
 映画はさらに宮古島、石垣島で進むミサイル基地建設、自衛隊基地をめぐる自治体と民衆の闘いを追う。先島諸島では、中国に対する軍事的抑止の名のもとに日米一体の軍事要塞化が進められている。いったん標的になった島の島民はどこに逃げるのか。そう考えれば、先島は本土防衛のための捨て石であることが分かる。本土の「風かたか」である。
 2016年夏の参院選では島尻安伊子・沖縄北方相が大差で落選、伊波洋一・元宜野湾市長が当選した。これ以上ない「基地へのノー」が示されたにもかかわらず、政府は翌日から高江のヘリパッド建設に着手した。辺野古新基地建設も、政府は埋め立てを強行する構えだ。こうした流れの中で、末期がんと宣告された山城博治さんの命がけの闘いが続く。
 こうした「沖縄の闘い」を前2作(「標的の村」「戦場ぬ止み」)と同様に三上監督は追い続けるが、けっして作風は深刻でも暗くもない。沖縄の民俗芸能を交え、民のたくましさと明るさを前面に押し出している。
 上映後、詩人A・ビナードさんとのトークで三上監督は「この映画は、沖縄が大変だからみんなで助けましょうといっているのではない。ほっておけばこの国の民主主義が大変だ、ということ」と語っていた。「沖縄」の問題としてではなく「この国」の問題としてとらえることができるか。



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