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戦後思想をきちんととらえるには~濫読日記 [濫読日記]

戦後思想をきちんととらえるには~濫読日記

 

「さらば、民主主義 憲法と日本を問い直す」(佐伯啓思著)

 

 安倍一強独裁の昨今の政治を見ると、何とかならないかと思う。しかし、考えてみればこの政権、我々の投票結果を受けてできた。嫌ならこうした政権ができないような投票行動をすればいい。しかし、なかなかそうはならない。なぜだろうか。あるいは、米国でトランプという異形の大統領が生まれた。これは民主主義の危機だろうか。あるいは民主主義だからこそ生まれた大統領だろうか。

 こうした疑問の背景を探ったのが、この書である。その結果、これまで当然とされてきた概念が、懐疑の対象とされる。民主主義はいつも正しい結果を生む、という前提でいいのか。そもそも民主主義は「主義」なのか「体制」なのか。自由主義と民主主義は同列なのか。議会主義と民主主義は。欧米では一般的に語られる共和主義はなぜ日本で語られないか。共和主義の前提である「公共」の概念は、欧米と日本で共通のものなのか。なぜ日本で「公共」は重んじられないか。

 答えはここで書くより読んでいただくほうが早いだろう。

 こうした基本概念へ洞察は、必然的に戦後民主主義といわれてきたものへの懐疑へと向かう。戦後思想はアジア・太平洋戦争への反省から民主主義、護憲主義、平和主義を三位一体とした。それは正しかったのか。民主主義(民主体制)は民を重んじることであるから、そのまま平和主義へと結びつくものではない。護憲主義は戦後思想の基軸の一つであったが、そもそも戦後憲法が生まれるに至った主権の問題がある。これをどう解決するかは、今なお大きな問題である…。著者はこうして、戦後思想を外側から見る。もちろんそれはあるべき姿であろう。戦後思想(戦後体制)をアプリオリに善ととらえる思考からは、未来は必ずしも見えてはこない。

 興味深いのは「公共」に対する考察である。著者は、近代国家論の源流である英国では王権と議会が支配・被支配の関係にあり、そこから王権=私的権力、議会=公共という概念が生まれたとする。しかし、日本では必ずしも天皇が支配者として存在しなかったため、英国のような王権と対峙する「公共」の概念が生まれなかった。日本ではイエ(=ヤケ)が積み重なり、オオヤケの概念に結び付いたとする。オオヤケとは天皇で、それ以外はすべて私的なものという理解である(江戸時代の幕府は公儀、つまり公の代行者)。ここでは、公と私が水平ではなく垂直の関係にある。

 歴史的には、オオヤケに対するこの説明はよく分かる。しかし、今日の日本的「公共」に対する説明としては通用するだろうか。戦後70余年たつ。短い時間ではない。その間に作られた「公共」の概念はないだろうか。たしかに、欧米に比べ「公共」への意識は薄いが、だからといって無視できるほど軽くもない。例えば「自由な言論空間」は、公共空間へのリスペクトがなければ成り立ちにくい。私的な「イエ」の積み重なりの頂点に「オオヤケ」があるとする発想は、そのまま現代に適用するとすれば危険である(もちろん、著者がそう思っているとは思わないが)。

 護憲派と呼ばれる人たちのように戦後を一面的に肯定、擁護するのでもなく、あるいは安倍晋三首相のように戦後を一面的に否定、無化するのでもなく、戦後をきちんととらえ直す、という意味で、刺激的かつ価値ある一冊である。

 朝日新書。760円(税別)。


さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす (朝日新書)

さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす (朝日新書)

  • 作者: 佐伯啓思
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2017/05/12
  • メディア: 新書
 

いつのころからか「青年」がいなくなった~濫読日記 [濫読日記]

いつのころからか「青年」がいなくなった~濫読日記

 

「青年の主張 まなざしのメディア史」(佐藤卓己著)

 

 そういえば、かつて「青年の主張」というのがあった。「成人の日」のころ全国大会があり、NHKが放映していた。この書の巻末資料によると、1954年に第1回があり、途中で「青春メッセージ」と改題して2005年まで続いたらしい。最初はおそらくラジオだったのだろうが、そこまでの記憶はさすがにない。働く青年を中心に(そういう人ばかりでもないだろうが)生真面目なテーマを生真面目に語るという印象が強い。弁論調というのだろうか、日常的にはあり得ないトーンで話す、という印象がある。といってもじっくり見聞きした記憶がないので、この印象が正確かどうかは分からない。

 こんな具合だから、どんな人が見ていたのかは、よく分からない。見ていたのは、おそらく同世代の人ではなかっただろう。このあたりが、この書の副題に関わってくる。いいかえれば、「青年の主張」を取り上げるとして、それをどのようなアプローチでとらえるか、である。「青年の主張」に登場した人たちの人生模様を追うノンフィクションもあるだろう。しかし、著者は「まなざし」「メディア」の二つの言葉でとらえる。つまり、この番組を見ていたのは旧世代であり、番組を支えたのは彼らの「まなざし」であったとまず規定する。ここに登場する人たちは彼らの眼鏡にかなった人物群だったということである。

 時代はやがて60年代に入り、叛乱の時代を迎える。「戦後史」といえば、60年安保とか大学闘争とか全共闘とか、叛乱する学生が取り上げられるが、この時代、圧倒的に多かったのは大学に行った層ではなく、大学に行かずに働いていた層である。彼らが、旧世代の「まなざし」の中で何を語ったか。それをメディアの潮流の一つとして掘り下げたのが、この書だといえる。

 形を変えながらも半世紀続いたこの番組を、著者は、法律でいえば逐条解説のように毎回を取り上げていく。したがって、資料を含めた全体は500㌻に近く、かなりのボリュームである。

 その中から、いくつかの印象に残ったエピソードを取り上げる。

 番組と並走しながら、「青年の主張」を取り上げたいくつかの雑誌がある。「人生雑誌」とも呼ぶべき雑誌である。その一つは「弁論」と後継誌「若い広場」である。計5回の全国大会スピーチのほぼすべてを収録した。大学闘争が燃え盛った1968年4月号には、痛烈な批判文が載った。後に編集部が書いたものと判明するが、そこでは「おとな達の顔色をうかがって動き回る」「猿回しの猿」と痛罵している。保守的な「青年の主張」翼賛メディアとみられた同誌が、急激に左旋回した。196912月号で終刊となるが、表紙はヘルメット姿の学生の写真だった。

 1963年の第10回大会には高校生だった重信房子が東京大会の3位に入った。後に赤軍派幹部として世界を飛び回った女性である。もし彼女が全国大会に出て優勝でもしていれば、と思うのは著者ならずとも興味深い思考実験である。全く違った道があったかもしれない。旧世代への反逆の象徴ともいえる彼女が、旧世代の「まなざし」の中で高評価を受けていたことが興味深い。

 東大安田講堂攻防戦の直前に行われた第15回全国大会では、1位は北海道から上京した勤労青年、2位は農業と生きる女性、3位は敬老精神の訴えだった。当時の全共闘運動に対するカウンターオピニオンである。著者は、1968年の大学在学者が全体の2割弱であり、ある新聞社の調査では「過激派を含む革新系集団」がうち2割強だったとしている。つまり、全共闘にかかわったのは多くても4%であり、世代の圧倒的多数は集団就職組だった。圧倒的多数を代弁したのは「異議申し立て」ではなく「青年の主張」のほうだったのである。

 2000年に入るころだろうか。「青年」という言葉が世の中から消えた。代わって「若者」という言葉が台頭した。青年は世の大人たちの「まなざし」の中で生きる存在だが、若者はむしろ、そのまなざしの外側で生きることを望む存在に思える。あるいは、荻野アンナがこの書でいうように「無責任な『少年』で押せるだけ押して後は一挙にオッサンになる」のである。どちらにしても「青年」は消えた。こうして「青年の主張」「青春メッセージ」は途絶えたのである。

 河出書房新社、1800円(税別)。



青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

青年の主張:まなざしのメディア史 (河出ブックス)

  • 作者: 佐藤卓己
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/01/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

ある誠実な作家の生と死~濫読日記 [濫読日記]

ある誠実な作家の生と死~濫読日記

 

「戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち」(渡辺考著)

 

 五十嵐恵邦著「敗戦と戦後の間で 遅れて帰りし者たち」は五味川純平の「人間の條件」を取り上げる中で、主人公の梶上等兵が祖国に帰還しないまま中国東北部の雪原で死んでいったことに触れ「とうとうダイダンエンか」とつぶやいた臼井吉見の読後感を紹介している。「人間の條件」は、敗戦から2年遅れて中国から帰国した五味川が、良心の戦士ともいうべき梶上等兵を作り上げ、中国戦線を生き直した小説である。もちろん、そうしなければ戦後を生きられないと五味川自身が直感したからであろう。しかし、小説の中の梶は、臼井が感じたように、戦後日本に生き残ることを許されなかった。そのことは、戦後日本に生きのびた者たちの「了解事項」であった。梶という五味川の分身を中国の雪原に埋もれさせることで日本人の戦争体験もまた中国の雪原の下、永久凍土に埋もれたのである。そのことを臼井は語っている。

 しかし、「敗戦と戦後の間」で、断絶を断絶としない努力をした作家がいた。火野葦平である。偶然の積み重なりによって中国戦線のルポルタージュを書くことを軍部に求められ、従軍作家として「土と兵隊」「麦と兵隊」「花と兵隊」などを残した。それらは高揚感に沸く日本国内でもてはやされ、火野は一躍流行作家となった。戦後は一転して、戦犯作家として罵声を浴びせられる。

 戦後の日本では、戦場から逃げ出すような兵士の話が「反戦小説」として持ち上げられ、その分、兵士としても作家としても任務を忠実にこなそうとした火野には「あんたに騙されて戦こうたようなもんじゃ」と非難が浴びせられる。戦中・敗戦から戦後へと向かう中で多くの人間はコートでも着替えるように思考のスタイルを変えたのである。

 公職追放が解け、火野は半自伝的小説「革命前夜」を1959年に「中央公論」でスタートさせる。舞台は敗戦からの1年9カ月。火野はここで、従軍作家だった自らを被告席に立たせた。それだけではない。火野は従軍メモを元に、戦中に書いた小説の書き直し作業を進めていた。そこには、軍から削除を命じられた箇所、あるいは、初めから通らないとわかっていて書かなかった箇所が書き加えられた。中国人虐殺のもようも、その中にあった。

 火野は19601月、遺書を残して睡眠薬自殺した。「革命前夜」を書き終えてのことである。 

 権力に踊らされたとはいえ、火野は、いったんは自らの手を離れ、世に受け入れられたいくつかの作品について、かさぶたでもはがすように事実と事実でないことを峻別し「完璧なもの」を目指して書き直した。火野にとって戦後も「戦争」は終わっていなかったのである。これほどの「自己変革」を自らに課した日本人がほかにいただろうか。そして、戦争はまぎれもなく一人の誠実で有能な作家を踏みつぶした。

 著者はNHKのディレクター。「従軍作家たちの戦争」や「戦場で書く―火野葦平の戦争」などの番組を手掛けた。丹念な調査に感嘆する。NHK出版、1900円。

戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち

戦場で書く 火野葦平と従軍作家たち

  • 作者: 渡辺 考
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2015/10/09
  • メディア: 単行本

 


薫り高く精緻な世界~濫読日記 [濫読日記]

薫り高く精緻な世界~濫読日記

 

「地下道の鳩 ジョン・ル・カレ回想録」(ジョン・ル・カレ著)

 

 出世作「寒い国から帰ってきたスパイ」以来、「スマイリー」三部作や「リトル・ドラマー・ガール」、最近では「誰よりも狙われた男」で注目されるジョン・ル・カレ。1931年生まれだから、既に80代の後半である。老境のカレが過去を振り返り、いくつかのエピソードをまとめた。

 タイトルからしてミステリアスである。自身のスパイミステリー並みにさぞやなぞ解きの仕掛けが凝らされているかと思えば、意外にも「序」の部分で解題がなされていた。ショットガンを楽しむ人たちのための仕掛けに由来するという。しかし、末尾には謎が込められた1行。「一筋縄ではいかない」という思いが立ち上る。

 作品にまつわる裏話、人生の一コマの回想、MI5、MI6とのかかわり、詐欺師だった父親のこと…。そして、作品の映画化の中で見たリチャード・バートンやアレック・ギネスの横顔。すべてが具体的なシーンのつながりの中で語られている。それらをレビューすることは、意味のないことだろう。なぜなら、ここに収められた数々のエピソードこそ、自身による人生のレビューだからだ。それを、拙い我が筆で繰り返すことにどんな意味があるだろう。

 ただ、ここでは、次の一文を紹介しておこう。

 ――本書に記すのは記憶に基づく真実だ。(略)作家にとって事実とは原材料であり、親方ではなく、彼の使う道具を指す。(略)もし本物の真実というものがあるとすれば、それは事実の中にではなく、物事の機微の中にある。かつて純粋な記憶などというものが存在しただろうか。(略)純粋な記憶というのは濡れた石鹸のようにつかみどころがない。少なくとも、生涯を通じて経験と想像を混ぜ合わせてきた私にとっては、そうだ。

 詐欺師の父親のことを回想した章では、こう書く。

 ――(自叙伝を書くために雇った探偵に)私は嘘つきだとも説明した。生来嘘つきで、嘘をつくようにしつけられ、嘘で生計を立てる業界で訓練され、小説家として嘘の中で生きている。フィクション作家になって何種類もの自己を作り出した。それらは実在するとしても、決して本物ではない。

 カレによるカレの世界がここにある。

 上質のスコッチのように薫り高く精緻な世界がここにある。

 早川書房、2500円=税別。

地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録

地下道の鳩: ジョン・ル・カレ回想録

  • 作者: ジョン・ル・カレ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2017/03/09
  • メディア: 単行本

 


興味尽きないその歴史~濫読日記 [濫読日記]

興味尽きないその歴史~濫読日記


 
「日本ノンフィクション史」(武田徹著)

日本ノンフィクション史.jpg  副題に「ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで」とある。「ルポ」といえば戦時中、いわゆる文士による「従軍記」が存在した。あれは本来の意味でのルポルタージュだったのか。そのあたりから、この「日本ノンフィクション史」は語り起こされる。むろん、かつての「従軍記」は、後年に火野葦平自身が語っているように軍部によるさまざまな制限の中で書かれたものであった。事実の一面だけを書く、という極めて不幸な側面を持つが、それでも堀田善衛が指摘するように、ルポルタージュを生んだ最大のものは戦争と革命だった。
 戦争が終わってみると、日本では翻訳されなかったためほとんど知られなかったが、ジョン・リードの「世界を揺るがした10日間」というルポルタージュの傑作が1919年に書かれていたことが広く知られる。そんな中で「猿取哲」のペンネームを持つ大宅壮一が台頭する。彼は戦後左翼思想に染まらぬ「無思想人宣言」のもと、新たなルポルタージュを模索する。平行して週刊誌メディアが隆盛を極める。背景には新中間層の拡張と伸展があった。
 ここで出てきたのが梶山季之、草柳大蔵に代表される「トップ屋」である。この呼称、実は週刊朝日を率いた扇谷正造の作だという。新聞社系の週刊誌は主に新聞記者によって書かれる。それに対して出版社系週刊誌の記事はフリーのライター(アンカーマン)やデータマンによってつくられる。こうした記事が相次いでヒットしたため「羨望とやっかみ、そして軽蔑の入り混じった呼称」(武田)だった。
 テレビ界の動きにも触れている。意外にも「ノンフィクション」を最初に使ったのはテレビ界だと、武田は言う。日本テレビ系「ノンフィクション劇場」がそれである。映像系メディアではもともと「ドキュメンタリー」が使われてきた。しかし、エイゼンシュタインのモンタージュ技法以来、この言葉にはある種の色がついてきた。特定の思想、あるいはプロパガンダとの結びつきが類推され、そこからあえて「ドキュメンタリー」を避け「ノンフィクション」をかぶせたということらしい。
 そして「ノンフィクション」である。武田はここで「ノンフィクション」か「ノン・フィクション」かにこだわる。「フィクション」に「ノン」ということで成り立つジャンルなのか、「ノンフィクション」という独立した分野なのか、という問いである。大まかに言えば、おそらく「ノン・フィクション」から出発しながら「ノンフィクション」に到達した、と理解するのが正しいだろう。もちろん、ここで沢木耕太郎の存在が大きい。沢木によってノンフィクションはひとつの頂点に達したといっていい。小説と見まがうばかりの「物語性」をノンフィクションは獲得した。しかし、沢木自身の次のような言葉によれば、このことはいささか危うい側面を持つ。「こうして出来上がったノンフィクションは、小説とどう違うのかと聞かれると、ちょっと返す言葉がなくなる」。いいかえればニュージャーナリズムで語られたノンフィクションは「閉じられたノンフィクション」であった、これをどう「開かれたノンフィクション」にするか。武田はここでリテラリー・ジャーナリズム、もしくはアカデミック・ジャーナリズムの道は用意できないか、と指摘する。
 書の内容に沿って「ノンフィクション」をめぐる歴史を簡単に振り返ってみると、こうした著作がなぜ今までなかったのだろうか、という思いがあらためてする。しかし、読んでいくうち「ノンフィクション」という言葉自体が極めて危ういものであることが分かる。ジャーナリズム、ルポルタージュ、ドキュメンタリーのなかでノンフィクションはどう位置付けられるのか。「ノンフィクション」とは何か。事実を書けばノンフィクションになるのか。事実の向こうに真実はあるのか。そういう思いが湧き出す。
 手元に資料がなく、この部分はあいまいな記憶に頼って書くのだが、かつて鎌田慧と草柳大蔵による「トヨタ」をめぐる論争があった。鎌田には「自動車絶望工場」、草柳には「現代王国論」がある。ともにトヨタを取り上げた。草柳は、最新鋭の設備によって食事が提供される社員寮を書いた。鎌田はそれに、実際に食してうまいかどうかを確かめたのか、と批判していたように思う。これは、実は深い意味を持っている。「ルポは見たり聞いたり、触れてみたりしたものでなければ書けないのか」という問題である。一方で鎌田の「自動車―」には「潜入ルポ」と揶揄する声があり、鎌田自身、当惑したことをある著作で書いていた。こうしたことは、ノンフィクション史の中でどう位置付けられるのだろうか。
 著者はこの書を書くのに7年を費やしたと「おわりに」で触れている。たとえば、鎌田慧のほかにも立花隆はどう位置付けるのか。書の中であまり触れられていない新聞社系のライター、上前淳一郎や本田靖春をどうとらえるのか。興味は尽きない。
 中公新書、880円。

日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書)

日本ノンフィクション史 - ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで (中公新書)

  • 作者: 武田 徹
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/03/21
  • メディア: 新書


ジャーナリズムの本筋を行く~濫読日記 [濫読日記]

ジャーナリズムの本筋を行く~濫読日記

 「日本会議の研究」(菅野完著)

日本会議の研究.jpg 「籠池騒動」がテレビのワイドショーを賑わせている。いち小学校の不透明な設立経緯に端を発し、渦中の籠池泰典氏の、幼稚園児に教育勅語を暗唱させるなどユニークな教育方針がテレビ・バラエティの波長にピタリはまった感があり、そこに「私と妻がかかわっていたら議員も首相もやめる」という安倍晋三首相の無防備な発言(裏側にあるのは、長年「一強」といわれ続けたことからくる傲慢さ)が重なって、着地点が見えない。国有財産の恣意的な処分という疑惑が本筋にあって無視はできないのだが所詮、小学校の設立をめぐる疑惑というフレーム自体は揺るぎそうにない。行きつくところまで行けば下火になるであろう、ぐらいの感覚で眺めている。
 しかし、騒動の周辺で何やら薄気味悪いものが見え隠れする。「瑞穂の国」を名前にかぶせたうさん臭い小学校建設に、なぜ安倍首相夫人はこんなにも無防備に手を貸したのか。とっくに葬り去られたはずの「教育勅語」を、なぜ稲田朋美防衛相はわが身を顧みず?擁護するのか。天皇が教育方針に訓を垂れ、かつ国家と天皇のために命を捨てろというのが憲法違反でないという理屈は、どこをどう押したら出てくるのだろうか。稲田答弁は明白な憲法擁護義務違反であるし、教育勅語を教育現場で使うことを否定しないという閣議決定もまた、憲法擁護義務違反である。こんなことがまかり通る世情は、いつの間に醸成されたのだろうか。
 そんなことをつらつら思っていたら、ある人物が籠池さんの周辺から出てきた。著述業・菅野完氏である。その著作「日本会議の研究」は、一度読んでみなければ、と思いつつ時間が取れないまま「積読」状態にあった。ここにきてようやく、この一冊は情況と交錯した。「日本会議」こそが、今日の薄気味悪い世情の底流をなすものではないか。
 日本会議もだが、菅野氏自身、極めて興味深い足跡である。もともと「左」の活動家であったが転向し、米国の大学を出て一般サラリーマンをやりながら、著述業に足を踏み入れたといわれる。菅野氏が「日本会議の研究」を書くに至ったこうした経緯は、一応頭に入れて読んだほうがいい。つまり、大手メディアの書き手のようにきちんとした取材体制や協力者を得ながら書かれたものでない、ということである。それは別段、菅野氏を貶めるために言っているのではない。「はじめに」で本人も言っているように、通読すれば読みづらいところが各所にある。しかし、それはコツコツと独力で書き溜めた末のことだと思われる。変につるりとしているより、ごつごつざらざらとした触感にこそ、この著作の価値がある。
 そうした「手作業」感がにじむ本書はしかし、「日本会議」というこれまで誰も足を踏み入れることのなかった草の根保守の実体に極めて肉薄しているように思う。全共闘運動が吹き荒れた1970年ごろの長崎大で展開された保守による奪還闘争に日本会議の源流を見、思想的バックボーンとして「生長の家」があったことを浮き彫りにしたあたりは、ジャーナリズムの本筋を行く感がある。安東巌という一人のイデオローグに行きついたあたり、圧巻の筆の冴えである。
 今日、牙を抜かれた大手メディアが「バラエティショー」の枠組みの中で「籠池騒動」をとらえる中、こんな骨のあるジャーナリストが「在野」に潜んでいる。なんとも皮肉なことである。
 扶桑社新書、800円(税別)。

日本会議の研究 (扶桑社新書)

日本会議の研究 (扶桑社新書)

  • 作者: 菅野 完
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 新書

 


海という不条理の世界~濫読日記 [濫読日記]

海という不条理の世界~濫読日記

 「漂流」(角幡唯介著)

漂流.jpg 未踏の渓谷に足を踏み入れた「空白の五マイル」や、北極海横断を試みて悲惨な結末を迎えた探検隊の跡を追った「アグルーカの行方」の著者角幡唯介が、「漂流」をテーマにした一冊を世に問うた。角幡は、自らの肉体を自然にさらしてぎりぎりの冒険を重ねる中で、生と死の感覚が複雑に入り組んだ内面を凝視できる数少ない探検家=ライターである。今回は海を舞台に、ある漂流者の体験を追いながらそうした生と死の世界を描写して見せたに違いないと勝手に思っていたら、違った。もっと厚く、深みのある世界がそこにあった。
 角幡が「漂流」体験に関心を持った動機はよく分かる。これまで彼が重ねてきた「自然に翻弄される人間」という体験の極致にあるのは「漂流」体験ではないか、と誰しも思う。そこで、彼は「漂流者」の手がかりを求めてリサーチに入る。浮かび上がったのが、37日間グアムからミンダナオまで2800㌔を漂い、奇跡の生還を遂げたという沖縄のマグロ漁師である。角幡が漁師の妻に取材の申し込みをすると、返事は意外なものだった。漁師は帰還から8年半後、再び海に出たままいまも行方知れずだという。これほどの体験をした男が、なぜ再び海に出たのか。一体、どこを漂流しているのか―。
 ここから、綿密で膨大な取材が始まる。その漁師、本村実の出身地、伊良部島・佐良浜のこと。そこは古くから漁師の里であり、漁師気質の血が脈々と流れる土地であること…。ある漂流体験を追いながら、一人の漁師を生んだ風土にも迫ろうという角幡の試みは、時に漂流しているのは誰か、という思いさえ、読む者に抱かせる。漂流しているのは角幡なのか、それとも読者なのか。終戦直後の、積み荷の爆弾目当ての沈船漁りで命を落とした多くの浜の男たち、南太平洋のマグロ漁で一獲千金の末に無一文になった男。海は多くの男たちの人生を狂わせた。その中に本村実もいた。
 本村実は、ニライカナイに旅立ったのではないか。ニライカナイとは沖縄で信仰されてきた他界、常世である。海に出た漁師たちに寄り添う不条理の国。そういえば、佐良浜のもともとの起源は、補陀落浄土を求めて池間島に流れ着いたある僧の存在であったと角幡は書き記す。
 角幡は取材を通して、「海」という不条理に縛り付けられた人間の生き様を発見する。そして、そのことが、自分を魅了したのだと告白する。考えてみれば、角幡が自然の中の冒険に向かう動機もまた、自然という不条理に身を任せたいというある種の欲望にあるのだろう。だからこそ、彼は本村実の生き方に羨望を抱く。
 ――考えてみると、私が本村実の漁師としての足跡をこれほどたずねまわったのは、このような不条理な海という自然にしばりつけられて生きてきた土地と人々の生き様に魅了されたからであった。と同時に、彼らにある種の妬みをかんじたからでもあった。
 角幡はこの一冊で、自らの冒険譚を書くライターという位置づけから一段違う存在になったことは確かであろう。
 新潮社、2016年、1900円(税別)。

漂流

漂流

  • 作者: 角幡 唯介
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2016/08/26
  • メディア: 単行本


究極のポピュリズムに堕する恐れも~濫読日記 [濫読日記]

究極のポピュリズムに堕する恐れも~濫読日記

 「情報参謀」(小口日出彦著)

情報参謀のコピー.jpg  随分昔の話だが、ある国会議員との雑談で、落選して浪人中のことに話題が及んだ。居酒屋をしていたという。「どうして、また」というと、政治家と居酒屋には共通点があり、どちらも情報(=口コミ)を扱う仕事だということだった。
 テレビでは、朝から井戸端会議のようなワイドショーが全盛だ。かつてのような、問題提起型やニュースの掘り起こしでなく、不確かなことも含めて情報を整理し、分かりやすく視聴者に見せる。どうしてこうなったか。ネット社会の影響が大きいと思われる。いわゆるSNSである。先の米大統領選ではツイッターが威力を見せた。オバマさんが大統領の座についた時10万人だったフォロワーは、トランプさんの時1000万人を超えたという。一方で既存メディアの信頼性は、各種世論調査によると激減した。かわりに、内容の7割は信ぴょう性に疑問符がつくというトランプさんのツイッターが社会的影響力でトップになった。
 ネット社会は、巨大な口コミ社会だといわれる。「~らしい」といった「情報もどき」があっという間に社会を席巻する。
 そこで、得体のしれない化け物と化した「テレビ+ネット社会」をうまく読み解けば、政権への道筋も確かなものとして描けるのでは、と考えるのは、至極当然のことであろう。情報はどう発信すればいいか。いま、最も注目されているトピックは何か。キーワードは何か。その背後にはどんな動きがあるか。
 政権の座から滑り落ちた自民党は、こうした巨大口コミ社会での「情報分析」に着目した。迎え入れたのが、パースペクティブ・メディア社長であり、デジタル情報分析のプロである小口日出彦であった。彼は、衆院選に大敗した2009年から、第2次安倍政権が参院選に圧勝した2013年まで、自民党の情報分析プロジェクトにかかわった。その体験をまとめたのが、この書である。
 この間の自民党との関係について小口は「カーナビのようなものだった」と回想する。つまり自民党という車があり、運転者である自民党議員に「政権」という目的地にたどり着くまでの道筋を提示する。それが自分に与えられた役割だったという。
 これまで、政治とは庶民の求めるものを直感的につかむ―例えば田中角栄が典型だが―経験と勘がものを言う世界だった。ここに小口は、テレビとネットを24時間監視し、それを膨大なデータとして積み上げ、さまざまなトレンドを抽出するという手法を持ち込んだ。基礎となるのは、テレビでの報道(ポジ、ネガの判別も含めて)とネットでの検索数、ブログへの書き込み。もちろんこうしたメタデータ作成が可能になった背景には、社会での情報の流れ方がアナログではなくデジタルに変わったということがある。
 さらに、こうしたデータの抽出を、初期には1週間単位で行ったが、後には日ごとにまとめる形に変えていった。こうして、例えば選挙戦に入れば、いま何を訴えればいいかをその日その日で提示していく。こうした手法は、マーケティングリサーチに似ている。というより、そのものといったほうがいい。いま消費者が飛びつく商品は何か、ということと同じ次元で、いま有権者が飛びつく、あるいは民主党にダメージとなる政治コンテンツは何かを探る。こうした役回りを小口は自ら「傭兵」と表現している。
 例えば「政治とカネ」は、急激に注目されるが関心が薄れるのも早い。沖縄の「普天間」は、なかなか関心は伸びないが、落ち込みも少ない(小口は「減衰率が低い」と形容している)。そこで、有権者に訴えるには「政治とカネ」より「普天間」の方が有効、とアドバイスする。これは、考えようによってはかなりきわどい作業と思える。
 情報を整理し集計したうえで情報のトレンドやキーワードの抽出までは「傭兵」がやるが、素材を採用するかどうかは自民党で決める、と役割分担の線引きがなされているが、この境界線があいまいになるか崩れた時には、政治が究極のポピュリズムに堕する恐れがある。小口自身、谷垣禎一総裁へのレクチャー資料をめぐって「よくここまででしゃばったものだ」と冷や汗をかいたと述懐している。政治ビジョンの提示の仕方についてまで指南しているからだ。ここから、ビジョンの内容にまで立ち入ることまでの距離はそれほどないように思う。そのことの意味と怖さを自民党側が本当に理解しているかどうか。もし理解していないとすれば…。
 この書は一見、「ITと政治」というきらびやかな世界の一端を示したかのようにも見えるが、私には現代の怪談のように思えた。(講談社現代新書、760円=税別)

情報参謀 (講談社現代新書)

情報参謀 (講談社現代新書)

  • 作者: 小口 日出彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2016/07/20
  • メディア: 新書


沖縄戦後史と半生を重ねる~濫読日記 [濫読日記]

沖縄戦後史と半生を重ねる~濫読日記 

「私の沖縄現代史 米軍支配時代を日本(ヤマト)で生きて」(新崎盛暉著)

私の沖縄現代史.jpg 沖縄の近現代史について多数の著書を持つ著者は、沖縄出身の父母のもと、東京で生まれ、沖縄大学に赴任するまでの半生をヤマトで過ごした。いわば戦後沖縄の同伴者である。本土と沖縄の関係について「構造的差別」と指摘した著者が、日本と沖縄の「関係史」を、自身の半生を重ねてつづった。
 1936年生まれ。日中戦争の始まる前年である。戦時下を愛国少年として過ごし、都立高生のころ、対日平和条約と日米安保協約の発効を聞く。校長の「万歳三唱をしましょう」との言葉に違和感を覚える。大学在学中にはハンガリー動乱と遭遇。アメリカの陰謀説を唱える自治会執行部の説明は「著しく説得力を欠いている」と映る。
 60年安保へ向けた動きが強まる中、「沖縄」をどう位置付けるかが議論の焦点になる。在日米地上軍の大幅削減がうたわれ、海兵隊を主力とする地上部隊の多くが本土から沖縄に移駐してきたが、そのことを批判した本土メディアは少なかった。さらに、安保の条約適用範囲に沖縄を含めるかどうかが議論された。沖縄は既に米比、米韓、米台などとの共同防衛地域に入っていたため、日米安保の範囲内に沖縄を入れることは、北東アジア条約機構の成立を意味する。しかし、政府は、返還を前提にすれば当然、沖縄は日米安保の範囲内に入るとした。
 大学を出ると、中野好夫が立ち上げた沖縄資料センターの仕事と、生活の糧を得るための東京都庁勤務の「二足の草鞋」の生活を始める。安保闘争後の1963年ごろから雑誌「世界」を中心に論文や小文を書くことになるが、振り返って「二つの意図があった」という。一つは沖縄問題が日本全体の問題であることをヤマトの読者に理解させること、もう一つは、沖縄の大衆運動のリーダーに運動の自己点検や内在的矛盾の直視を呼び掛けること。
 しかし、本土と沖縄の意識のギャップは容易に埋まらなかった、と著者はいう。特に1968年ごろから、従来の復帰運動や返還運動の質的転換を模索する動きが強まり、それが実力行動を生み、「自画自賛」とも思える運動総括に結び付くものもあった。本土と沖縄を分離するこうした観念的二分法がその後、肥大化し、強固な構造的差別につながったという。一方で、辺野古や高江の闘いには、こうした観念的二分法を実践的に克服する動きも見えるという。
 1972年、沖縄闘争敗北の結果として沖縄は日本に返還され、沖縄は日本の外側からでなく内側から日米安保を支える存在になった。復帰措置の一環として私立大の統合問題が起き、沖縄大が存亡の危機に立たされる。この問題にもかかわった著者は、その後、存続が決まった沖縄大の教員になる。
 自身の半生と沖縄の戦後史を重ね合わせ、人々との出会いを絡めてつづられたこの書は、硬軟織り交ぜた筆致で動乱の時代を振り返り、読ませる。
 (岩波現代文庫、2017年、980円=税別)

私の沖縄現代史――米軍支配時代を日本で生きて (岩波現代文庫)

私の沖縄現代史――米軍支配時代を日本で生きて (岩波現代文庫)

  • 作者: 新崎 盛暉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/01/18
  • メディア: 文庫

 


全米を覆う「私は惨め、それで何が悪い」 [濫読日記]

全米を覆う「私は惨め、それで何が悪い」

 「ルポ トランプ王国―もう一つのアメリカを行く」(金成隆一著)

トランプ王国.jpg 今朝(228日)の新聞で、トランプ米大統領がアカデミー賞授賞式でさんざん皮肉られたことが伝えられた。メディアの選別、移民の排斥をはじめ、多様性を認めない姿勢への批判である。アメリカは英国から独立する際、自由と可能性の国を旗印にしてきた。その国で、どうしてこんな政権が生まれたか。
 もちろん、これはトランプ個人の資質によるというより、アメリカが置かれた窮状がもたらした結果であろう。では、アメリカが置かれた状況とは何か。それを探ったのがこの書である。
 あるトランプ支持者が書いたアメリカの地図が出てくる。粗雑な地図だが、言おうとすることはわかる。アメリカの中央部、かなり広い範囲がぐしゃぐしゃと塗られている。著者によると、赤(=共和党の色)で塗られている。東と西の海岸部は別のトーンになっている。おそらくそこは青(=民主党)で塗られている。地図の書き手は、こういう。
 ――大陸の真ん中が真のアメリカだ。鉄を作り、食糧を育て、石炭や天然ガスを掘る。(略)もはやオレたちはかつてのようなミドルクラスではなくなり、貧困に転落する寸前だ。今回は、真ん中の勝利だ。
 トランプ政権を生み出した心情が、この言葉に集約されている。
 著者はまず、2016年と2012年の大統領選結果を見比べる。前回、共和党が負けて今回勝った州が六つ。そのうち、フロリダを除く5州には共通項がある。ラストベルト(錆びついた工業地帯)であることだ。労働者が多く、元々民主党が強かった地域。ここがトランプ支持に変わった。労働者が民主党ではなく、共和党のトランプ支持に回ったということである。
 著者はこの地域に、大統領選の1年前、201512月から通ったという。首都ワシントン、あるいはニューヨークやロサンゼルスなど沿岸都市では本当のアメリカは見えない、という思いからである。そこで見聞きしたものを、ルポにまとめた。
 まず見えてくるのは、グローバリズムに打ちのめされたミドルクラスの姿である。収入は下がり、職を求めて若者が出ていくのが当たり前になった田舎町。そんな中で、中年白人の死亡率が上がっているとういう論文がメディアで紹介された。背景にあるのは自殺や薬物乱用。借金をしながら大学を出て、フェンス工場で働くロニー(38)は、「dead-end job」(成長の見込みのない仕事)だとつぶやく。そして、「トランプにやらせてみたい。何ができるか。この地域には変化が必要だから」という。
 ある逸話が、記憶に残る。
 クリントンが演説で、トランプ支持者の半数は人種差別や男女差別主義者など「deplorable」な人たちと呼んだ。嘆かわしい、惨めなという意味のようだ。弁護士、大統領夫人、上院議員、国務長官と人もうらやむキャリアを重ね、長年、中央政界にいて高額の講演料をもらうクリントンには言われたくない。そんな憤りに、この言葉は火をつけた。しかも、マンハッタンでの資金集めパーティーで出た言葉だから、なおさらだ。トランプ支持者たちは「私はみじめ」と書いたTシャツを着て、こんなクリントンは支持したくない、という。
 「私は惨め」という思いはリベラル嫌いにも通じ、アメリカン・ドリームは死んだという思いにもつながっていく。事実、1980年代生まれで、階層間での上昇率(親よりも所得が増えた層の率)は、ラストベルトで低いというデータがあるという。
 こうした閉塞的な状況の中でトランプが掲げた標的は二つ。一つは自由貿易、もう一つは移民。これがミドルクラスから脱落しかかった多くの人々の心情に響いた。独自の資金力を持つトランプが言えば、しがらみがないからやってくれると思った。
 しかし、著者も触れているように、多様性の尊重や言論の自由、機会均等といったアメリカの原点を認めない権力者の手でアメリカはどこへ行くか。事実を軽視し偏見と差別を振りまく権力者は、どう見てもアメリカには似合わない。懸念は広がるばかりである。
    ◇
 グローバリズムの発信源は、元々アメリカである。国境の内側に収まらない規模に発達した企業が未知の領域を求めて世界を傘下に収めていった、それがグローバリズムの歴史だった。その最も醜悪な形である「惨事便乗型資本主義」の理論を唱えたフリードマンの信奉者には米英ロ中の指導者、IMF、FRBのトップまで連なる(ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリン」)。多国籍企業によって途上国民とアメリカの中間層が天秤にかけられた結果、グローバリズムの波は皮肉にも、アメリカ経済の根幹ともいえる部分をいまや崩壊させているのだ。著者は朝日新聞ニューヨーク特派員。(岩波新書、860円)


ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)

  • 作者: 金成 隆一
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/02/04
  • メディア: 新書