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広島と沖縄 死者との対話 A・ビナード×三上智恵㊦ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話

A・ビナード×三上智恵㊦

 

沖縄の人たちを二度殺すのか

 

 三)戦争で沖縄は防波堤にされた。捨て石で時間稼ぎだったが、本当は防波堤にすらならなかった。沖縄戦は無駄死にだった。20万人が地獄のような2カ月間を体験する中で日本国の指導者たちが少しでもいい和解を引き出すことができたかかといえば、何もできなかった。それどころか、沖縄の島々にたくさんの日本軍を配置して沖縄の若者も使ってたくさんの滑走路を造ったが、その滑走路は米軍によって使われた。長崎に原爆を落とされた帰りに沖縄の基地が使えていなかったら長崎の原爆はなかったという人もいるくらいだ。

 ビ)燃料がなくなるから。

 三)だからすごいバッドアイデアだった。沖縄を防波堤にして日本が助かるというのは。その検証をちゃんとしないで、なんとなく中国が怖いから先島に自衛隊とかがいたほうがいい、という。でも、それは戦争で死んだ人たちを二度殺すことだ。なんで日本人が20万人も沖縄でむごたらしい死に方をしたか。この作戦は大失敗だった。沖縄守備の第32軍は見捨てられた軍隊で、住民もろとも死ぬしかなかった。でもあの作戦で誰も助からなかったとみんな知っていて、同じ過ちを死んでも繰り返さないということのために彼らの命と経験が使われたら、それは本当の意味で犬死にしないことだと思う。20年間、沖縄の放送局にいて、6月が来るたびに何か戦争の企画をといって、戦争は悲惨だったという企画を安易に出してきた。でも戦争がどんなに悲惨だったかは分かっている。なんで止められなかったかをやらないと。1945年がどんなに大変だったかをいくらやっても、今は平和でよかったみたいなつまらない感想しか出てこない。1944年に沖縄の人たちは何をしていたんですかということを問わないと。44年の夏に日本軍がたくさん入ってきた。「連戦連勝」の日本軍が。大嘘だけど。これでこの島は安心だ、守ってもらえると思ったら数カ月後には戦場のど真ん中になった。「ざわわ」って曲は、私はあまり好きではないが、ある日海の向こうからいくさがやってきたって、そんなことを歌っているから、次の戦争を止める力がなえてしまう。戦争が向こうから来て、戦争してもいいですかといったらその時は「ノー」といおうと、そんなことで戦争は止められない。今これだけ日本軍とアメリカ軍に自分たちの島を明け渡していながら、今度の戦争は嫌ですとどうやっていえるのか。私は、沖縄戦で亡くなった人たちを二度殺すことだけは許さないと思っている。だけど沖縄戦で亡くなった人だけじゃなくて、いま「標的の島」という小西誠さんの書いた本があるが、それは11月末に米海兵広報部がツイッターに出した写真が表紙になっている。アメリカ軍と自衛隊が図上訓練をしている。下に大きな島があって米軍の司令官が立って指示している。そういう訓練が行われたと、アメリカ軍は何とも思わず出した。でもそれは私たちが住んでいる島だ。形を見れば分かる。宮古島、伊良部島、石垣島、西表島。ここで戦争を想定して訓練をしている、そういう写真なのに、なぜか全国のメディアは全然やってくれない。

 ビ)日本の敗戦はミッドウェーで決まったから、あとは核開発を進めながら日本を後でどう利用するかが進められて、1944年のタイミングで日本軍が基地を整備するということは、米軍のための下請けの建設だった。結果的にいま岸信介の孫が首相になって、大日本帝国の組織の一部の人間が米帝国に再就職している。だから、先島は本土防衛と同じ発想。先島に住んでいる人たちにとって先島は「先島」ではなく世界の中心。でもペテンタゴンのお偉方には先っぽの島。今は本土防衛なんて言わずにエアシーバトルというが基本的には変わっていない。そういうデジャビュ(既視感)のような悪夢の再利用のようなものがいま僕らの生活を奪おうとしている。僕らは声を上げることができる。権力と張り合って言葉と思いをぶつけることができるのに、これを使わなかったら死者に対して申し訳ない。

 三)この日本国憲法を政府が変えたいというのは本当におかしな話。権力者は暴走する、暴走を止めるために日本国憲法がある。

 ビ)800年前にマグナカルタが作られた時から、憲法はそういうもの。

 三)それを暴走したい人たちが変えるっていうのは、猛獣の檻の鍵を外すのと同じ。でもそのことについて、どうして日本人は一部変えてもいいんじゃない?って言っちゃうのか。

 ビ)一部変えるなら「思いやり予算は払ってはならない」というのを書き加えたほうがいい。

(完、文責asa)


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広島と沖縄 死者との対話 A・ビナード×三上智恵㊥ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話

A・ビナード×三上智恵㊥

 

白水の戦争マラリア

 

 A・ビナード)それで何か起きた時に、ありえない、想定外、そんなことになっていたんだという。6年前の3.11もそう。日本に54基も原発があったの、知らなかったって。軍事衝突、相手が中国なのか北朝鮮なのか分からないが、それが起きた時、沖縄で何が起きているか全く注目してこなかった人たちはまたオタンコナス状態になる。そういう状態になって市民が何かやるのは不可能。僕は日本国憲法第21条「言論の自由」が唯一の足場なので、これから憲法までつぶされた時、市民の抵抗は、大日本帝国に抵抗するのと同じぐらい難しい。

 三上智恵)映画の中で、沖縄平和運動センター議長の山城博治さんが、まだ我々には憲法があるんですから、というシーンがある。憲法があって表現の自由があるんだから、その自由を治安維持という名目で警察権力が押しつぶしていくとしたら、それはもう憲法なき社会だし、そんなことはあり得ないといいながら、結局その通りのことが起きた。博治さんは有刺鉄線一本1500円ぐらいのものを切っただけで5カ月勾留され、家族の接見も認められず、差し入れも制限された。何の罪で5カ月もこんなに人権を奪われた状態でいなければならないのか。しかし、日本国民は何の関心も示さなかった。治安維持法が機能しているような社会なのに、それに対する反応は鈍かった。次は自分だとどうして思わないのだろうかと思った。その間にネット上では、山城博治さんがひどい人だという嘘八百の情報が、過激派だとかカネをもらっているとか中国共産党の一員とか、流された。

 ビ)そうして市民の力を削ぐ。

 三)山里節子さんという「とぅばらーま」の歌い手がいる。沖縄本島の民謡歌手のプロでも、とぅばらーまだけは八重山に生まれ育っていないと無理というぐらい敷居の高いソウルソング。楽しいとか美しいとかを歌う歌はいっぱいある。とぅばらーまは恨みとか哀しみとか嘆きとか慟哭をそのまま詠み込んでいく。即興で。音楽の並びがだいたい決まっていて合いの手が決まっているぐらいで歌詞はまったくフリー。でも小さいときから聞いて育っていないとそのボキャブラリーがない。あれこそ口承文芸の遺産。自衛隊が来るのが嫌なんですとインタビューで言うのと、あれを歌うのとでは、人の心に届く深さが違う。この映画で一番大事な部分だと思っているのは、私たちの島は金もないし力もないけれども歌や踊りがあって、それでおなかを満たして心を洗われて生きてきたんです、その力を結集することで何とかこの危機を乗り越えていけるんではないかと確信を持っているんです、と節子さんがいうところ。権力者側に対抗して歌や踊りでどうするのって、その言葉だけ聞いたら思うかもしれないが、この映画を見たら離島が持っている力、権力側が持っていなくて大地の上に根を張って生きている島の人たちが持っている力って確かにあると思う。沖縄は今、崖っぷちに来てしまっているが、それでもあきらめない力が沖縄の人たちにはある。

 ビ)三上さんが海中カメラで撮った映像がある。サンゴが産卵するシーン。その力が節子さんの歌。山に向かって草原に向かって、これから基地が造られようとしているところに立って草木や風に言葉を発する。詩人は言葉を出すのが仕事で、人前で朗読したり活字にしたりする。でも、風に対して何か言えるか、山に対して何か意味のある言葉を出せるか、と言われたら出せない。でも節子さんには先祖から引き継いでいる意味のある言葉、風に向かっても力を持っている言葉がある。サンゴは海の中で流れる海水の中でこれだという年に一度の瞬間を見つけて産卵する。

 三)あのサンゴが出した卵の塊はつぶれるかもしれないが、でも出した卵はどこまでも遠くに行って着床して海の再生のために頑張ると思う。節子さんが、雨を含んだ黒い雲を見て、戦雲(いくさぐも)がまた湧き出たみたいだってあの場で歌う。白水というところが尾根の向こう側にあって、そこに閉じ込められて、かからなくてもいいマラリアにかかって沖縄の人たち3700人も、弾に当たってではなく日本軍の命令で死んだ。節子さんのお母さんもおじいさんも。節子さんが私に言ってくれたが、山の向こうの、命を奪われた人たちが背中を押したような気がするって。この歌を歌って三上監督のスクリーンに映ったら大変なことになるってどこかで分かっていたけど、でもあの時白水の方から私の背中を押したのよねって。だから彼女は山中で亡くなった人たちの声とかを聴いて、山に向かって空に向かって大地に向かって自分の覚悟をあの瞬間に響かせた。

 

死者とどう向き合うか

 

 ビ)映画で「死者に対して申し訳ない」って(島袋)文子おばあが言う。その力が何より強い市民の力になると思う。広島の街は、本当はものすごく力があるはず。ここでどれほどの命が72年前の夏に奪われたか。昨年、賞味期限が切れたおじゃま(オバマ)大統領が広島に来た。1時間足らず来て、17分間のおためごかしを並べて帰った。あの大統領が来た時、謝罪しなくていいという人が多かった。72年前の地獄を体験した人たちの中にも謝罪しなくていいという人がいた。その気持ちは分かる。和解したほうがいいという気持ちは分かるが、でも私たちは謝罪しなくていいといえない。言えるのは殺された人たち。でも、殺された人たちは、謝罪せよというはずだ。核開発を続け原発も作り続け、オバマ大統領の核廃絶も実現していない。それでは謝罪してもらわないと困る。この映画に出てくる死者とつながっている人たちは、たやすく「謝罪しなくていい」とか「水に流す」とか「関係ない」とかいえない。過去とつながっていれば、死者に問いかけてから行動する。でも沖縄を今まで支えてきた人たちは、翁長雄志知事も含めて、死者と向き合うパイプを持っている。そのパイプをなくしたら広島も力が出ない。そのパイプをつなぎとめ死者と相談できる、そこが大事だ。

 三)沖縄では後生(ぐそう)という言葉がある。私は民俗学をやっているが、他界観、私たちに見えてる世界とは違う、天国とか後生とかを想定しない民族はいない。同じ他界観を共有している強さというのを描きたいと思っている。沖縄戦を体験したお年寄りから話を聞いて、代表的なのは99歳で亡くなった1フィート運動の会の中村文子先生のこと。沖縄戦で教え子を二人ひめゆり部隊に出してしまった、日の丸を振って子供たちに軍国教育をした、そういう軍国教師としての反省を戦後貫いてきた人だが、その先生がいつもひめゆりの資料館に行くと「のぶこ、はるこ、会いに来たよ」という。そののぶこさんとはるこさんはおさげ髪のままだけど、文子先生は後生に行った時「もう基地はなくなったのよ」って言いたい、「私が頑張ったからもう戦争の島でなくなった」って言いたい、でもそう言えないから私はまだ死ねないんだって言われていた。まだ基地があるの、また戦争になるかもしれないのと、だからセーラー服姿ののぶこ、はるこに会うことができないから頑張るって沖縄戦を体験したお年寄りはみんな言う。生き残った罪悪感は広島でもあると思うが、沖縄でもなぜか自分は生き残ってしまったと自分を責める人が多い。後生に行って72年前別れた人たちと再会する時、自分は生き残って何をしたのって考えると居ても立ってもいられないからみんな辺野古、高江に来る。

 ビ)アメリカから広島に26歳の時に初めてきて、それまでは原爆が投下されたことが犯罪だったという意識はなかった。広島に立って自分の母国を見つめて、アメリカから受けた教育を少し見抜くことができるようになって広島の人たちとつながった時に、自分が被爆(曝)していないことが単なる偶然だということに気づいた。僕はミシガンで生まれ育って、ミシガンは約100基あるアメリカの原発の中でワースト3に入る原発の風下で、しかも母親の胎内にいた時に近くのエンリコ・フェルミ原発がメルトダウン事故(1966年)を起こしてそれが隠ぺいされ、その放射性物質はエリー湖に漏れ、小さいころそこで泳いでいる。いまカナダが最終処分場をヒューロン湖のほとりに作ろうとしていて、これからまた五大湖の水が汚染される。アメリカ人こそ一番汚染させられている。全部泣き寝入り。そのことに自分が目覚めていくと、自分が今、健康被害に苦しんでいない、生活が成り立っていることは単なる偶然で、自分は次だと常に感じるようになる。

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広島と沖縄 死者との対話A・ビナード×三上智恵㊤ [社会時評]

広島と沖縄 死者との対話
A・ビナード×三上智恵㊤


 広島市内で4月16日、三上智恵監督「標的の島 風かたか」の上映後に詩人のアーサー・ビナードさんと三上監督のトークがあった。沖縄の情況は日本の民主主義の在り方にかかわるといった視点にとどまらず広島との思想的な関連性、特に死者との対話に議論が及んだ。以下、トークの要約(3回続き、文責asa)
 
 A・ビナード)辺野古で、高江で、沖縄で思うことは、国家は国民のために存在していない。僕らがそのことを実感せずに生活しているなら、あんぽんたんだ。
 三上智恵)私が沖縄で映画を作っているのは、沖縄の負担が大変だから、ではない。この国が劣化してしまって、足元の幸せとか平和とか安定とか安心とか、ここまで崩れているのになんで全国の人たち気づかないんですか、と思って作っている。
 ビ)沖縄が大変だとか思っていたら現実は何も見えない。今の広島の思考停止とあんぽんたんぶり、広島がすべてを失う崖っぷちに立っていて飛び降りる寸前の状態になっていることを沖縄が照らし出しているから、沖縄をちゃんととらえなければいけない。沖縄の問題ではない。
 三)沖縄の問題を全国の人が考えてあげないといけないというレベルの問題ではない。沖縄にいるから分かる、沖縄でははっきりと断層の地層が見えるというものがある。沖縄でニュースキャスターを20年やって、全国に伝えないといけないことがたくさんあった。それは沖縄が大変だということではなく、あなたの国の民主主義はないですよ、この国の平和はもう終わりましたよということ。これからは共謀罪だけど、私は戦争に向かう最後の大きなカギは特定秘密保護法だったと思っている。あれを許してしまってほとんど戦前の法律は完成したと思う。もちろん戦争法も、念を押すようにできてしまった。止められないところまで来ている。
 ビ)特定秘密保護法とセットに進められたのがマイナンバー制度。三上さんは戦前の法整備が済んだというけれど、戦前の方がまだましだった。戦前は戸籍が悪用されたが、米政府にも利用されるマイナンバー制度という日本語を介しない形で日本民族の支配が完成した。
 三)マイナンバーも、みんなが従順でなければ止められたと思うが。
 ビ)5000万人がいらないっていえば制度そのものができなかった。しかも、ひどいネーミングだ。税務署に行くとこういう顔をしているから英語で聞かれる。「What Your My Number?」。Your My Numberって何。そういう中でどうするか。沖縄とつながると、いろんな人が多様性を保ちながらつながっている。それを僕らにお手本として提供してくれている。

米軍も自衛隊も一体

 三)「標的の島」を見終わっての感想は。
 ビ)重要なことを理屈ではなく感覚を伴った形で伝えた。米軍帰れとか、アメリカにこんなに基地を押し付けられているとかではなく、米軍も自衛隊も同じ組織だということ。宮古と辺野古と高江をつなげて描くと、それがよく分かる。おととしから米軍とか自衛隊とか米政府とか日本政府とかではなくて同盟調整グループ(Alliance Coordination Group=ACG)という組織がアメリカ国防総省、カタカナでいうとペテンタゴンが中心になってできた。その下請け組織が日本の防衛省。宮古に自衛隊基地ができるのと辺野古に米軍基地ができるのとは、同じ組織の出先機関が違うだけ。あるいは軍服を着ている人間の顔が違うだけ。同じ組織が進めていて、この映画で伊波洋一さん(参院議員)も明確に言っていたが、先島を戦場に想定して計画を進めている。それがこの映画ですごくよく分かる。
 三)アメリカ軍基地への反対は沖縄で8割がそうだ。しかし、辺野古は普天間の代替施設といわれると、これがまたペテン。辺野古新基地を造らずに普天間基地をなくしても、沖縄への米軍基地集中度は74%が73%にしかならない。この73%は、8割のオール沖縄を支える大多数の県民がいいといって、まだ負担していくつもりでいる。でも、普天間は無条件で返してくれてもいいんじゃないのか。それも許されないのか、というところなんです。ここが勘違いされている。アメリカの基地への反対は沖縄の中でも理解される。でも自衛隊に反対するとなると微妙だ。自衛隊には沖縄の出身者が多い。沖縄の離島から東京、大阪の大学に行かせると一人あたり2000万円弱かかる。一人大学に行ったらほかの兄弟はあきらめるという中で、防衛の学校に行けば資格も取れるし生活費ももらえる。そういうところに多くの人が行ってしまうのは沖縄の地域がら仕方ない面もある。だから自衛隊には反対論が言いにくい。でも米軍基地の問題だけ扱っていたら、いま私たちが迎えてしまった危機が説明できない。宮古島と辺野古・高江のことを一緒にやるとせわしなかったと思うが、でも米軍基地と自衛隊はいま全く一緒に考えないといけない。南西諸島の軍事要塞化ととらえないと何も本当のことが分からない。それは、沖縄が戦場になるということではなく、日本が戦場になる、その導火線を今作っているということだということをどう2時間で表現しようかと、編集作業は死ぬ思いだった。
 ビ)日本は思いやり予算という金を自分から出して導火線を引いている。米帝国と中国帝国が軍産複合体を維持するためにそれをやっている。中国もアメリカも全面衝突なんて考えていない。だからペテンが成り立つ。戦争をやりたいんなら核ミサイルを撃ち込んで人類を終わりにすればいい。しかし、戦争をやりたくないなら、戦争がない形で解決するしかない。
 三)米中はお互いに経済的なダメージをどの辺まで抑えて戦争するか、お互いに検討している。そして一緒に軍事演習なんてやっている。不思議なことだ。
 ビ)世界の歴史の中でこんなに経済的に依存しあった大国はない。
 三)そこで、お互いの国ではないところで軍事衝突が起きるとしたら、海上限定戦争しかないという結論に今達しているが、その海上限定戦争の舞台にされている島々は私たちが住んでいるところだ。この島々で戦争が終わるはずがなくて、もし沖縄本島が巻き込まれるとアメリカが巻き込まれて長期化する。そのアメリカのシンクタンクの人たちがエアシーバトル構想についてシミュレーションしたところでは、中国はミサイルの飛距離が伸びたので、戦闘機や船を出さなくても(先島を)直接攻撃できる。でもそうなったら、アメリカ軍は半日でグアムのラインまで撤退することになっている。それが2006年の日米合意。だってアメリカ軍には、この島に残って最後まで戦う義理はない。いったん撤退して頃合いを見て奪還に来るが、初期攻撃に対応するのは同盟国軍だと書かれている。同盟国軍とは日本軍、韓国軍、フィリピン軍。ドゥテルテ大統領は頭がいいから巻き込まれないためにアメリカと距離を置いている。中国との経済関係、信頼関係を築くことで、アメリカの代理戦争をさせられて自国の兵隊が犠牲になる、もしくは自国の国土が戦場になることを避けようとしているる。でも日本と韓国は、このまま行くと自国の領土を戦場に提供し、真っ先に死ぬのは日韓の若者ということになる。そして、初期攻撃に対応するのは日本の軍隊だが、沖縄は2週間で陥落すると書かれている。次のバトルゾーンは西日本。それが「やまさくら」という訓練で、ネットで簡単に見ることができる。沖縄にいると、アメリカ軍と日本軍がどこでどう訓練しているかがニュースになる。でも、本土では全くニュースにならない。だからみんな、アメリカが日本を守ってくれているというところで思考停止している。


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ゴルディオスの結び目~社会時評 [社会時評]

ゴルディオスの結び目~社会時評

 古代の王ゴルディオスが複雑怪奇な結び目を作り、これを解いたものがアジアの覇者になると宣言した。アレキサンダー大王が現れ、剣で一刀両断にし、予言通りアジアの覇者になった。
 この故事をどう解釈するか。
 普通の人間は、まず結び目を解こうとするだろう。アレキサンダーは発想を変えて、一刀両断にしてしまう。誰にも思いつかぬ方法で難問を解いたアレキサンダーはやはり英傑だった―とするのが、一般的な解釈かもしれない。
 内田樹は著書「他者と死者 ラカンによるレヴィナス」の中でこの故事を取り上げた。前後の文脈の中で内田は、難解な思想をどう説くかの答えを導くためにこの故事を使っている。そこでは、「アレキサンダーの剣」は、例えばマルクス主義に代表されるイデオロギーに例えられる。レヴィナスの「よく分からない思考」にマルクス主義的な読みを当てはめ「ブルジョワのシオニスト」と切って捨てるやり方である。たしかに単純明快だが、そこで得るものと失うものと、どちらが多いかをよく吟味する必要がある、と内田は言う。
 さて、米ソ冷戦も終わって30年近くがたとうとしている。いまさらマルクスでもあるまい。では、この故事は世界で起きているどのようなこととつながるのか。
 核兵器開発を進める北朝鮮の動きに、トランプ米政権がいらだっている。シリアの空軍施設を巡航ミサイルで攻撃し、取って返して太平洋上の原子力空母カール・ヴィンソンを朝鮮半島近くに向かわせた。力ではなく賢者の知恵に頼る「戦略的忍耐」を掲げたオバマ政権と違って「力には力」の政策を前面に押し出した感がある。トランプ大統領は、複雑な結び目を一刀両断にした現代のアレキサンダーのように振る舞っている。
 しかし、ゴルディアスの結び目の故事と違うのは、振り回した剣は確実に周囲の犠牲を招くということだ。一説には、韓国で一般市民100万人が犠牲になるというシミュレーションがある。そんなもので済むのだろうか。朝鮮戦争での死者数は400万人と公式に言われている。そのうえで当時と現在の最大の違いは、北朝鮮が核兵器を持っている可能性があるということである。もちろん被害は日本にも及ぶだろう。
 朝鮮半島では、1994年にIAEAの核査察を北朝鮮が拒否したことによる核危機があった。クリントン政権の時のことである。カーター元大統領が訪朝し、なんとか核施設空爆を回避、対話の道を維持した。
 この時の状況を詳細に書き残した舟橋洋一「ペニンシュラ・クエスチョン」を、著者は「朝鮮半島第二次核危機は、北朝鮮の体制・アイデンティティー危機、世界の核状況危機、そして冷たいバルカンとなりつつある北東アジアの相互不信危機の重層的危機にほかならない」と締めくくった。朝鮮半島は現代の複雑怪奇なゴルディオスの結び目である。

 3月に来日したティラーソン米国務長官は「北朝鮮を非核化しようとする20年間の努力は失敗に終わった。脅威がエスカレートしており、新たなアプローチが必要だ」と述べた。1994年の核危機での米対応の否定である。これが、現代のアレキサンダーの剣にならないことを祈る。結び目は解ける所から解いてほしい。


アメリカの衰亡~日本は自立すべき時 [社会時評]

アメリカの衰亡~日本は自立すべき時

 「帝国以後」(E・トッド著)を読んで

 帝国以後.jpg ・トランプ政権の意味~「国民国家」への欲望
 20171月、米トランプ政権がスタートした。滑り出しは、お世辞にも順調とはいえない。世界各国からだけでなく、米国内からも厳しい批判を浴びている。代表的なものは、中東7カ国からの入国禁止をうたった大統領令であった。幸い、というべきだろう。この大統領令は司法の手で止められているが、ほかにも、日々の発言に極端な保護貿易の主張や移民、人種への蔑視がにじみ、危うさをぬぐいされない。
 なぜ、トランプ大統領はこんな発言を繰り返すのか。一つには、第2次大戦後、世界が米国にかぶせた「例外主義の国」、すなわち覇権国家というマントを脱ぎ捨てたいという隠しようもない欲望があるためではないか。一見粗雑なトランプ発言を「普通の国民国家になりたい」という底意を意識したうえで聞けば、かなり理解できる部分がある。先ごろ問題になった、安保をめぐる対日批判も「特別な役割を負わされた米国がこれだけ苦労しているのに、なぜ日本はただの国民国家であり続けるのか」という文脈で理解すれば、かなりの部分のみこめる。念のため断っておけば、これはトランプ発言を擁護するという意味ではない。

  ・米国は世界のお荷物~パックスアメリカーナ終わり
 E・トッドの「帝国以後」は、2003年に刊行された。米同時多発テロからアフガン戦争を経て米国がイラク戦争にのめりこんだのが2003年であった。つまり、イラク開戦とほぼ同時期に刊行された。この書の冒頭付近には、こんな文章がある。
 ――アメリカ合衆国は現在、世界にとって問題となりつつある。これまでわれわれはとかくアメリカ合衆国が問題の解答だと考えるのに慣れてきた。
 トッドは続けて、しかしいまや米国は、「不安定と紛争」を維持し「国際的秩序崩壊の要因としての様相」を強めようとしている。そして、副次的重要性しか持たないいくつかの国を「悪の枢軸」と呼び、世界に同調を求めている、と言う。もちろん、ここにはイラクが念頭にある。
 トランプ発言は、もはやそうした立場さえも捨て去って「ただの国」になりたいといっているようだ。
 フランスの人口学者であるトッドはここで、アメリカという国のアウトラインを追う。18世紀、英国との戦争の末に独立。以来、ニューフロンティアと移民の国として欧州からヒトとカネが流入し発展する。一時モンロー主義の国としてヨーロッパへの不干渉を唱えるが、第1次大戦では途中から参戦。第2次大戦も、「パールハーバー」によって対日戦争の先端を開くが、もともとヨーロッパを舞台にした独ソ戦では積極的ではなかった。本格的な参戦は、1944年のノルマンディー上陸作戦からと思われる。トッドも書いているが、ナチスからヨーロッパを解放したのはソ連だった。
 しかし戦後、ソ連が世界の覇権をうかがい、一方で戦禍のため疲弊しきったヨーロッパは、ソ連に対抗するための「覇権国家」の役割をアメリカに期待する。そして、その結果―。
 ――アメリカは、たしかにソ連に勝ったかもしれない。しかし、冷戦の終結とともに米ソ間の緊張が緩和され、「雪解けの時代」になると、アメリカがもはや「理想の象徴」でないことが明らかとなっていた。(ポール・スタビロン著「アメリカ帝国の衰亡」から。この部分はasaによる引用)

  ・「帝国」を支えるもの~ドイツは自立、日本は?
 戦後、アメリカが「帝国」として存在するために必要だったものは、まず強大な仮想敵・ソ連であり、次に帝国を支える「盟友」だった。その柱はドイツであり、日本だった。
 ――日本はドイツに次いで、第二次大戦後に生まれたアメリカ・システムの第二の戦略的柱である。(略)ドイツはアメリカの後見から独立しつつある。日本はほとんど動かなかった。(「帝国以後」)
 アメリカ「帝国」の崩壊、もしくは衰亡によって、ヨーロッパは自立へと向かい、かつての「帝国」から「国民国家」へと相貌を変えたロシアと接近しつつある。世界は確実にアメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国という多極化へと向かっている。しかし、日本だけは相変わらず、「日米同盟」が日本の安全を守る道だと盲信している。

  ・日本の取るべき道~「沖縄」「原発」という亀裂
 トランプ政権の登場は、まぎれもなくアメリカ経済の衰亡の結果であり、帝国〈=例外主義的な覇権国家〉から一国民国家への変身願望の表れであろう。この結果、世界は一極支配から脱し多極化へと向かう。事実、ヨーロッパもロシアも中国もそう思っている。その中で日本だけが「沖縄」「原発」という活断層を抱えながら(二つとも、既存の路線を変えられないのは「アメリカ由来」であるためだ)、日米同盟を不可侵のものとして奉っている。イスラムの国でありながらNATOに加入したトルコがロシアと連携しても、アメリカは動かなかった(動けなかった?)。沖縄、原発で日本が独自の路線を取ったからといってアメリカが制裁的な動きをするなどとは考えられないし、そう考える材料もない。


帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

  • 作者: エマニュエル トッド
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2003/04/30
  • メディア: 単行本

 

川上氏の背後に見えるものは何?~社会時評 [社会時評]

川上氏の背後に見えるものは何?~社会時評

 

 ショーン・マクアードル川上という、テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターが学歴などを詐称していたと、週刊文春3月24日号が伝えた。

 今いうのもなんだが、この人が画面に登場した時、何か不自然なものを感じたものだ。文春の「詐称」報道を受けて、「(見た目の良さと低音の語り口が)戦略的に思え違和感があった」との見方があったが(宣伝会議編集室長・田中里沙氏)、その感覚に近い。マーケットリサーチをして商品を生み出すように、戦略的に作り上げられたキャラクターとしてかつて「ピンクレディ」がいたが、今回のショーン・マクアードル川上氏(本名・川上伸一郎、以下、川上氏)をめぐる事件も、似た構造を感じる。

 NYで生まれハーバード大のMBSを取得、そのうえ二枚目、低音、経営コンサルタントとして年商数十億円、と来れば、何もかもそろいすぎている。しかも、「米国」を経歴に巧みに取り入れ、日本人の「コンプレックス」を巧妙にくすぐる。なんとも「戦略的」である。

 しかし、その割に、コメントから専門分野が見えてこない。政治も経済も日米の文化も語るが、深みがない。一夜漬けで資料を漁り、頭に入れ込んだ図式を一生懸命に語る。そんな印象が強かった。

 この文章を書くために、川上氏の「ウィキペディア」を検索してみた。すると、肩書は「タレント」とある。急きょ書き換えられたものかもしれないが、これなら納得である。米国生まれの高学歴の経営コンサルタントを演じるタレント川上氏が、テレビでそれなりのコメントを発する。見ているものは、それはそれで、納得する。ついでに画面上の見栄えもいい。で、それでなぜいけないの、となる。ハーバード大の修士をとった人間が、一タレントよりも気の利いたコメントを出せるはずだとだれが決めたのか。

 テレビ界はいまや、コメンテーター花盛りである。朝は朝からワイドショー。昼は昼で、やはりワイドショー。夕方もある。そして報道ステーションやTBS「ニュース23」になだれ込む。視聴者はそこでコメントを聞いて何を納得するのだろうか。このニュースの見方や分析方法は、この人の言う通りだと安心したいのだろうか。そのためには「ハーバード」という肩書も役に立つというものなのだろうか。

 川上氏の目くらましは「戦略的」にこれ以上ないほど見事だったし、その分うさん臭かった。しかし、その向こう側に透けて見えるコメンテーターの市場ニーズとはいったい何なの?と問いたくもなる。それは、テレビっていったい何? 視聴者がテレビに見ているものは何? ということでもある。そう、視聴者は川上氏の背後に何を見たのだろうか。


市民社会の常識に任せよ~高市発言に思う [社会時評]

市民社会の常識に任せよ~高市発言に思う


 高市早苗総務相が、放送に対する権力の介入を否定しない発言を行った。本人は、この件に関する報道をみて「愕然とした」(早苗コラム)らしいが、それでは「報道の自由」に対する基本的な認識が欠如しているとしか言いようがない。
 問題を整理してみる。高市総務相は2月8日の衆院予算委で、民主党の奥野総一郎議員の質問に答え、「番組編集が不偏不党な立場から明らかに逸脱していると認められるような場合」、放送法第4条と電波法第76条に照らして「電波停止などの対応を総務大臣が行うという場合もある」と答弁した。さらに、9日の衆院予算委で「憲法9条改正に反対する内容を相当の時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性はあるのか」という玉木雄一郎・民主党議員の質問に「1回の番組で電波停止はありえない」が「将来にわたって罰則規定を一切適用しないことまでは担保できない」と答弁した。
 まず、ここで「不偏不党」を判断するのはだれなのか、という問題がある。いうまでもなく、政権を担う政治家たちは、「不偏不党」ではない。そうした人たちがメディアの「不偏不党」ぶりを判断し、逸脱しているからといって「電波停止」という名の言論統制をするのは、自己矛盾であろう。高市早苗は「不偏不党」の立場で、番組内容を判断できるのか。
 放送法第4条でうたう「政治的に公平」は、従前から権力からも中立であること、と解されている。これは、耳にタコができるほど多方面から指摘されていることだ。放送法は1950年、連合国軍の占領下で作られた法律であり、そこには日本に民主主義を根付かせたいという時代の要請があった。メディアに戦時中の大本営発表を繰り返させてはならない、という反省が込められている。これに憲法21条「表現の自由」を重ね、第4条の「政治的公平」は放送が自律的に目指すべきもの、と解されている。
 メディアの「不偏不党」を、政権が判断しようなどというのはおこがましい限りなのだ。
 その成立過程に多少の問題があるにしても、政権は政治権力の追求に勝利した勢力が担う。しかし、政治的空間は公共空間のすべてではなく、一部にすぎない。公共空間は言論の自由市場であるべきで、その結果として世論(輿論=パブリックオピニオン)が構成され、一部勢力に行政権を付託する。しかし、そこで行政権を担ったものが、公共空間そのものを支配できる、あるいはしていると思ったなら、それは傲慢である。
 二つ目の問題。9日の衆院予算委のやり取りを見ると、文脈上、総務相は「憲法改正に反対する」意見のみを取り上げることは政治的な偏向だと理解しているらしい。しかし、知られているように、憲法99条にはこう書いてある。
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
 国会議員は、憲法擁護を唱えることが、現行憲法下では憲法に合致する行為である。言い換えれば、「改憲」を国会という公式の場所で唱えることは「政治的に偏向した行為」なのだ。たしかに自民党は改憲を党是とするが、それはあくまで私党の中での議論である。
 高市総務相個人のブログ「早苗コラム」を読むと、この部分は「テロへの参加を呼びかける番組を流し続けた場合には、放送法第4条の『公安及び善良な風俗を害しないこと』に抵触する可能性がある」とすり替えている。ばかばかしいほどの極論である。メディアが犯罪の勧めをしたらどう対応するか、などと考える必要があるのか。この問題を少し進めて、例えば「テロ」と「政治活動」の線引きをどこに置くか、という問題をメディアが取り上げた場合、どう考えるのか。かつて、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」とブログに書いた政治家がいた。こうなると、「憲法改正に反対するデモにいこう」と呼びかけただけで「テロを呼び掛けたから放送法第4条違反」として指導を受け、最悪の場合は電波停止になるのかもしれない。
 こうした線引きは、成熟した市民社会が自律的に行う、というかたちで考えるべきであろう。権力を持つ側がメディアに対して、「権力行使を否定しない」と発言することの怖さと重さを考えるべきである。


あまりにも日本的な~新国立のデザイン騒動 [社会時評]

あまりにも日本的な~新国立のデザイン騒動

 新国立の新デザイン2案が公開された。工期と工費が決まっていて、ザハ案の白紙撤回からわずか5カ月足らずだから、事実上、前回のコンペに取り組んできたゼネコングループしか入り込めないだろうことは容易に想像がつく。実際、そのとおりになり、公表されてはいないが、主導したのは大成建設と竹中工務店だといわれている。

 さて、素人目に二つの案はどう映るか。結論を言ってしまえば、どちらも極めておとなしい。言い換えれば事なかれ主義の産物。でも、それを責めるわけにもいかないだろう。厳しい条件をクリアするには仕方なかった、といわれれば返す言葉もない。

 ザハ案でもめた時も、建設業界のある実力者(だと思う)が、白紙撤回してやり直すならこのやり方しかない、とあげたデザインも、今回出てきた案とほぼ同じものだった。要するに、だれが考えてもこうなるでしょ、というのが今回の案である。ということはつまらない案だなあ、ともいえる。こんなことならザハ案で行けるところまで行ってもよかった。

 五輪騒動では、新国立のほか「エンブレム」騒動もあった。これも極めてあほらしい騒動であった。問われたのは何かといえば、コピー疑惑である。しかし、デザインに作家性や「署名」が必要だとだれが決めたのか。日本古来のデザイン(意匠)は私たちの身近にいくらでもあり、私たちはいちいちそれらを「だれだれの作」と意識して使っているわけではない。要はコンセプトと使いやすさがあればだれがつくろうとかまわないわけで、デザインの研究者の中には、最近とみに顕著になってきたこの傾向(作家主義と署名性)を「近代の病」と呼ぶ人もいる。デザインは芸術ではないのだ。そうした観点から見れば、あのエンブレム騒動は何だったのか。

 その視点で、もう一度新国立のデザイン騒動を見てみよう。先ほど、ザハ案でもよかった、と書いたが、逆説的にいえば、結局は現実化がむつかしかったザハ案が選ばれた背景にも、やっぱり「近代の病」が潜んでいる。つまり、それ(現実化の困難さ)を承知で「ザハ」という名に目がくらんで選んだんじゃないの?ということになる。しかし、騒動が広がるにつれ、そこまで関係者の考えが及んでいなかったことが暴露され、それが混乱の源であったともいえる。

 そうした問題の原点、近代におけるデザインとは何か、といったテーマは掘り下げることなく、選考メンバーにスポーツ選手を入れてみたり、選考経過の透明性を力説してみたり、という問題の本質とは無関係の事柄ばかりに力を入れているあたりが、いかにもニッポン・イデオロギーらしいが(念のためいえば、デザインを選ぶ過程で「透明性」など何の意味もないし、そんなものが数値化できるわけもない。選考メンバーにスポーツ選手を加えるなど百害あって一利なし)。

 森喜朗・五輪組織委員会会長(なんで委員長でなくて会長なのか)はB案がいい、などと子供のようなことを言って物議をかもしている。これでもしB案が選ばれたら、「森さんがああいったから」となってしまい、B案には不幸なことになる。そんなことを考える頭も、森氏にはないらしい。

 最後に、この二つの案は、ベルリンにあるオリンピックスタジアム、つまりナチスドイツが1936年に行ったオリンピック(今でもオリンピックとしては最高の出来だったという人もいる)の会場と、とても似ている。もっとも、あちらはギリシャ遺跡を意識し、石材が豊富に使われている点が、木材を多用する予定の日本案と違うが。そして、ベルリンのスタジアムがある場所は今も「オリンピアの杜」と呼ばれている。ベルリンオリンピックを国威発揚の場と位置付けたナチスドイツは、その成功から3年後にポーランドへ電撃侵攻した。今回のスタジアムのデザインの酷似が、単なる偶然であることを願う。

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ベルリンのオリンピックスタジアム

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スタジアムの外観



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東京新国立競技場のA案


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B案


安保法制採決に思う~社会時評 [社会時評]

安保法制採決に思う~社会時評

 9月19日未明、参院本会議で安全保障関連法が成立。集団的自衛権の行使が可能となった。これによって自衛隊は、日本の防衛のためでなく他国の防衛のために海外で戦闘することが可能になった。法案自体の無効性、国会手続きの瑕疵については今さら触れない。このような事態がなぜ起きたか、これによって何をすべきかを考えてみる。以下、走り書きである。

 参院特別委の乱闘騒ぎは、見るに堪えないものだった。「ぶざまな事態」といったほうがいい。やりきれないのは、その乱闘騒ぎでさえ、パフォーマンスにしか見えないことである。こんな独裁的で理不尽な手法で法案が通されたことに抗議して、ただの一人の議員も辞任するとは言わないことこそが、それを雄弁に語っている。

・戦後民主主義の虚妄

 こうした政権の暴走に対して、若者を中心にしたデモが国会前で展開された。個人的には、あの新興宗教に似たお題目の唱え方はとてもついていけないが、それはここではいうまい。「戦争はいやだ」も「憲法9条を守れ」も、それはそれでよしとしよう。しかし、その先の思想が感じられないのはなんとも寂しい。この二つのスローガンから見えてくるのは「生活保守」の思想である。それを超えるものがなければ、政権が言う「他国並みに血を流す」という論理に真の意味で対抗することはむつかしい。
 しかし、その責任を、若者を中心にした彼らに負わせることは筋が違っている。わかりやすく単純ではあるが同時に空疎である彼らのスローガンから見えてくるものは、恐ろしいまでの戦後民主主義(あるいは戦後思想)の空疎さである。すなわち、真に責任を負うべきは「戦後」を丸々生きてきたものの「戦後責任」であろう。

・軽武装と経済優先

 戦後の日本は安保条約とともに生き延びてきた。是非は別にして、これはもはや隠しようがない。米軍基地を置くことで防衛費を安く見積もり、その分、経済に軸足を置く。吉田茂が引いたレールである。のちに岸信介が安保の双務化を唱え、米軍による日本防衛義務を負わせたのが60年の安保改定である。吉田・岸の動きを概括すれば、対米従属を貫くことで日本を自主独立へと導く、という戦略(いわゆる「のれん分け」戦略)と見えないこともない。では、吉田・岸の戦略の延長線上に今回の「安保」はあるだろうか。答えは「ノー」である。

・二つの意味での日本の奴隷化

 安倍政権は「安保」採決によって、二つの意味で日本と日本人に「奴隷」の思想を強要した。一つは、「多数が正義である」という思想。これは、裏返せば「少数は多数に従え」という含意であり、文字通り服従の思想である。しかも、ここでいう「多数」とは「議席数」のことであるに過ぎない。前回の衆院選で自民は小選挙区で2割台、比例区で1割台の絶対得票率しか得ておらず、そのことが各種世論調査とのギャップとして現れているが、そうした現実への謙虚な視線はないようだ。
 もう一つは、自主独立を目指さずに日米共同防衛への傾斜を強めることによって必然的にもたらされる、さらなる米国の属国化である。
 この二つの「奴隷の思想」は、間違いなく日本国民の「自立」と「解放」をはるか遠くへ押しやるものである。

・打ち捨てられた沖縄

 以上のような政権の動きが、日本国内でどのような「歪み」をもたらしているか。この答えを見つけるのはむつかしいことではない。
 その一つは、戦後一貫して打ち捨てられてきた沖縄の存在である。もし集団的自衛権を行使できる安保体制を構築するなら、全国の米軍専用基地の74%が集中する沖縄の現状は改善されるべきであろう。それをせずに、日本を「戦争できる国」にするという発想は、70年前に「捨て石」として県民を米軍70万の前にさらしたのと変わらぬ発想というほかない。

・「近代」との対決~忘れられた竹内好

 もう一度、戦後思想の問題に戻ろう。なぜ戦後思想はこれほど空虚なものとなったか。まず、「戦争」(もしくは戦争責任)ときちんと向き合いながら国民横断的な「非戦」の思想が構築されてこなかったこと。それは、米国への向き合い方、天皇制の問題、近代思想の検証に派生する。背広を着替えるようにではなく、自己否定を積み重ねて戦後思想を構築するという作業がどれほど行われてきたか。いいかえれば「対米」「天皇」「近代」がどれほど戦後思想の中で血肉化されたのだろうか。
 確かに、かつては鶴見俊輔、丸山真男、吉本隆明、橋川文三、桶谷秀昭らによってそうした営為はなされてきたが、それはどこへ行ってしまったか。
 痛感するのは、かつて大東亜思想に身を震わせ日本浪漫派に耽溺した体験を持つ竹内好が、その体験を正面に据えながら戦後思想を構築しようとした姿である。いま、戦後という空疎な時代を振り返るにつけ、竹内の不在こそが悔やまれる。そして、竹内の不在はそのまま、日本のアジア観の空疎さにつながっている。

・リベラル思想の復権を

 もう一度、「今」に戻る。今回の政権の暴走を呼んだものは、直接的には衆参での圧倒的な与野党の議席差であるが、それは表面上のことである。最も問題なのは、正統なリベラルの思想が日本社会に形成されていないことである。分厚いリベラル層が存在し、それが議席として反映される政治状況を作らない限り、現在の悪政は改善されないだろう。

・短期的な問題~選挙戦略

 共産党が野党間の選挙協力を呼び掛けているという。何を今さら、とも思うが、もちろん選挙協力を進めるべきだ。現在の小選挙区ができた時点で、好むと好まざるにかかわらず、野党は統合しなければ議席に結びつかないことは、子供でも分かる理屈だった。それを自党の党利党略にこだわり、今日の事態を招いたのはいったいどの党だったか。
 しかし、過ぎたことは言うまい。願はくば共産党が自党の路線を他党に押し付けないことである。


平成のバカ査定~新国立競技場 [社会時評]

平成のバカ査定~新国立競技場

 2020東京オリンピックのメーンスタジアムになる新国立競技場の建設費が7月7日、2520億円に決まったらしい。「らしい」と書いたが、どうも、この決定過程がはっきりしない。そもそも、これを決めた会議はなんなのか。「日本スポーツ振興センター(JSC)」の「有識者会議」らしいが、これは何なのか。こんな団体が、国民の税金2520億円の使い道を決める根拠は何なのか。ちなみに「JSC」なるウェブサイトにも行ってみたが、何の団体やら、さっぱりわからない。

 素朴な疑問をいくつか。2020年に予定されているのは「東京オリンピック」で「日本オリンピック」ではない。過去のオリンピックも、すべて都市名が付いている。つまり、五輪をやるのは都市ではないのか。オリンピック発祥の地、古代ギリシャが都市国家であった名残であろう。そこは、国が主催するW杯サッカーなどとは違っているはずだ。それなのに、なぜ国家が前面に出るのか。新国立の建設費2520億円がねん出できないから東京都に500億円出せという。だったら、その500億円で都立競技場を作ればいい。これでは本末転倒というものだ。

 オリンピックというたかだか国際運動会に総額いったいいくらかけるつもりなのか。既に、新国立は2520億円では収まらないと言われている。仮に3000億円を超すとしたら、全体は1兆円では収まらないだろう。逆に総額5000億円で収まるとしたら、予算配分としてアンバランスこのうえない。しかし、ざっと見た限り、過去のオリンピックは5000億円前後で行われている。つまり、まず新国立ありきではなく、2020オリンピックにいくらかけるかを決めた上で、新国立の建設費を決めるというのが筋道ではないか(この前に、そもそも福島の現状を見るにつけ、オリンピックをやる意味=犯罪性を問うべきだという議論もあるが、それはここではふれない)。

 今日のオリンピックの原型は1984年のロサンゼルスオリンピックだと言われている。80年モスクワがソ連のアフガン侵攻に抗議する西側のボイコットという政治の荒波にさらされ、76年のモントリオールは莫大な赤字を残した。こうした曲がり角にあって、ロスは、商業化路線を打ち出した。入場料、スポンサー料、テレビ放映権料の確保である。この3本柱によって、ロスは黒字化に成功した。「コンパクトなオリンピック」という理念も、この流れに沿うものである。そうしなければ、スポーツは果てしなく堕落の道を転げ落ちるからである。しかし、今の東京オリンピックへ向けた動きは、こうした理念を無視している。

 一貫して分からないのは、「一体誰が責任を負い、誰が決めるのか」である。先ほども書いたように、本来は都市が主役。しかし、知事に権限はなさそうだ。では今回の新国立の基本計画を決めたのは誰なのか。JSCも「自分たちに最終権限はない」という。では文科省か。それとも新たに決まった五輪担当相か。それとも官邸か。昨日のJSCの有識者会議には、あのデザインを決めた安藤忠雄氏は欠席したらしい。では、一体誰なんだ。

 重要な人物を一人忘れていた。オリンピック組織委員長の森喜朗である。サメの脳みそ、蚤の心臓と言われ、暗愚の宰相と呼ばれた人物。えひめ丸が米原潜と衝突、日本人9人が死亡した時にはゴルフに興じ続けた人物である。いったい彼はどんな役回りを演じているのか。今回の新国立の件も、結局は森―安倍による政治決断だと言われる。国民感情とかけ離れた決定がボス同士の慣れ合い交渉で決まるのなら、これはムラ社会そのものだ。

 あの戦争を招いた「無責任の体系」は健在である。そして、戦艦大和以来のバカ査定がいままかり通ろうとしている。


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