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アメリカの衰亡~日本は自立すべき時 [社会時評]

アメリカの衰亡~日本は自立すべき時

 「帝国以後」(E・トッド著)を読んで

 帝国以後.jpg ・トランプ政権の意味~「国民国家」への欲望
 20171月、米トランプ政権がスタートした。滑り出しは、お世辞にも順調とはいえない。世界各国からだけでなく、米国内からも厳しい批判を浴びている。代表的なものは、中東7カ国からの入国禁止をうたった大統領令であった。幸い、というべきだろう。この大統領令は司法の手で止められているが、ほかにも、日々の発言に極端な保護貿易の主張や移民、人種への蔑視がにじみ、危うさをぬぐいされない。
 なぜ、トランプ大統領はこんな発言を繰り返すのか。一つには、第2次大戦後、世界が米国にかぶせた「例外主義の国」、すなわち覇権国家というマントを脱ぎ捨てたいという隠しようもない欲望があるためではないか。一見粗雑なトランプ発言を「普通の国民国家になりたい」という底意を意識したうえで聞けば、かなり理解できる部分がある。先ごろ問題になった、安保をめぐる対日批判も「特別な役割を負わされた米国がこれだけ苦労しているのに、なぜ日本はただの国民国家であり続けるのか」という文脈で理解すれば、かなりの部分のみこめる。念のため断っておけば、これはトランプ発言を擁護するという意味ではない。

  ・米国は世界のお荷物~パックスアメリカーナ終わり
 E・トッドの「帝国以後」は、2003年に刊行された。米同時多発テロからアフガン戦争を経て米国がイラク戦争にのめりこんだのが2003年であった。つまり、イラク開戦とほぼ同時期に刊行された。この書の冒頭付近には、こんな文章がある。
 ――アメリカ合衆国は現在、世界にとって問題となりつつある。これまでわれわれはとかくアメリカ合衆国が問題の解答だと考えるのに慣れてきた。
 トッドは続けて、しかしいまや米国は、「不安定と紛争」を維持し「国際的秩序崩壊の要因としての様相」を強めようとしている。そして、副次的重要性しか持たないいくつかの国を「悪の枢軸」と呼び、世界に同調を求めている、と言う。もちろん、ここにはイラクが念頭にある。
 トランプ発言は、もはやそうした立場さえも捨て去って「ただの国」になりたいといっているようだ。
 フランスの人口学者であるトッドはここで、アメリカという国のアウトラインを追う。18世紀、英国との戦争の末に独立。以来、ニューフロンティアと移民の国として欧州からヒトとカネが流入し発展する。一時モンロー主義の国としてヨーロッパへの不干渉を唱えるが、第1次大戦では途中から参戦。第2次大戦も、「パールハーバー」によって対日戦争の先端を開くが、もともとヨーロッパを舞台にした独ソ戦では積極的ではなかった。本格的な参戦は、1944年のノルマンディー上陸作戦からと思われる。トッドも書いているが、ナチスからヨーロッパを解放したのはソ連だった。
 しかし戦後、ソ連が世界の覇権をうかがい、一方で戦禍のため疲弊しきったヨーロッパは、ソ連に対抗するための「覇権国家」の役割をアメリカに期待する。そして、その結果―。
 ――アメリカは、たしかにソ連に勝ったかもしれない。しかし、冷戦の終結とともに米ソ間の緊張が緩和され、「雪解けの時代」になると、アメリカがもはや「理想の象徴」でないことが明らかとなっていた。(ポール・スタビロン著「アメリカ帝国の衰亡」から。この部分はasaによる引用)

  ・「帝国」を支えるもの~ドイツは自立、日本は?
 戦後、アメリカが「帝国」として存在するために必要だったものは、まず強大な仮想敵・ソ連であり、次に帝国を支える「盟友」だった。その柱はドイツであり、日本だった。
 ――日本はドイツに次いで、第二次大戦後に生まれたアメリカ・システムの第二の戦略的柱である。(略)ドイツはアメリカの後見から独立しつつある。日本はほとんど動かなかった。(「帝国以後」)
 アメリカ「帝国」の崩壊、もしくは衰亡によって、ヨーロッパは自立へと向かい、かつての「帝国」から「国民国家」へと相貌を変えたロシアと接近しつつある。世界は確実にアメリカ、ヨーロッパ、ロシア、中国という多極化へと向かっている。しかし、日本だけは相変わらず、「日米同盟」が日本の安全を守る道だと盲信している。

  ・日本の取るべき道~「沖縄」「原発」という亀裂
 トランプ政権の登場は、まぎれもなくアメリカ経済の衰亡の結果であり、帝国〈=例外主義的な覇権国家〉から一国民国家への変身願望の表れであろう。この結果、世界は一極支配から脱し多極化へと向かう。事実、ヨーロッパもロシアも中国もそう思っている。その中で日本だけが「沖縄」「原発」という活断層を抱えながら(二つとも、既存の路線を変えられないのは「アメリカ由来」であるためだ)、日米同盟を不可侵のものとして奉っている。イスラムの国でありながらNATOに加入したトルコがロシアと連携しても、アメリカは動かなかった(動けなかった?)。沖縄、原発で日本が独自の路線を取ったからといってアメリカが制裁的な動きをするなどとは考えられないし、そう考える材料もない。


帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

帝国以後 〔アメリカ・システムの崩壊〕

  • 作者: エマニュエル トッド
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 2003/04/30
  • メディア: 単行本

 

川上氏の背後に見えるものは何?~社会時評 [社会時評]

川上氏の背後に見えるものは何?~社会時評

 

 ショーン・マクアードル川上という、テレビ朝日「報道ステーション」のコメンテーターが学歴などを詐称していたと、週刊文春3月24日号が伝えた。

 今いうのもなんだが、この人が画面に登場した時、何か不自然なものを感じたものだ。文春の「詐称」報道を受けて、「(見た目の良さと低音の語り口が)戦略的に思え違和感があった」との見方があったが(宣伝会議編集室長・田中里沙氏)、その感覚に近い。マーケットリサーチをして商品を生み出すように、戦略的に作り上げられたキャラクターとしてかつて「ピンクレディ」がいたが、今回のショーン・マクアードル川上氏(本名・川上伸一郎、以下、川上氏)をめぐる事件も、似た構造を感じる。

 NYで生まれハーバード大のMBSを取得、そのうえ二枚目、低音、経営コンサルタントとして年商数十億円、と来れば、何もかもそろいすぎている。しかも、「米国」を経歴に巧みに取り入れ、日本人の「コンプレックス」を巧妙にくすぐる。なんとも「戦略的」である。

 しかし、その割に、コメントから専門分野が見えてこない。政治も経済も日米の文化も語るが、深みがない。一夜漬けで資料を漁り、頭に入れ込んだ図式を一生懸命に語る。そんな印象が強かった。

 この文章を書くために、川上氏の「ウィキペディア」を検索してみた。すると、肩書は「タレント」とある。急きょ書き換えられたものかもしれないが、これなら納得である。米国生まれの高学歴の経営コンサルタントを演じるタレント川上氏が、テレビでそれなりのコメントを発する。見ているものは、それはそれで、納得する。ついでに画面上の見栄えもいい。で、それでなぜいけないの、となる。ハーバード大の修士をとった人間が、一タレントよりも気の利いたコメントを出せるはずだとだれが決めたのか。

 テレビ界はいまや、コメンテーター花盛りである。朝は朝からワイドショー。昼は昼で、やはりワイドショー。夕方もある。そして報道ステーションやTBS「ニュース23」になだれ込む。視聴者はそこでコメントを聞いて何を納得するのだろうか。このニュースの見方や分析方法は、この人の言う通りだと安心したいのだろうか。そのためには「ハーバード」という肩書も役に立つというものなのだろうか。

 川上氏の目くらましは「戦略的」にこれ以上ないほど見事だったし、その分うさん臭かった。しかし、その向こう側に透けて見えるコメンテーターの市場ニーズとはいったい何なの?と問いたくもなる。それは、テレビっていったい何? 視聴者がテレビに見ているものは何? ということでもある。そう、視聴者は川上氏の背後に何を見たのだろうか。


市民社会の常識に任せよ~高市発言に思う [社会時評]

市民社会の常識に任せよ~高市発言に思う


 高市早苗総務相が、放送に対する権力の介入を否定しない発言を行った。本人は、この件に関する報道をみて「愕然とした」(早苗コラム)らしいが、それでは「報道の自由」に対する基本的な認識が欠如しているとしか言いようがない。
 問題を整理してみる。高市総務相は2月8日の衆院予算委で、民主党の奥野総一郎議員の質問に答え、「番組編集が不偏不党な立場から明らかに逸脱していると認められるような場合」、放送法第4条と電波法第76条に照らして「電波停止などの対応を総務大臣が行うという場合もある」と答弁した。さらに、9日の衆院予算委で「憲法9条改正に反対する内容を相当の時間にわたって放送した場合、電波停止になる可能性はあるのか」という玉木雄一郎・民主党議員の質問に「1回の番組で電波停止はありえない」が「将来にわたって罰則規定を一切適用しないことまでは担保できない」と答弁した。
 まず、ここで「不偏不党」を判断するのはだれなのか、という問題がある。いうまでもなく、政権を担う政治家たちは、「不偏不党」ではない。そうした人たちがメディアの「不偏不党」ぶりを判断し、逸脱しているからといって「電波停止」という名の言論統制をするのは、自己矛盾であろう。高市早苗は「不偏不党」の立場で、番組内容を判断できるのか。
 放送法第4条でうたう「政治的に公平」は、従前から権力からも中立であること、と解されている。これは、耳にタコができるほど多方面から指摘されていることだ。放送法は1950年、連合国軍の占領下で作られた法律であり、そこには日本に民主主義を根付かせたいという時代の要請があった。メディアに戦時中の大本営発表を繰り返させてはならない、という反省が込められている。これに憲法21条「表現の自由」を重ね、第4条の「政治的公平」は放送が自律的に目指すべきもの、と解されている。
 メディアの「不偏不党」を、政権が判断しようなどというのはおこがましい限りなのだ。
 その成立過程に多少の問題があるにしても、政権は政治権力の追求に勝利した勢力が担う。しかし、政治的空間は公共空間のすべてではなく、一部にすぎない。公共空間は言論の自由市場であるべきで、その結果として世論(輿論=パブリックオピニオン)が構成され、一部勢力に行政権を付託する。しかし、そこで行政権を担ったものが、公共空間そのものを支配できる、あるいはしていると思ったなら、それは傲慢である。
 二つ目の問題。9日の衆院予算委のやり取りを見ると、文脈上、総務相は「憲法改正に反対する」意見のみを取り上げることは政治的な偏向だと理解しているらしい。しかし、知られているように、憲法99条にはこう書いてある。
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
 国会議員は、憲法擁護を唱えることが、現行憲法下では憲法に合致する行為である。言い換えれば、「改憲」を国会という公式の場所で唱えることは「政治的に偏向した行為」なのだ。たしかに自民党は改憲を党是とするが、それはあくまで私党の中での議論である。
 高市総務相個人のブログ「早苗コラム」を読むと、この部分は「テロへの参加を呼びかける番組を流し続けた場合には、放送法第4条の『公安及び善良な風俗を害しないこと』に抵触する可能性がある」とすり替えている。ばかばかしいほどの極論である。メディアが犯罪の勧めをしたらどう対応するか、などと考える必要があるのか。この問題を少し進めて、例えば「テロ」と「政治活動」の線引きをどこに置くか、という問題をメディアが取り上げた場合、どう考えるのか。かつて、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」とブログに書いた政治家がいた。こうなると、「憲法改正に反対するデモにいこう」と呼びかけただけで「テロを呼び掛けたから放送法第4条違反」として指導を受け、最悪の場合は電波停止になるのかもしれない。
 こうした線引きは、成熟した市民社会が自律的に行う、というかたちで考えるべきであろう。権力を持つ側がメディアに対して、「権力行使を否定しない」と発言することの怖さと重さを考えるべきである。


あまりにも日本的な~新国立のデザイン騒動 [社会時評]

あまりにも日本的な~新国立のデザイン騒動

 新国立の新デザイン2案が公開された。工期と工費が決まっていて、ザハ案の白紙撤回からわずか5カ月足らずだから、事実上、前回のコンペに取り組んできたゼネコングループしか入り込めないだろうことは容易に想像がつく。実際、そのとおりになり、公表されてはいないが、主導したのは大成建設と竹中工務店だといわれている。

 さて、素人目に二つの案はどう映るか。結論を言ってしまえば、どちらも極めておとなしい。言い換えれば事なかれ主義の産物。でも、それを責めるわけにもいかないだろう。厳しい条件をクリアするには仕方なかった、といわれれば返す言葉もない。

 ザハ案でもめた時も、建設業界のある実力者(だと思う)が、白紙撤回してやり直すならこのやり方しかない、とあげたデザインも、今回出てきた案とほぼ同じものだった。要するに、だれが考えてもこうなるでしょ、というのが今回の案である。ということはつまらない案だなあ、ともいえる。こんなことならザハ案で行けるところまで行ってもよかった。

 五輪騒動では、新国立のほか「エンブレム」騒動もあった。これも極めてあほらしい騒動であった。問われたのは何かといえば、コピー疑惑である。しかし、デザインに作家性や「署名」が必要だとだれが決めたのか。日本古来のデザイン(意匠)は私たちの身近にいくらでもあり、私たちはいちいちそれらを「だれだれの作」と意識して使っているわけではない。要はコンセプトと使いやすさがあればだれがつくろうとかまわないわけで、デザインの研究者の中には、最近とみに顕著になってきたこの傾向(作家主義と署名性)を「近代の病」と呼ぶ人もいる。デザインは芸術ではないのだ。そうした観点から見れば、あのエンブレム騒動は何だったのか。

 その視点で、もう一度新国立のデザイン騒動を見てみよう。先ほど、ザハ案でもよかった、と書いたが、逆説的にいえば、結局は現実化がむつかしかったザハ案が選ばれた背景にも、やっぱり「近代の病」が潜んでいる。つまり、それ(現実化の困難さ)を承知で「ザハ」という名に目がくらんで選んだんじゃないの?ということになる。しかし、騒動が広がるにつれ、そこまで関係者の考えが及んでいなかったことが暴露され、それが混乱の源であったともいえる。

 そうした問題の原点、近代におけるデザインとは何か、といったテーマは掘り下げることなく、選考メンバーにスポーツ選手を入れてみたり、選考経過の透明性を力説してみたり、という問題の本質とは無関係の事柄ばかりに力を入れているあたりが、いかにもニッポン・イデオロギーらしいが(念のためいえば、デザインを選ぶ過程で「透明性」など何の意味もないし、そんなものが数値化できるわけもない。選考メンバーにスポーツ選手を加えるなど百害あって一利なし)。

 森喜朗・五輪組織委員会会長(なんで委員長でなくて会長なのか)はB案がいい、などと子供のようなことを言って物議をかもしている。これでもしB案が選ばれたら、「森さんがああいったから」となってしまい、B案には不幸なことになる。そんなことを考える頭も、森氏にはないらしい。

 最後に、この二つの案は、ベルリンにあるオリンピックスタジアム、つまりナチスドイツが1936年に行ったオリンピック(今でもオリンピックとしては最高の出来だったという人もいる)の会場と、とても似ている。もっとも、あちらはギリシャ遺跡を意識し、石材が豊富に使われている点が、木材を多用する予定の日本案と違うが。そして、ベルリンのスタジアムがある場所は今も「オリンピアの杜」と呼ばれている。ベルリンオリンピックを国威発揚の場と位置付けたナチスドイツは、その成功から3年後にポーランドへ電撃侵攻した。今回のスタジアムのデザインの酷似が、単なる偶然であることを願う。

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ベルリンのオリンピックスタジアム

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スタジアムの外観



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東京新国立競技場のA案


スタジアム替え2.JPG
B案


安保法制採決に思う~社会時評 [社会時評]

安保法制採決に思う~社会時評

 9月19日未明、参院本会議で安全保障関連法が成立。集団的自衛権の行使が可能となった。これによって自衛隊は、日本の防衛のためでなく他国の防衛のために海外で戦闘することが可能になった。法案自体の無効性、国会手続きの瑕疵については今さら触れない。このような事態がなぜ起きたか、これによって何をすべきかを考えてみる。以下、走り書きである。

 参院特別委の乱闘騒ぎは、見るに堪えないものだった。「ぶざまな事態」といったほうがいい。やりきれないのは、その乱闘騒ぎでさえ、パフォーマンスにしか見えないことである。こんな独裁的で理不尽な手法で法案が通されたことに抗議して、ただの一人の議員も辞任するとは言わないことこそが、それを雄弁に語っている。

・戦後民主主義の虚妄

 こうした政権の暴走に対して、若者を中心にしたデモが国会前で展開された。個人的には、あの新興宗教に似たお題目の唱え方はとてもついていけないが、それはここではいうまい。「戦争はいやだ」も「憲法9条を守れ」も、それはそれでよしとしよう。しかし、その先の思想が感じられないのはなんとも寂しい。この二つのスローガンから見えてくるのは「生活保守」の思想である。それを超えるものがなければ、政権が言う「他国並みに血を流す」という論理に真の意味で対抗することはむつかしい。
 しかし、その責任を、若者を中心にした彼らに負わせることは筋が違っている。わかりやすく単純ではあるが同時に空疎である彼らのスローガンから見えてくるものは、恐ろしいまでの戦後民主主義(あるいは戦後思想)の空疎さである。すなわち、真に責任を負うべきは「戦後」を丸々生きてきたものの「戦後責任」であろう。

・軽武装と経済優先

 戦後の日本は安保条約とともに生き延びてきた。是非は別にして、これはもはや隠しようがない。米軍基地を置くことで防衛費を安く見積もり、その分、経済に軸足を置く。吉田茂が引いたレールである。のちに岸信介が安保の双務化を唱え、米軍による日本防衛義務を負わせたのが60年の安保改定である。吉田・岸の動きを概括すれば、対米従属を貫くことで日本を自主独立へと導く、という戦略(いわゆる「のれん分け」戦略)と見えないこともない。では、吉田・岸の戦略の延長線上に今回の「安保」はあるだろうか。答えは「ノー」である。

・二つの意味での日本の奴隷化

 安倍政権は「安保」採決によって、二つの意味で日本と日本人に「奴隷」の思想を強要した。一つは、「多数が正義である」という思想。これは、裏返せば「少数は多数に従え」という含意であり、文字通り服従の思想である。しかも、ここでいう「多数」とは「議席数」のことであるに過ぎない。前回の衆院選で自民は小選挙区で2割台、比例区で1割台の絶対得票率しか得ておらず、そのことが各種世論調査とのギャップとして現れているが、そうした現実への謙虚な視線はないようだ。
 もう一つは、自主独立を目指さずに日米共同防衛への傾斜を強めることによって必然的にもたらされる、さらなる米国の属国化である。
 この二つの「奴隷の思想」は、間違いなく日本国民の「自立」と「解放」をはるか遠くへ押しやるものである。

・打ち捨てられた沖縄

 以上のような政権の動きが、日本国内でどのような「歪み」をもたらしているか。この答えを見つけるのはむつかしいことではない。
 その一つは、戦後一貫して打ち捨てられてきた沖縄の存在である。もし集団的自衛権を行使できる安保体制を構築するなら、全国の米軍専用基地の74%が集中する沖縄の現状は改善されるべきであろう。それをせずに、日本を「戦争できる国」にするという発想は、70年前に「捨て石」として県民を米軍70万の前にさらしたのと変わらぬ発想というほかない。

・「近代」との対決~忘れられた竹内好

 もう一度、戦後思想の問題に戻ろう。なぜ戦後思想はこれほど空虚なものとなったか。まず、「戦争」(もしくは戦争責任)ときちんと向き合いながら国民横断的な「非戦」の思想が構築されてこなかったこと。それは、米国への向き合い方、天皇制の問題、近代思想の検証に派生する。背広を着替えるようにではなく、自己否定を積み重ねて戦後思想を構築するという作業がどれほど行われてきたか。いいかえれば「対米」「天皇」「近代」がどれほど戦後思想の中で血肉化されたのだろうか。
 確かに、かつては鶴見俊輔、丸山真男、吉本隆明、橋川文三、桶谷秀昭らによってそうした営為はなされてきたが、それはどこへ行ってしまったか。
 痛感するのは、かつて大東亜思想に身を震わせ日本浪漫派に耽溺した体験を持つ竹内好が、その体験を正面に据えながら戦後思想を構築しようとした姿である。いま、戦後という空疎な時代を振り返るにつけ、竹内の不在こそが悔やまれる。そして、竹内の不在はそのまま、日本のアジア観の空疎さにつながっている。

・リベラル思想の復権を

 もう一度、「今」に戻る。今回の政権の暴走を呼んだものは、直接的には衆参での圧倒的な与野党の議席差であるが、それは表面上のことである。最も問題なのは、正統なリベラルの思想が日本社会に形成されていないことである。分厚いリベラル層が存在し、それが議席として反映される政治状況を作らない限り、現在の悪政は改善されないだろう。

・短期的な問題~選挙戦略

 共産党が野党間の選挙協力を呼び掛けているという。何を今さら、とも思うが、もちろん選挙協力を進めるべきだ。現在の小選挙区ができた時点で、好むと好まざるにかかわらず、野党は統合しなければ議席に結びつかないことは、子供でも分かる理屈だった。それを自党の党利党略にこだわり、今日の事態を招いたのはいったいどの党だったか。
 しかし、過ぎたことは言うまい。願はくば共産党が自党の路線を他党に押し付けないことである。


平成のバカ査定~新国立競技場 [社会時評]

平成のバカ査定~新国立競技場

 2020東京オリンピックのメーンスタジアムになる新国立競技場の建設費が7月7日、2520億円に決まったらしい。「らしい」と書いたが、どうも、この決定過程がはっきりしない。そもそも、これを決めた会議はなんなのか。「日本スポーツ振興センター(JSC)」の「有識者会議」らしいが、これは何なのか。こんな団体が、国民の税金2520億円の使い道を決める根拠は何なのか。ちなみに「JSC」なるウェブサイトにも行ってみたが、何の団体やら、さっぱりわからない。

 素朴な疑問をいくつか。2020年に予定されているのは「東京オリンピック」で「日本オリンピック」ではない。過去のオリンピックも、すべて都市名が付いている。つまり、五輪をやるのは都市ではないのか。オリンピック発祥の地、古代ギリシャが都市国家であった名残であろう。そこは、国が主催するW杯サッカーなどとは違っているはずだ。それなのに、なぜ国家が前面に出るのか。新国立の建設費2520億円がねん出できないから東京都に500億円出せという。だったら、その500億円で都立競技場を作ればいい。これでは本末転倒というものだ。

 オリンピックというたかだか国際運動会に総額いったいいくらかけるつもりなのか。既に、新国立は2520億円では収まらないと言われている。仮に3000億円を超すとしたら、全体は1兆円では収まらないだろう。逆に総額5000億円で収まるとしたら、予算配分としてアンバランスこのうえない。しかし、ざっと見た限り、過去のオリンピックは5000億円前後で行われている。つまり、まず新国立ありきではなく、2020オリンピックにいくらかけるかを決めた上で、新国立の建設費を決めるというのが筋道ではないか(この前に、そもそも福島の現状を見るにつけ、オリンピックをやる意味=犯罪性を問うべきだという議論もあるが、それはここではふれない)。

 今日のオリンピックの原型は1984年のロサンゼルスオリンピックだと言われている。80年モスクワがソ連のアフガン侵攻に抗議する西側のボイコットという政治の荒波にさらされ、76年のモントリオールは莫大な赤字を残した。こうした曲がり角にあって、ロスは、商業化路線を打ち出した。入場料、スポンサー料、テレビ放映権料の確保である。この3本柱によって、ロスは黒字化に成功した。「コンパクトなオリンピック」という理念も、この流れに沿うものである。そうしなければ、スポーツは果てしなく堕落の道を転げ落ちるからである。しかし、今の東京オリンピックへ向けた動きは、こうした理念を無視している。

 一貫して分からないのは、「一体誰が責任を負い、誰が決めるのか」である。先ほども書いたように、本来は都市が主役。しかし、知事に権限はなさそうだ。では今回の新国立の基本計画を決めたのは誰なのか。JSCも「自分たちに最終権限はない」という。では文科省か。それとも新たに決まった五輪担当相か。それとも官邸か。昨日のJSCの有識者会議には、あのデザインを決めた安藤忠雄氏は欠席したらしい。では、一体誰なんだ。

 重要な人物を一人忘れていた。オリンピック組織委員長の森喜朗である。サメの脳みそ、蚤の心臓と言われ、暗愚の宰相と呼ばれた人物。えひめ丸が米原潜と衝突、日本人9人が死亡した時にはゴルフに興じ続けた人物である。いったい彼はどんな役回りを演じているのか。今回の新国立の件も、結局は森―安倍による政治決断だと言われる。国民感情とかけ離れた決定がボス同士の慣れ合い交渉で決まるのなら、これはムラ社会そのものだ。

 あの戦争を招いた「無責任の体系」は健在である。そして、戦艦大和以来のバカ査定がいままかり通ろうとしている。


フグ論争のくだらなさ [社会時評]

フグ論争のくだらなさ

 先ごろ、国会で奇妙な議論があった。横畠裕介・内閣法制局長官が6月19日、安全保障関連法案を審議する衆院特別委で、集団的自衛権をフグにたとえ、「肝を外せば食べられる」と答弁した件である。これを聞いて「奇妙」と思ったのは、主に二つの疑問からである。

 疑問の第一。この答弁は質問者の寺田学氏(民主)が「集団的自衛権は(分離不可能な)腐ったみそ汁では」と問いかけたことに始まり、それに横畠氏が、「フグだから分離可能だ」と答えたが、なぜフグなのか、根拠は示されていない。要するに、ここでの応酬は「分離はできない」「いや、分離はできる」と言ったに過ぎない。

 そもそも、集団的自衛権行使に踏み出すことへの国民の不安と疑念は、「いったん他国の戦争に加担すれば、泥沼に引きずり込まれるのでは」という点から発している。それに対して安倍晋三政権は「いや、限定的だからそんなことはない」と言っている。

 戦争もしくは戦闘行為には必ず相手が存在する。こちらが「限定的な範囲内での戦闘」を想定しても、相手は「限定的な戦争を仕掛けてきたからこちらも限定的に応じよう」となるのか。随分、非現実的な発想だ、というのが大方の国民の見方なのである。

 すると、これは「腐ったみそ汁を飲む」か「毒キノコを食う」というほうが、比喩としては当たっていると思うのが普通であろう。それを無理矢理、分離可能な「フグ」だというなら、その根拠を示さなければ何かを言った(説明した)ことにはならない。

 疑問の第二。横畠氏は自らのポジションをなんだと思っているのかということである。言語学者の東照二氏は、「選挙演説の言語学」で「ラポートトークとリポートトーク」に触れている。ラポートトークとは感情、情緒、直感、感覚的なものに訴える話しぶり、リポートトークとは理屈や理論に基づいた話しぶりのことである。東氏はここで「ラポートトーク」の必要性を説いているが、もちろんこれは政治家の演説という前提があってのことである。

 ややもすると、国会の議論は情緒的、非論理的な攻撃的言語のオンパレードになる。そんなとき、法律的解釈の一貫性を維持する観点から答弁するのが法制局長官であろう。政治家と同じレベルで答弁するのであれば、自らのポジションを自ら否定するに等しく、法制局長官はいらないことになってしまう。

 そんなわけで、くだらないたとえ話の果てに国民の疑問は何一つ解消されることにはならない。こんな国民をばかにした議論(議論にもならない)が繰り返されるなら、まず横畠氏は「長官」のポストを返上すべきだし、それをしないのであれば野党は辞任を求めるべきである。

 しかし、それよりもまだ問題なのは、こんな国民を愚弄したやりとりが「国会審議時間」に加算され、国政レベルの議論のアリバイに使われてしまうことである。なんともやりきれない話である。


ニュース番組がつまらない [社会時評]

ニュース番組がつまらない

 4月から、NHK・ニュースウォッチ9(NW9)のキャスターが代わった。大越健介は河野憲治、井上あさひは鈴木奈穂子に。この新キャスターが味気ない。切り口が平凡な上、つけるコメントも内容がなく記憶に残らない。NHKの番組史上で最悪と思える。

 たしかに、二人とも一見スマートだ。だが、それがどうした、である。「私」という個人を通して、このニュースはどう見えるのか、社会は、権力は、人間は、といった迫力がまるでない。だからコメントも無味無臭、無色透明でつまらない。

 NW9.jpg

 ニュース番組が今日のような形になったのは1974年4月に始まった「ニュースセンター9時」からであろう。キャスターは記者だった磯村尚徳で、ウォルター・クロンカイトやダン・ラザーがアンカーを務めた米テレビ「CBSイブニングニュース」が原型と思われる。この発展形が久米宏をキャスターとしたテレ朝「ニュースステーション」(1985~)であろう。原稿を読むだけのニュース番組が、ジャーナリズムのフィルターを通したときニュースがどう見えるかが語られ、さらにはショー化して見せるという、テレビにおける軌跡が見える。背後にあるのは、分かりにくいニュースを身近な視点で分かりやすく伝えようという意図である。

 ところが、今のNW9は、積み上げたものを台無しにするほどの変わりようである。つるりとしたコメント。摩擦がない。この感覚を、辺見庸も指摘する。姜尚中や藤原帰一のテレビでのコメントに「危機感のなさ、摩擦のなさ、情況とのひっかかりのなさに驚いて」しまい、そこに「うすら寒い時代性」を感じている。別の言い方として、辺見は「権力は十分に不穏なのに、魂をえぐる不穏さがない」ともいう(「絶望という抵抗」(佐高信との対談、金曜日刊)。

 この感じは、最近の「報道ステーション」にもいえよう。3月27日、コメンテーターの古賀重明が「早河洋テレ朝会長らの意向で下ろされることになった」「官邸のバッシングがあった」と発言し、古館伊知郎が慌ててとりなすという一幕で一気に色あせた。

 極めつけは、5月14日の安倍首相会見を受けて15日に放映した2人(宮家邦彦と白井聡)のコメントの冒頭での古館発言である。いわゆる安保法制について、直前に福島瑞穂の「戦争法案」発言に首相がクレームをつけたことから、「『戦争法案』という呼び方もしないかわり『平和』という呼び方もしない、安全保障法案とする」とした点である。福島が法案を「戦争」と呼ぶことにも、首相が「平和」と呼ぶことにも、背景にはそれぞれの思想がある。それを「込み」で伝えてこそ、ニュースではないか。もっといえば、この法案を「安全保障」と呼び、安全保障は軍事や防衛によって達成されるとする考え方自体、そもそも「思想的」なのではないか。

 猿にタマネギを与えたらどうするか、という逸話がある。皮をむき続け、最後に何も残らないことを知る、という。タマネギは皮ごとゆでるか炒めてこそ味がある。サルと同じことをしているように見えてならないのだ。もちろん、NW9も。


20,000,000票のさまよえる民意 [社会時評]

20,000,000票のさまよえる民意


 今年も残りわずかとなった。来年はおそらく日本にとっての重大な岐路が待ち構えているだろう。安倍晋三政権は12月衆院選の結果をもって民意は確定したとし、大きな政治判断を下すだろう。しかし、安倍政権は正統な民意の集積の上に成立した政権なのか、大きな疑問がある。いい方を変えれば、民意と政権の「ねじれ」こそが問題なのではないか。

 ■□□政治的課題とは

 政治的課題を考える前に、今の政党分布図を俯瞰してみよう。自民、公明、維新、次世代、みんなは安保政策、憲法、新自由主義への対応において大差はない。共産、社民、生活はこれらの課題で対決軸を持っているが、共産を除けばいかんせん勢いがない。民主はこの点、まだら模様である。

 安保政策は、米ソ冷戦後の独自路線=ポスト対米追従=を考えるべきである。そのうえで、沖縄の基地問題も論じられなければならない。憲法を巡っては、「一言一句変えてはならない」という主張は市民運動としては成り立つが、議論としては冷静な対応が必要である。不毛の二者択一の議論ではなく、内容に踏み込む勇気が必要だろう。新自由主義やトリクルダウンの理論に対しては、明らかな対案が必要である。1%の富裕層が99%の貧困層に施しをすることで、社会の公正が守られるなどという主張が、政治の大勢であってはならない。

 以上の観点からすれば、中道左派のリベラル路線(いまどき「左派」などという言葉は死語のようにも思うが)が、少なくとも自民の対抗勢力として存在していなければならない。現行小選挙区制は投票結果に過度のバイアスをかける制度であるから(政権の安定を優先的に考えた制度であるともいえる)、その結果、生じた「影」の部分(たとえば社会的格差の拡大)を修正するシステム的担保が必要である。それがすなわち、二大政党制であろう(二大政党制が日本の政治風土に向いているかどうかは別の議論である。私自身はあまり向いているとは思わないが)。共産党の不破哲三元議長は1226日付朝日新聞で「二大政党制は絵に描いた餅」と批判したが、現行の選挙制度が存続する限りは、石にかじりついても二大政党制にするしかない。不破氏の評論家的言説は、共産党がどれだけ伸長しようとも政権奪取に至らないことが自明である以上、自民党政権の固定化に与するものだ。

 □■□「ねじれ」を生んだ政治システム

 では、憲法、安保、新自由主義を対抗軸とし、自民と拮抗するリベラル政党は可能なのか。一言で言えば、その政治的土壌はあると考える。

 その根拠は、過去3回の衆院選で明らかになった、2000万票の流砂のような票の存在である。この2000万票をまとめることができれば、政権を左右する政治状況が生まれると確信する。そのことをデータで見てみよう。

 過去3回の選挙で、自民は議席数だけで見れば政権から転落→奪取(圧勝)→維持(圧勝)と、ジェットコースターのような境遇にあったが、獲得票数を見れば、小選挙区、比例区とも横ばいないしは下降線である。現在の有権者総数は1億人強なので、仮にこれを1億人と丸めると、今回衆院選での絶対得票率は小選挙区25%、比例区18%(いずれも四捨五入した数字)である。この得票で、自民は衆院の6割を超す議席を占めた。なぜこんなことになるかは、さんざん書いてきたのでここでは書かない(要は小選挙区制における死に票の多さがもたらす問題である)。

 重要なのは民主の票の推移である。民主に肩入れしてのことではない。ここに、さまよえる大量の民意の足跡があると思うからである。

 民主が政権をとった第45回衆院選(2009年)で民主は小選挙区3348万票、比例区2984万票を得た。その後の2回の選挙では、小選挙区1360万、1192万票、比例区900万票台である。つまり、約2000万票が動いた。では、その塊はどこへ行ったか。

 46回衆院選(2012年)で特徴的なのは、「維新」「みんな」「未来」を合わせた、いわゆる第三極が2000万票をとったことである。もちろん、民主から逃げた票がそのまま第三極に行ったといえるほど単純なことではない。最も大きいのは、前回と比べ10%下がった投票率である。この10%は約1000万票にあたる。46回衆院選で共産は、比例区は減ったが小選挙区は6割増の470万票を得ている。

 つまり、民主党政権に失望した有権者は①投票に行かなかった②第三極に入れた③一部は共産に入れた―という動き方をしている。45回から46回にかけて、自民票は小選挙区では減っている(比例は46回から47回にかけて微増)。つまり、民主に失望した人たちは自民に入れたわけではない。

 では、今回の47回衆院選(2014年)は、前回と比べどうだったか。特徴的なのは、第三極と目される勢力が約1000万票減ったことである。この票はどこへ行ったか。投票率をみると、前回より約6.7%減っている。票数にして約670万票である。さらに、共産は小選挙区、比例区とも200万票以上伸ばしている。自民は比例区で100万票増だった。民主は小選挙区で減らし、比例区は微増だった。

 この結果から分かるのは、有権者が選択肢と考えたのは自民、共産で、それ以上に多くの人たちは棄権に回った。ここで押さえておきたいことは、共産は元々組織政党だが、今回の伸びしろは、浮動票によるところが大きいということだ。「他に入れるところがない」票が、一定程度共産に集まったということで、ここは読み違えてはいけない。

 日米安保堅持、自主憲法制定、新自由主義推進という自民補完物としての「第三極」にはもう用はないと有権者は見ている(「次世代の党」の惨敗が象徴的だ)。しかし、自民と共産の対決が、拮抗する勢力図につながるとは考えにくい。つまり、このままでは自民政権の安泰が続くだけ、ということになる。

 □□■では、どうするか

 結果として今回の選挙で笑ったのは、自民、公明、共産だった。いずれも組織を持つ政党である。しかし、こうした傾向が続くのはよくない。どこかの政党に属し、党費を払う人間(政治のプロ)の主張が通って、非政党的市民はどんどん関心を失っていく。こんな政治がまかり通っていいわけがない。それどころか、これはジョージ・オーウェルの「1984」の世界につながる。「政治のプロ」ではなく「政治の素人」が共感する政治が求められている。その「共感する政治」を求めている有権者は2000万人おり、それらの人たちの感性にフィットする政策(その課題は冒頭に掲げた)を訴えれば間違いなく流砂は動く。そうでない限り、「民意と永田町のねじれ」は解消しない。

 その意味では、民主党は(もう期待する方が無理かもしれないが)、いったんは解党的事態になろうともリベラルに特化すべきである。その上で政治状況から消え去るのなら、それはそれでやむを得ない。そうなれば、民主党の墓碑銘のうえに新たな「リベラル」の旗がたてられるだろう。

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過去3回の衆院選での各党の消長(小選挙区) 


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過去3回の衆院選での各党の消長(比例区)

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「炭鉱のカナリア」~漫画が担うべき役割 [社会時評]

「炭鉱のカナリア」~漫画が担うべき役割


 メディア史・大衆文化論を専門とする佐藤卓己・京都大准教授が「読者の高齢化が進む論壇は老人の盆栽趣味みたい」[注1]ととらえているのを見て、納得してしまった。枝ぶりはいいがいかんせん大地に根を張っていない、という意味だろう。確かに、例えば論壇誌の一つ「世界」は確固たる光を社会に投げかけ、それなりの存在感を示すが、大衆社会全体からすれば、その光の届く範囲は狭い。

 数十年ぶりだろうか、コミック誌を喫茶店での暇つぶしでなくじっくりと読んだ。きっかけは、福島での鼻血描写が波紋を広げた「美味しんぼ」(ビッグコミックスピリッツ=小学館発行、作・雁屋哲、画・花咲アキラ)だ。

 かつて「右手に少年マガジン、左手に(朝日)ジャーナル」といわれた時代をくぐってきた身には、漫画は一過性ではない媒体、との思いがある。白土三平の「カムイ伝」、永島慎二の「漫画家残酷物語」、つげ義春の「ねじ式」、そして、大正ロマンと昭和のアングラ文化を融合させた林静一の「紅犯花」…。

 評論家の内田樹氏は、養老猛司氏からの受け売りと断って、日本の漫画の背景には日本語の言語文化があると指摘する。つまり、日本語は漢字と仮名(カタカナ)で成り立っているが、漢字は表意文字であり、仮名は表音文字である。漢字は「具体的な物質性を備え」、身体的な持ち重りのするものなのである。これを漫画に置き換えると、漢字を理解する脳内部位は「絵」を理解する部位に通じ、表音文字である仮名を理解する部位は、「吹き出し」を理解する部位に通じる。そこが、表意文字一本で言語体系が成り立っている文化圏とは決定的に違っているのである[注2]。このことが、絵と文字の2本のレールを使って走る「漫画」という表現形式の成立につながっている。

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 「美味しんぼ」では、5月1219日号の鼻血シーンの後、医者に「放射線と鼻血とは関連付ける医学的知見はない」と語らせ、特定の結論を押し付けないという意図がみえる。しかし、地元自治体だけでなく閣僚らが相次いで「風評被害を招く恐れがある」と「遺憾」を表明。そのためかどうか、6月2日号で13人の意見と3自治体の抗議文をまとめた「『美味』しんぼ福島の真実編に寄せられたご批判とご意見」を掲載、「次号からの休載」を告げた。

 読んでみたが、鼻血と放射線は無関係と理論的に結論付けたものは見当たらなかった。それどころか、津田敏秀・岡山大教授の「『因果関係はない』と批判をされる方には、『因果関係がない』という証明を求めればいい」という指摘が記憶に残った。ここにコメントを寄せている医師・肥田舜太郎さんは著書[注3]で、広島の被爆者が鼻血と血便に苦しめられた様子を書いているし、フォトジャーナリスト広河隆一氏はチェルノブイリ避難民の5人に1人が鼻血を訴えたという2万5千人のアンケート調査結果をブログに掲載している[注4]。

 百歩引き下がっても、現時点の医学的知見では「放射線と鼻血は関係ない」とは明確に断定できないのではないか。ここで思い出されるのは、水俣湾で発生した不可解な病が当初、「チッソ」という企業の原因説を否定されたため、出さなくてもよかった多くの患者を出してしまった苦い体験である。

 論壇誌の「光」が大衆社会に届きにくくなった今、「炭鉱のカナリア」とも言うべき役割は骨のある漫画が担わなくてはならないのではないか。頑張れ「美味しんぼ」。

[注1]「災後のメディア空間―論壇と時評2012―2013」(中央公論社、2014年)

[注2]「日本辺境論」(新潮新書、2009年)

[注3]肥田舜太郎/鎌中ひとみ「内部被曝の脅威―原爆から劣化ウラン弾まで」(ちくま新書、2005年)

[注4]http://www.hiropress.net/mt/archives/000050.html


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