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押しつけではないファシズムの怖さ~映画「ザ・サークル」 [映画時評]

押しつけではないファシズムの怖さ~映画「ザ・サークル」

 

 巨大なSNS企業が、そのテクノロジーを駆使して一元的な情報サービスの展開、すなわち「世界統一」を目指す。そのための戦略的ツールとして超小型カメラ「シー・チェンジ」が開発される。まず目指すのは、カメラ装着によって個人の日常をすべて公開する「透明化」計画だった。隠すことは罪であるという「思想」によって生み出されるものは、ユートピアなのかディストピアなのか…。

 メイ(エマ・ワトソン)は大学を出たものの、水道会社の派遣社員として不本意な日常を過ごしていた。ある日、大学時代のルームメイトからの誘いで、SNSの分野で世界一のシェアを誇るサークル社に転職する。そこで彼女は、シー・チェンジによる透明化計画の第一号に名乗りを上げ、瞬く間にネット上のアイドルになる。そうした中で両親や親友のマーサーはプライバシーのない生活に違和感を覚え、脱落もしくは逃走中に事故死する。

 テクノロジーの発展によってすべての情報が公開、共有されることはいいことなのか。プライバシーとは何か。完全透明化によって人々は完全な相互評価が可能になる。それはいいことなのか。それらが問われる。権力者が市民を監視するという構図(例えば映画「スノーデン」など)はこれまでも見られたが、この「ザ・サークル」の怖さは、市民(民間)の側から、それも個人の側から自主的に監視体制を受け入れてしまうということにある。押し付けられた全体主義ではなく、市民の側から求めた全体主義の怖さである。

 メイは個人の透明化だけでなく、サークル社自体の透明化を、経営者であるイーモン・ベイリー(トム・ハンクス)らに求めていく。しかし、映画ではその意図が何なのか、多少不透明である。そのため、いったんは「透明化計画」に疑問を持ったメイがラストシーンでは再びドローンによる監視を受け入れてしまうのだが、そこに至る彼女の心の動きが今一つ明確でない。その辺りが、観る者に消化不良をもたらしている。

 多少話を広げると、メディアの進展と過剰なテクノロジー信仰が新たな全体主義を生むというのは、映画やラジオといった「ニューメディア」を、大衆を鼓舞するための道具に使ったナチズム以来の定式である。この「ザ・サークル」も、そのことをあらためて思い知らせた作品といえる。この映画、肝心の米国では定まった評価を得なかったと聞く。作品のメッセージがやや曖昧であるためか、それとも、もともとファシズム=全体主義への共感も否定も持ち合わせない国民性のためか。興味深いところだ。社旗のマークが日の丸に似ているところも何やら思わせぶりだ。2017年、米国。

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