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大国の論理がつくった概念~濫読日記 [濫読日記]

大国の論理がつくった概念~濫読日記

「集団的自衛権と日本国憲法」(浅井基文著)

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「集団的自衛権と日本国憲法」は集英社新書。760円(税別)。初版第1刷は2002220日。浅井基文氏は1941年愛知県生まれ。63年に東大法学部中退、外務省入省。アジア局中国課長などを経て88年東京大教養学部教授。2005年から2011年まで広島市立大広島平和研教授。















 いったいなぜ、安倍晋三首相は憲法解釈を変えてまで集団的自衛権の行使容認の閣議決定を急いだか。こうした疑問は、だれしもわくはずだ。中国、北朝鮮と日本との関係が悪化しており、アジアの軍事的緊張は高まったという首相の主張をいったんは鵜呑みにするとしても、日本がただちに危険な状態に陥るという国際情勢にあるとは考えにくい。日本国民の命が危険にさらされるというのなら、個別的自衛権の発動で間に合うはずだ。

 個人の正当防衛を国家レベルで類推した結果として個別的自衛権が認められるとしても、集団的自衛権はその延長線上にはない。1944年のダンバートン・オークス会議以降、国連憲章ができる過程で大国による安保理拒否権が設けられ、それへの対抗措置として集団的自衛権という概念はつくられてきた、すなわち極めて政治的に生み出された概念であることは明白だからだ。

 この観点に立てば、個別的自衛権から集団的自衛権へと踏み出すことの意味は、単なる防衛行動の量的拡大ではなく、次元の異なる選択肢への移行と言っていい。首相は個別の事例を掲げて日本国民を守るための集団的自衛権の行使容認と強調するが、まぎれもなく集団的自衛権とは「他衛」のための概念である。自国が攻められてもいないのに、他国同士の戦争に参加する、それが本質であることは疑いようがない。それだけ戦争に巻き込まれる確率は飛躍的に高まる。

 では、なぜ首相は「集団的自衛権」に執着したのか。

 浅井氏はこの著作で、米国の永年の要請の結果であったと強調する。米ソ冷戦の終結とともに、米国は「脅威」の相手を求めて「アジア」に戦略をシフトする。「敵」は「ならず者国家」から「中国」へと移る。

 こうした情勢変化を背景に、著者は2000年のアーミテージ報告、2001年の米シンクタンク「ランド研究所」の「アメリカとアジア」を詳細に紹介する。そこには既に日本の憲法改定要求への言及がある。むろん、集団的自衛権の行使容認へ向けた憲法改定要求である。

 冷戦終結とともに、日本自体が他国から侵略されるというシナリオはほぼなくなった。むしろ、脅威立脚型である米国の戦略は、中国を仮想敵としてアジアにおける中国包囲網をどうつくるかに腐心しており、その延長線上で日本が軍事的に動くことを期待する。そのためにこそ、集団的自衛権が行使できる国・日本が求められている。裏返せば、米国の軍事同盟国である日本が米国と一体の存在として動けば、それだけ中国は軍事費を余計に振り向ける必要がある、ということでもある。

 浅井氏も著書の中で触れているが、集団的自衛権という言葉は国連憲章で初めて使われた。その意味では、国家が本来的に備える概念ではない。その本質は「他衛」であり、それを「自衛」と言いくるめようとすれば、本来的に無理がある。

 以上のことから「集団的自衛権」は自然権でないことは分かる。では「国家が本来持つ」権利なのか。確かに、国連憲章51条には個別的自衛権、集団的自衛権ともに「国家固有の(inherent)権利」とある。しかし、これは国連安保理が常任理事国の拒否権行使によって機能しないことを見越したうえで、大国が特殊な利害を持つ地域に対して戦争をする「自由」を確保するために設けた条項であると、著者も明確に指摘する。そのことはベトナム戦争やアフガン侵攻など、集団的自衛権がその後どのような使われ方をしたかを見れば、一層明確になる。

集団的自衛権と日本国憲法 (集英社新書)

集団的自衛権と日本国憲法 (集英社新書)

  • 作者: 浅井 基文
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2002/02
  • メディア: 新書

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