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「斬る」という行為の向こうに何が見える~映画「斬」 [映画時評]

「斬る」という行為の向こうに何が見える~映画「斬」

 

 時は幕末。舞台は江戸近郊。といっても、これらは特に意味をなさない。幕末期でなくても、江戸から遠く離れた地でもよかった。銭湯の書き割りのように淡景として存在するだけだ。

 都築杢之進(池松荘亮)は何者かにならんとして、農家に居候している。時折、村の若者市助(前田隆成)に剣術を教えていた。市助の姉ゆう(蒼井優)はそれを見守っている。そこへ剣の達人沢村次郎佐衛門(塚本晋也、監督も)が現れた。次郎左衛門は「大きなことをなすため」江戸へ上がり、京へ向かうといい、腕の立つ杢之進を誘う。

 村には野武士の集団が出没。ささいなことで市助が殺される。杢之進が仇を討ちに向かうが、彼はまだ人を斬ったことがない…。

 杢之進は、次郎佐衛門の誘いに対しても煩悶する。自分は、人を斬れるのか。

 戦国時代の戦場(いくさば)での剣さばきは、我々が想像するものとは違っていたと、どこかで読んだことがある。「引き切り」や「突き刺し」が戦場での剣の使い方で、桃太郎侍が舞いを舞うように剣を振るっても、人は殺せないという。相手が鎧兜で身を固めていればなおさらだ。戦場で必要なのは鮮やかな剣さばきではなく、確実に殺す技術なのだ。

 塚本晋也監督作品には「野火」がある。フィリピン・レイテ島。敗走する日本兵。飢餓の中で生死をさまよう。極限状況の人間を描いた大岡昇平の小説を映画化した。今回の「斬」も、底流はつながる。生と死が紙一重の、剣と剣の闘い。その場をどう生きのびるか。舞台こそ江戸末期に移されているが、描かれたのは同じ「戦場」と「人間」である。そうしてみれば、冒頭に書いたように時代や地理的設定が「淡景」に過ぎないことの意味がわかる。そして、徹底的に「人を斬る」ことの迫真性、皮膚感覚に迫る。そのためにハンディカメラが多用される(ここも「野火」と同様)。「斬る」という行為を描くことで、人間という存在の根源が垣間見えるかもしれないからだ。

 塚本晋也が監督、主演のほか製作、脚本、撮影を兼ねる。


斬る.jpg

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