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タブーなく「戦後」を問い直した労作~濫読日記 [濫読日記]

タブーなく「戦後」を問い直した労作~濫読日記

 

「検証『戦後民主主義』わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか」(田中利幸著)

 

 「戦後」を「平和と民主主義の時代」と言ってしまうとき、わたしたちは何か割り切れないものを精神のどこかに抱えていることに気づく。確かに、今は「戦争をしていない」という意味では「平和の時代」なのかもしれない。しかし、この平和がどこから来たのか、その由来について、あるいは思想的裏打ちについて、わたしたちは語ることができない。同じことが「民主主義」についてもいえる。何かを置き忘れたまま、あるいは何かを徹底的に問い詰めないまま、私たちは「戦後」という時代を生きてしまっているのではないか。

 もし、あなたが上記のような思いを心のどこかに抱えているなら、この「検証『戦後民主主義』」を読んでみることだ。あらゆるタブーが取り払われ、「戦後」という時代の再構築が試みられている。入り口は「戦争責任」であり、主なキータームは天皇制、空爆と原爆、憲法である。

 著者はまず、近代日本の戦争史を振り返る中で天皇がどれほどのかかわりを持ったかを追及する。当たり前だが、天皇は陸海軍の統帥権の頂点にあったのだから本来、責任は免れようがない。事実、日本の敗戦時には米国を除く連合国軍の形成国は天皇の戦争責任追及を構えていた。寸前で食い止めたのはGHQのマッカーサー最高司令官であった。背景には、ソ連という新たな敵を見すえての、国家総動員体制の継続・維持があった。そのためのリモコン装置として天皇制継続がもくろまれたのである。

 ここから、戦後憲法において第1条(天皇制)盛り込みのために第9条(戦争放棄)が不可欠だったという、いわゆる1条・9条セット論が展開される。軍国主義の象徴的存在である天皇を生きのびさせるためには、日本の軍備の完全放棄を宣言することが避けられなかったのだ。

 こうして、政治的思惑から天皇制は憲法に盛り込まれた。民主主義社会実現のための要請からではなかった。それゆえ民主主義の理念と天皇制は激しく矛盾する。そのことは著者の指摘の通りである。

 著者は永年、米軍が日本に加えてきた空爆の事実検証を行ってきた。紙と木でできた日本家屋を壊滅させるための有効な手段としてナパーム弾が開発され、空爆のための「空の要塞」B29を大量生産し、100を超す都市で火炎地獄が展開された。犠牲になったのは直接、米国へ被害をもたらすとは思えない一般市民である。こうした攻撃を可能にしたのは総力戦の思想、もしくは戦略爆撃の思想であった。これは米国の加害責任として問われるべきだが、その先駆けとなった日本、ドイツの空爆の歴史にも追及のメスは向けられる。その意味では、原爆も空爆も同じ線上にある。ところが、原爆については「被爆者」はいるが投下責任を問う声は驚くほど少ない。このことは、オバマ米国大統領が2016年5月に広島を訪れた際の「惨状」を見れば明らかである。

 原爆については、「平和のための聖なる犠牲」という論理展開に、小田実の「戦敗国ナショナリズム」という概念によって異議を唱えた。「平和への犠牲」とは、いまも広島を覆う精神風土を言い表す言葉だが、背景には戦争の肯定化がある。小田が言う通り、空爆によっても原爆によっても、死んでいったものは犬死であり「難死」だという認識から戦後思想は出発すべきものなのだ。

 戦後の日本は「一億総ざんげ」、即ち、すべての国民に責任がある、言い換えれば、だれも責任を負わないという形でスタートした。その頂点に「人間天皇」がいた。不思議なことに天皇は「加害責任」の頂点から「一億総被害者」の頂点へと、その位置を移したのである。この立ち位置はいまも続いている。

 「戦後」に関する著者の論理展開は、実に多岐にわたっている。とてもすべてを紹介しきれない。これ以上のことを知りたい、あるいは考えたいと思う人は是非一読願いたい。労作である。

 三一書房、2800円(税別)。

 


検証「戦後民主主義」 (わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか)

検証「戦後民主主義」 (わたしたちはなぜ戦争責任問題を解決できないのか)

  • 作者: 田中 利幸
  • 出版社/メーカー: 三一書房
  • 発売日: 2019/05/13
  • メディア: 単行本

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