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満洲国の総括=葬式は誰が出すのか~濫読日記 [濫読日記]

満洲国の総括=葬式は誰が出すのか~濫読日記

 

「キメラ―満洲国の肖像」(山室信一著)

 

 赤坂憲雄著「北のはやり歌」は、なぜか「北」を目指す歌謡曲の謎を追っている。その代表格ともいえる「北帰行」も当然、俎上に載せられている。旅順高の寮歌が元歌で、作詞者が幼少期を過ごした満州を故郷として偲んだ、といわれる。ただ、小林旭が歌った「北帰行」とは、1番を除いて詞が大幅に組み替えられている。それでも赤坂は、この歌に「近代の裂け目」を見る。

 ―日本の近代にとって、もうひとつの「北」がそこに見え隠れしていることを忘れてはならない。満州国という名の、もうひとつの「北」である。

 「北」の持つ冷涼で寂寂としたイメージには、傷ついた心を癒す何かが含まれている、という赤坂は、ここで「満州」を重ねる。知的デカダンと反抗の末に「北」への望郷歌を生み出した旅順高生・宇田博にとって、「満州」とは何だったのだろう。

    ◇

 1932年に中国東北部に登場、13年後に姿を消した「満洲」は、今も我々日本人に一筋縄ではいかない感慨をもたらす。軍部の策略によってもたらされた傀儡国家であり、日本の近代が行きついた植民地政策の象徴でもあった。そこには、抜きがたいアジア民衆への差別感情があり、それとは裏腹に西欧文明社会にはなかった「王道楽土」の理想主義があった。これを、軍部の暴走という一言で葬り去るのは簡単である。事実、戦後思想は「満洲」を黙殺してきた。

 「キメラ―満洲国の肖像」は、こうした「満洲」の姿かたちを余すところなく掘り下げた一冊である。満蒙の権益をめぐる日ロの争い、領有論と独立国家建設論、石原莞爾の「世界最終戦論」。五族協和を掲げ、王道楽土=資本主義でも社会主義でもなく、反政党政治による新天地建設。しかし、近代国家は中国の民には果たせない、という決定的な民族差別が苛烈な階層社会を形成したという。

 石原莞爾はある座談会で、一人の中国人の言葉に感銘を受ける。于沖漢の保境安民・不養兵主義である。しかし、中国東北部に争いも差別もない社会を築く、という目標は、日本人絶対優先思想の中で崩れ、兵を持たないという思想は対ロシア戦線の防御は関東軍に任せる、ということでいずれも絵に描いた餅になった。

 こうした中で山室は、一人の日本人ジャーナリストを紹介している。橘樸(たちばな・しらき)。魯迅が「中国人よりも中国のことを知っている」と評した。中国民衆に無限のエネルギーを感じ、平等主義・対等主義を唱えた。その橘でさえ、反資本、反政党を鮮明にした関東軍に夢を託した。満洲事変をアジアと中国民衆の解放と捉えた。それは、貧困にあえぐ日本改造の契機としたのである。橘でさえ、日中非対等の罠に陥ったのである。

 満洲居留民は4千万人といわれた。しかし、滿洲国民は一人もいなかった。国籍法がなかったからである。なぜか。山室は、国籍法を阻む日本人の心情があったのではないか、と推測する。

 「増補版のためのあとがき」で、山室は「日本国家は満洲国の葬式を出していない」とした竹内好の言葉を紹介している。この言葉は、いまも重いように思える。

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 「キメラ」とは、複数の遺伝子構造を持つ生き物のことである。もともとは、ギリシャ神話に登場する動物を称した。頭はライオン、胴体は羊、しっぽは毒蛇(山室は著書の中で「しっぽは龍」としている)。もちろん、さまざまな思惑の中で人工的に作り上げられた満州国を指している。頭のライオンは関東軍、胴体は天皇制を指すとすれば、しっぽは清国の末裔溥儀を指す。その意味では、しっぽは蛇より龍が似合っている。

(「満洲」は冒頭「北のはやり歌」の部分を除き、「満州」とはせず山室の著書の表記に従った)

 中公新書、960円。

 


キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)

  • 作者: 山室 信一
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 新書

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