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冷戦下、若者の「理由ある反抗」~映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」 [映画時評]

冷戦下、若者の「理由ある反抗」~

映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

 

 ベルリンの壁ができる5年前、1956年の東ドイツで起きた事件を題材にした。

 1956年がミソである。ハンガリー動乱の年。その3年前にスターリンが死去した。鉄の規律が緩み始め、民主化運動の狼煙が東ヨーロッパに上がった。ソ連軍によって鎮圧され、民衆数千人の命が奪われたとされる。1960年代半ばに発表された高橋和巳著「憂鬱なる党派」でも「ハンガリー動乱」や「スターリンの死」が、暗鬱な時代の象徴として登場する。

 しかし、亡くなった民衆は犬死ではなかった。1989年にベルリンの壁が崩壊した時、東ドイツ→ハンガリー→オーストリアという西側への有力な脱出ルートを形成する礎となった。

 映画に戻る。スターリンシュタットのある高校、進学コースにいる生徒たちが主人公。大学を出て党のエリートとして育てられることが約束されていた。その一人テオはある日、祖父の墓参と称して親友のクルトと西ドイツを訪れた。帰途、映画館に入った二人は、ニュース映画に衝撃を受ける。ハンガリーで民主化を求め民衆が蜂起、多くの命が奪われたというのだ。

 東ドイツに戻った二人はこのニュースの詳細を知ろうと、クラスメートのおじさんエドガーのもとを訪れる。そこで、西ドイツのラジオ放送RIASを聞くことができた。ソ連軍によって数百人の命が奪われたこと、有名なサッカー選手が亡くなったことなどが報道されていた。

 教室に戻ったクルトは級友に、ハンガリーの民衆のために2分間黙とうすることを提案する。「反革命だから許されない」という反対意見がある中、20人中12人の賛成で受け入れられた。直後の授業で黙とうは決行され、驚いた教師は校長に対処を求める。校長は不問に付す考えだったが、ほかの教師の密告によって郡学務局の知るところとなり、ついには国民教育相までが乗り出した。

 黙とうはハンガリーのためではなくサッカー選手のため、とクルトらは口裏合わせを図ったが、執拗な調べの中で事実が明らかになり、首謀者を出さねばクラスそのものを閉鎖すると最後通告を受ける。東ドイツでエリートとしての人生を歩むか、労働者として一生暮らすかの二者択一の問いであった。そこで、クルトらがとった行動は…。

 描かれたのは、自由な発想と意見が受け入れられない牢獄のような社会である。そして、印象的なのは、主人公である若者たちを取り巻く大人たちの背後にある「過去」である。テオの祖父がナチの武装親衛隊であったこと、テオの父親もかつて暴動に参加し、再起の機会を与えられていたこと、級友の一人の父が赤軍の英雄とされていたが、実は裏切者であったこと、市議会議長であるクルトの父が、実は密告者であったこと…などである。そうした過去が大人たちを縛り、血の通わない社会を作り上げてきたことを、クルトやテオは知る。ちょうどハンガリー動乱の前年、1955年には米国でジェームス・ディーンの「理由なき反抗」が封切られたが、さしずめこの「僕たちは―」で描かれたのは「理由ある反抗」というべきものだろう。

 なお、邦題はいかにも第三者が後付けでつけた印象がある。もし当時の時代に寄り添うのであれば、ドイツの原題「沈黙の教室」もしくは英語のタイトル「沈黙の革命」がふさわしく思える。

 2018年、ドイツ。

 


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「家族」という船に乗り合わせて~映画「長いお別れ」 [映画時評]

「家族」という船に乗り合わせて~映画「長いお別れ」

 

 年金のほかに2000万円の資産形成がいるとかいらないとか、議論がかまびすしい。しかし、もっと切実な問題がある。高齢化社会の進展に伴う、認知症患者の増大である。内閣府の調査では、2025年には65歳以上の5人に1人がなると見込まれている。映画「長いお別れ」は、この問題に焦点を当てた。

 70歳を迎えた父が、少しずつ記憶を失っていく。妻や娘を認識しなくなり、日常生活も困難になっていく。そんな父を、妻や娘はなおも父として認め、支えようとする。しかし、症状は加速度的に進み、ついに旅立ってしまう。そんな切ない、7年にわたる物語である。描かれたのは、家族という船に乗り合わせた者たちの情感と、それに基づく「つながり」である。それを「絆」と呼んだり、「共同体」と呼んだりするのは適切かどうか分からない。少し違っているようにも思える。

 厳格な教育者で、中学校の校長まで勤めた東昇平(山崎努)はこのところ認知症が進んでいる。妻の曜子(松原智恵子)は、相談のため娘を呼び寄せる。

 長女の麻里(竹内結子)はアメリカで夫・今村新(北村有起哉)と息子・崇(杉田雷麟、蒲田優惟人)とともに暮らしていた。1年以上たっても英語がうまくならない麻里は周囲とのコミュニケーションに悩む。研究者の夫は徹底した自己責任論者で、崇の不登校に悩む麻里に、クールな感想を漏らす。

 二女の芙美(蒼井優)は外食の店を開こうとするが、うまくいかない。バツイチの男性と付き合っていたが、ある日、別れた妻子との水入らずのシーンを目にして疎外感に陥ってしまう。

 娘二人が抱える問題は家族としての情感のつながりの希薄さに由来している。その二人と妻の曜子が、父の認知症という待ったなしの問題に直面し、何を感じて何を得るかを見つめた。

 山崎努の怪演は予想通りだが、閉塞感漂うモラトリアム状況の中の生き様をさりげなくナイーブに演じた蒼井優も評価したい。「彼女が知らない鳥たち」での複雑な内面の表現が思い起こされる。記憶を失い、徐々に家族から離れていく昇平と、悩みながらも家族から自立していく崇の背中がオーバーラップするラストシーンが印象的だ。

 原作は「小さいおうち」の中島京子。監督は「湯を沸かすほどの熱い愛」の中の中野量太。「小さいおうち」と同様、表面のほのぼの感の内側に何やら重いものを感じさせる秀作。

 

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壮絶なバトルの語り口を観る~映画「主戦場」 [映画時評]

壮絶なバトルの語り口を観る~映画「主戦場」

 

 アジア・太平洋戦争での、いわゆる「慰安婦」問題をめぐる左右の論争そのものを取り上げたドキュメンタリーである(ここでは「慰安婦」にカギかっこをつけた。慰安とは被害に遭った女性ではなく加害の側である日本軍に立った視線であることをはっきりさせるためだ)。

 出演した保守派の人たちは「歴史修正主義」のレッテルを張られたことに抗議し上映中止を求めているようだが、観た限りでは意図的・主観的な編集作業は見受けられなかった。「慰安婦」問題についての論点と、それに対する主張がまんべんなく盛られ、むしろ控えめな演出ではないかとさえ思った(マイケル・ムーアの「華氏119」と比べてみよう。その差が分かる)。

 ただ、「慰安婦」というテーマに沿って左右の論客30人近くを登場させ、主張とともに表情、語り口を追った2時間余りは間違いなく壮観であった。慰安婦=性奴隷とする歴史観を真っ向から否定する杉田水脈、藤田信勝、櫻井よしこ、ケント・ギルバート。これに対して実証的な立場から問題の本質を探る吉見義明、林博史、中野晃一、俵義文。そして「慰安婦」問題にかかわったことからバッシングに遭った元新聞記者植村隆の証言。むろん、この人達の持論については何冊かの著書を読んでいるが、映像であらためてその語り口を含めて観ると、ずいぶん多くの発見がある。

 特に驚いたのは日本会議のバックボーンである加瀬英明のインタビューだった。外交官を父に持ち、外交評論家として知られるが「人の書いた本は読まない」と傲然と言い放つその姿勢は、あきれるほかない。杉田水脈の場当たり的な発言にも、的確な事実を重ねてダブルスタンダードぶりを明らかにした。

 新事実や新しい主張が出てくるわけではないが、「慰安婦」をめぐる壮絶なバトルの連続は見ていてあきない。「慰安婦」問題についての一定の知識を持つ人は思考の整理のために、あまり知識を持たない人は入門編として見ることをお勧めしたい。日系アメリカ人ミキ・デザキの初監督作品。

 

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重いテーマを軽やかに~映画「天国でまた会おう」 [映画時評]

重いテーマを軽やかに~映画「天国でまた会おう」

 

 第一次世界大戦(191418年)は、歴史上初めて機械化された戦争として知られる。19世紀の英国産業革命による内燃機関の発達から戦車、航空機が兵器として登場、空中窒素固定法(ハーバー・ボッシュ法)によって爆薬の大量生産が可能になった。この結果、戦線は長大化し、砲撃が苛烈を極めた。対する戦術は塹壕を掘り、突撃を繰り返すだけだった。兵士の肉体を防御するものは何もなく、戦場は惨状を極めた。ここからレマルクの「西部戦線異状なし」が生まれた。

 第一次世界大戦の、生死が紙一重という地獄の体験に基づく映画が「天国でまた会おう」である。テーマはとても重いが、フランス映画らしい洒脱なストーリーのはこびで、一面では娯楽性のあるものになっている。

 モロッコの憲兵隊にとらえられたアルベール(アルベール・デュポンテル)は、友人のエドゥアール(ナウエル・ペレ―)との詐欺事件について語り始めた。それはドイツとの戦線での出来事が発端だった。

 砲撃にさらされた塹壕で恐怖に耐えるアルベールとエドゥアール。前線の指揮官プラデル中尉(ローラン・ラフィット)は、別の二人の兵士に偵察を命じた。しかし、塹壕を出たとたん、狙撃され倒れる。突撃を命じられたアルベールは兵士の死体を見て、銃創が背後からであることを知る。プラデルに撃たれたのだ。おそらく、ドイツへの敵愾心を煽るためであろう。

 その後、アルベールは穴に落ち、生き埋めになりかかる。間一髪、助けたのはエドゥアールだった。しかし、救出作業中のエドゥアールを至近弾が襲い、顔面の下半分は吹き飛ばされる。病院のベッドで無残な我が顔を見たエドゥアールは、絶望の淵に追いやられる…。

 戦争が終わり、固い絆に結ばれた二人。生きる意欲をなくしたエドゥアールは戦死を装い、痛み止めのモルヒネを打ちながら戦場で観たものを絵に描いていた。才能には目を見張るものがあったが、平凡な図柄ばかり。いぶかしむアルベールに、詐欺の企てを話し始めた。

 兵士追悼の記念碑計画を持ち掛け、資金だけをもって逃走する。そのためには芸術的な絵より一般受けする方がいい。ある資産家が標的に選ばれた。まんまと架空の慰霊碑建立計画をでっち上げ、15万フランを手にした。逃亡先はモロッコだ。

 顔面に醜い傷を残すエドゥアールは、いつも仮面をかぶっていた。美しいもの、ユーモラスなもの、さまざまである。もちろん、仮面のデザインはストーリー展開と密接に絡んでいる。

 そしてここから、人間関係の謎が解き明かされる中でストーリーは結末へ向かう。資金をだまし取られた大富豪はエドゥアールの父マルセル(ニエル・アレストリュブ)だった。彼は慰霊碑計画のために送られてきたデッサンと、エドゥアールの戦死を告げられた際に手渡された絵の共通性を見抜き、ひそかに潜伏先を探していた。捜索役は、娘婿であるプラデル、あの戦場での中尉だった…。

 これ以上書くとネタバレになってしまう。冒頭に書いたように、重くなりがちなテーマを切れ味のある演出と、エドゥアールの洒落た仮面で軽やかな味付けにした。どんでん返しの結末も、救われる思いがする。監督は、アルベールを演じたアルベール・デュポンテル。2017年、フランス。米国や日本ではこんな風には作れないだろう、と思える作品である。

 

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思いがけず知る権力の蜜の味~映画「ちいさな独裁者」 [映画時評]

思いがけず知る権力の蜜の味~映画「ちいさな独裁者」

 

 1945年4月のドイツ。ということは、敗戦まで1カ月の戦線。軍紀は乱れ、脱走や略奪が横行していた。ヴィリー・ヘロルト(マックス・フーバッヒャー)も命がけの脱走を試みる。その最中、路傍に打ち捨てられた軍用車内に将校の軍服を見つける。着てみると、小柄なヘロルトにはズボン丈が余った。

 階級章から、軍服の持ち主は大尉のようだ。そのときから、ヘロルトは大尉に成りすます。訪れたのは脱走や略奪を行った兵を収容する犯罪者収容施設。軍紀の乱れから収容者が溢れかえり、対応に困っていた。総統の命を受け前線の状況を視察している、と嘘をでっち上げたヘロルトは思いがけず権力者の蜜の味を知る。

 収容された兵90人を問答無用で処刑したヘロルトは、冷酷無慈悲であるが有能な将校と周りから見られた。そのままヘロルト親衛隊を結成、権力を意のままに操る…。

 軍服とともに手に入れた「借り物の権力」を武器に独裁者へと成り上がるさまを、処刑シーンも含めて映画は徹底的にリアルに描く。ここで、例えば喜劇タッチにしてみたり、教訓めいたものを抽出したり、という作業は行われない。実話に基づくというストーリーは、驚愕の、というより奇跡に近い。

 映画の後半、ヘロルトが実は上等兵であったことが明らかになる。想起されるのは、ヒットラーが政治の表舞台に躍り出た時「ボヘミアの上等兵」と侮蔑を込めた視線で語られた逸話だ。正統性を持たない権力者が歴史の舞台で成り上がる。そうした意味では、ヘロルトもヒットラーも変わりない、とこの作品は語っているようだ。

 そしてヘロルトが繰り返す数々の蛮行は、ナチズムが持つ「ならず者」の本質に通じているようにも見える。それは、戦中の日本の軍国主義者たちが持ち合わせていたそれに通底するかもしれない。そう考えると、なかなか奥深い映画である。

 2017年、ドイツ、フランス、ポーランド合作。原題「Der Hauptmann」はズバリ「大尉」。監督は「RED レッド」のロベルト・シュベンケ。

 

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普通の日常にこもる悲喜こもごも~映画「希望の灯り」 [映画時評]

普通の日常にこもる悲喜こもごも~映画「希望の灯り」

 

 映画を観るとき、つい山あり谷ありのストーリーを期待してしまう。この「希望の灯り」には、そんなものはない。出てくるのは普通の人ばかりだし、男女のきわどい恋愛沙汰があるわけでもない。日常が淡々と描かれているだけだ。だからといって平板なわけではない。観るものを引き付ける何かがある。その感覚は、たとえばアキ・カウリスマキのようでもあり、小津安二郎のようでもある。

 旧東独ライプチヒ近郊にある大きなスーパー。一人の男が働き始める。無口で背中にはタトゥーが入っていた。在庫管理が、この男クリスティアン(フランツ・ロゴフツキ)に与えられた仕事である。フォークリフトの操作から覚えなければならなかった。飲料セクションのブルーノ(ペーター・クルト)に、一から教えてもらう。幸い、彼は人情味ある男だった。

 ある日、ブルーノは東独時代のことを話し始めた。スーパーは元々運送会社で、彼も長距離トラックの運転手だった。「あのころはいい時代だった」と回想するブルーノ。

 そのうち、菓子売り場のマリオン(サンドラ・フラー)と仲良くなった。彼女は所帯持ちだった。恋心を抱きつつも、クリスティアンにはどうすることもできなかった。そのうち勤務時間帯が変わり、マリオンは離れていった。荒廃した心を抱えてクリスティアンはかつての悪友との交友を再開、泥酔してしまう。

 見かねたブルーノは、クリスティアンを自宅に呼び、少年時代に悪事を重ね刑務所にいたことを聞きだす。しかし、ブルーノは「お前はいいやつだ」「みんなもそう思っている」と励ます。こうしてクリスティアンは、スーパーの仕事に戻っていく。

 そこへ、悲しい知らせが入った。ブルーノが自殺をしたのだ。

 ブルーノに代わって飲料セクションの責任者になったクリスティアンは、わずかな希望を胸に働き始める…。

 作品全体のトーンは、悲しみである。冷戦の終結、東西ドイツの統合、こうした歴史の歯車にほんろうされて人々は生きていかねばならない。しかし、どうにもならない過去を嘆くより、目の前にある日常を誠実に生きることで希望を見出す。そんな心象風景が描かれる。

 東独時代を「いい時代」ととらえ、いまを生きる希望を見いだせないブルーノ。不良少年から再起の道を歩むクリスティアン。夫の暴力に耐えながらも、瀟洒な住宅に住むマリオン。誰が勝者で誰が敗者か。そんなことも考えさせる人間の配置図。一見さりげなく、実は奥深い。

 2018年、ドイツ。原題は「In den Gangen(通路で)」。スーパーの通路で展開される普通の人たちの人生模様を描いた、ということだろう。味わいがある。

 

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「イラク開戦」に疑問を投げかけた少数者~映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実」 [映画時評]

「イラク開戦」に疑問を投げかけた少数者~

映画「記者たち 衝撃と畏怖の真実」

 

 米国メディアといえば、ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙、あるいはAP通信などが知られる。ナイト・リッダーはその中で、あまり知られていない存在だ。自らは「紙」を持たず、地方紙31社に記事を配信する通信社的な機能を持つ。地方紙の側は、APなど大手の通信社と比較しながら記事掲載を判断する。あくまでも編集権は掲載紙の側にある。

 イラク開戦の契機となったのは、9.11後にもたらされた亡命イラク人による誤った大量破壊兵器(生物化学兵器)製造情報(カーブボール)だった。これが核兵器製造疑惑に発展し、ブッシュ大統領が開戦を決断した。チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官らも世論の醸成に加担したことは知られるところである。

 ホワイトハウスはこの時、NYタイムズにウラン濃縮用アルミ管がイラク国内で見つかったとリーク、同紙がこの情報を掲載したため、一気に核兵器製造疑惑が広がった。Wポストなど有力紙も追随した。しかし、ナイト・リッダーだけは、情報の信ぴょう性を疑った。「真実かどうか。裏がとれなければ書かない」という基本姿勢を貫いたのだ。

 ワシントン支局に駐在するジョナサン・ランデー(ウッディ・ハレルソン)とウォーレン・ストロベル(ジェームズ・マースデン)の絶妙コンビで進められる取材は「大統領の陰謀」のボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインを思わせる。この時の編集主幹ベン・ブラッドリーに当たるのが編集のボス、ジョン・ウォルコットで、なんと監督のロブ・ライナー自身が演じている。

 米国内でけっしてA級ではないメディアが四方からの批判にさらされながらもジャーナリズムの基本を守り、真実の報道に徹したイラク開戦の内幕を、高ぶることなく追ったドキュメンタリー風ドラマ。日本のメディアにこのようなことができるか、と自問してみると米国メディアの志の高さが伝わってくる。記者たちの熱意にもかかわらず米国世論の主流とはならなかったイラク大量破壊兵器疑惑への「異議」を、こうして映画化したことの意味は大きい。来日会見で「民主主義が機能するためにジャーナリズムは必要」と語ったロブ・ライナー監督の言葉が重い。

 2017年、米国。


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事件から半世紀、謎は謎のまま~映画「眠る村」 [映画時評]

事件から半世紀、謎は謎のまま~映画「眠る村」

 

 名張毒ぶどう酒事件を取り上げた東海テレビのドキュメンタリー映画。三重と奈良の県境にある集落、葛尾。1961年、ここで事件は起きた。村の懇親会(両県の最初の一文字をとって「三奈の会」)でぶどう酒を飲んだ女性5人が死亡したのである。6日後、村の奥西勝が犯行を自白、逮捕された。

 しかし、奥西はその後、犯行を否認、津地裁は無罪判決を下した。名古屋高裁は一転、死刑判決。最高裁もこれを支持し、死刑が確定した。2005年、高裁で再審開始決定が出たが翌年、取り消された。奥西は2015年、八王子医療刑務所で死亡。死後も含め、10次にわたる再審開始請求が出たが、ついに再審の門は開かなかった。

 物証はほとんどない事件といわれた。そんな中で、いくつかの新証拠が出た。奥西はぶどう酒入りの瓶の王冠を歯で開けたと自供したが、その後の鑑定では奥西の歯型と違っていた。瓶の口の封冠紙は一度はがされ、製造時とは違う糊で貼られていたことも分かった。「農薬を会場で入れた」という自白内容を揺るがす材料だった。入れたとされた農薬の成分も、鑑定では検出されなかった。

 疑問はまだある。ぶどう酒の購入時刻である。当初、購入は午後2時過ぎとした証言は奥西の逮捕後、会が始まる直前の午後5時ごろに変わった。当初の証言通りだと約3時間、ぶどう酒は三奈会の会長宅に置かれたことになる。なぜ証言は変わったのか。

 謎は依然、謎のままである。

 そして最大の謎は、なぜ司法は後に奥西が否認した当初の自供にすがって死刑判決を出し、その後の新証拠に目もくれなかったか、である。

 「奥西しかいない」とつぶやく村人。無念の表情を浮かべる奥西の妹、美代子。重苦しい沈黙の底に眠る村、葛尾。しかし、ここで仲代達也のナレーションは、明らかに司法に向けられている。「眠る村」とは…。非科学的な自供にすがり、科学的な証拠に目をつぶる司法のことだ、と。
 2018年、ドキュメンタリーの王道を行く作品。


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天皇制の負の側面を描く~映画「金子文子と朴烈」 [映画時評]

天皇制の負の側面を描く~映画「金子文子と朴烈」

 

 取り調べ中の二人が仲良さそうに収まるという奇怪な写真で記憶に残る朴烈と金子文子。二人の出会いと別れを描いた韓国映画である。原題は「Anarchist from the Colony(植民地から来たアナキスト)」。「日陰から日向は見えるが、日向から日陰は見えない」という。この場合、抑圧された側からは抑圧する側の醜悪な姿が見えるものだ、と解することができるが、映画の出来は思ったよりマイルドだった。朴烈の思想に理解を示す日本人弁護士(布施辰治=山之内扶)や、権力の横暴ぶりに懸念を持つ判事(立松懐清=キム・ジュンハン)を配して、公正な視点を保つ努力が見えるからだ。

 朴烈(イ・ジェフン)は朝鮮人差別に耐えながら詩を書いている。そんな詩を読んで「この人しかいない」と思った文子(チェ・ヒソ)は、出会うなり同棲を申し出る。二人は、思想的な同志として暮らし始める。1923年のこと。9月1日、関東大震災に襲われた東京は、不穏な空気に包まれた。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」とのデマが飛び交い、自警団による虐殺が行われた。デマの発信源は内務相の水野錬太郎(キム・インウ)だった。朝鮮人虐殺への国際非難が予想される中、水野は天皇への暗殺計画があったとのフレームアップを企てる。標的に選ばれたのは朴烈だった。

 朴烈は天皇制打倒のため爆薬を手に入れようとしていたが、企ては未完に終わっていた。しかし、日本政府は容赦なく朴列を大逆罪に陥れようとしていた。文子も、「朴を一人で死なせない」と獄につながる覚悟を示した。

 震災直後の不穏な空気の中で、天皇の名のもとに強権が行使され、文子が、すべての権力の源に天皇制があると批判する。これらは、動かしがたい天皇制の負の側面であろう。一方で朴烈と、特に文子の豪胆で快活な権力への闘いぶりが印象的だ。文子を演じたチェ・ヒソは子供のころ、大阪で在日の経験を持つという。それもあってか、日本人を演じてなんの抵抗感もない。快演ぶりに拍手を送りたい。

 大逆罪で死刑判決の後、二人は恩赦で無期に減刑されるが、文子は獄死、朴烈は生きのび、戦後釈放された。戦後の朴烈は反共ナショナリストに転向、さらに容共へと再転向するが、その軌跡をめぐっては毀誉褒貶がある。戦時中は天皇制、植民地主義、帝国主義といった明確な闘いの対象があったが、戦後はそれが見えなくなった、ということか。それとも、ナショナリストという太い線だけが生きざまの導線であったということか。映画では触れていないが、気になるところである。

 

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原作に忠実だが、原作とは別物~映画「ナチス第三の男」 [映画時評]

原作に忠実だが、原作とは別物~映画「ナチス第三の男」

 

 世界的なベストセラー「HHhH プラハ、1942年」を映画化した。ローラン・ビネが描き出したナチ高官ラインハルト・ハイドリヒのプラハでの暗殺事件を、ほぼそのまま映像にした。しかし、ビネの原作の価値はストーリーテリングでなく虚実入り混じった複雑な文体にある以上、ビネの原作とセドリック・ヒメネス監督の映像作品は別物と判断したい。

 ハイドリヒ(ジェイソン・クラーク)はユダヤ人「最終計画」の策定者として知られ、ヒムラーの危険な右腕と恐れられた。それゆえに、ベーメン・メーレン保護領(ボヘミア・モラヴィア=現在のチェコ)の副総統に赴任した際には、在英の亡命チェコ政権の標的とされた。しかし、ヒットラーに「鉄の心臓を持つ男」と呼ばれたハイドリヒは、プラハの街をオープンカーのメルセデスで傲然と、時には護衛もなく走った。

 英国からひそかに送り込まれたヤン・クビシュ(ジャック・オコンネル)とヨゼフ・ガブチーク(ジャック・レイナ―)は、東方の三博士と呼ばれたレジスタンスの大物たちと連携、暗殺計画を実行に移す。しかし、スパイ映画やよくある戦争もののようにカッコよくは進まない。メルセデスの前に立ちふさがり、引き金を引いたが機関銃はうんともすんとも言わず、車の後方から投げた爆弾はわずかに標的をそれる。

 それでもハイドリヒは担ぎ込まれた病院で息を引き取る。その後は、ドイツ軍によるあらしのような報復作戦が始まる。この中で、犯人隠匿が疑われたリディツェ村の歴史に残る虐殺事件が起きる…。

 クビシュとガブチークらは教会に立てこもり最後の抵抗をするが、このあたりは、映画的に引き立つよう銃撃シーンが原作より派手目になっている。この点を除けば、ほぼ原作に忠実な作りである。しかし、冒頭に書いたように、ビネの原作がストーリーに頼ったものでない以上、映画と原作は別の地平に立っている、といわざるを得ない。

 また、原作では「わたし」という著者自身が介在するため暗殺される側とする側の視座の転換にそれほど抵抗がないが、「リアル」を追求した映像では、視点の位置の変更(二部構成にはなっているが)が気になってしまう。視座は一貫性を持たせるべきだろう。

 原題は、ヒットラーがハイドリヒに与えた名誉ある? 呼称「The Man with the Iron Heart」。2017年、フランス、イギリス、ベルギー合作。ちなみに、ハイドリヒの死後、ユダヤ人絶滅作戦の暗号名は彼への敬意を込めてラインハルト作戦とされた(「HHhH」379P)。

 

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