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「永続敗戦」を近代史に位置づけ~濫読日記 [濫読日記]

「永続敗戦」を近代史に位置づけ~濫読日記

 

「国体論 菊と星条旗」(白井聡著)

 

政治の崩壊と大衆のニヒリズム

 昨今の政治を見て思うことが二つある。それは、「異様」といってもいい状況のことである。

 一つは、あまりにもバカげた言説が国会を中心にまかり通ること。そして、そのことに世論がほとんど無反応であること。

 例えば、愛媛県の報告書で、加計学園理事長が20152月に安倍晋三首相と面会、獣医学部新設構想を説明したところ、首相が「いいね」と答えたとされたが、加計学園側が事実ではないと否定、学園側による作り話だったとしたことなど代表例である。事務方の「思いつき」ででっちあげられたことになっているが、まともに信じる向きがいるとも思えない。加計学園のトップと一国の首相が会ったというフィクションを事務方が口から出まかせにしゃべり、しかも首相のセリフまででっちあげたということがありうるだろうか。メディアの世論調査では「納得がいかない」とする声が7~8割を占めている。当然だろう。

 こんな身内びいきを恥も外聞もなく行う安倍政権は即刻退場を、と世論が思っているかというとそうでもなく、内閣支持率は悪くて3割台の後半、調査によっては4割台の前半である。

 これはいったい、何を意味しているか。

 政治の舞台で繰り広げられる三文芝居に国民は飽き飽きしている、言い換えれば、政治に期待するものは何もない、そういっているのではないか。期待しない分、不支持にも回らない。今の政治・政権は否定するにも値しない。そういっている気がする。大衆の心に宿るのは、究極のニヒリズムである。

 

 対米盲従の異様さ

 もう一つは、現政権の米国盲従路線の異様さである。それは、昨年後半に頂点に達したトランプ米政権の軍事路線傾斜に対して、安倍政権が「100%支持する」と言明したことに象徴される。朝鮮半島有事の際、日本は米国と運命を共にするといったに等しい。なぜそこまで、日本は米国に身も心も捧げなければならないのか。

米国盲従は、原発政策にも表れている。2011年の福島原発事故は日本の国土に修復不能な被害を与えた。事故を契機に日本のエネルギー政策は180度変わるべきであったが、そうはならなかった。3月に経産省がまとめたエネルギー基本計画でも、2030年の電源構成は原発が2022%を占める。これは2011年以前より微減という水準で、ドラスティックな転換というに値しない。少なくとも「脱原発」は選択肢から外された。ここまで原発に縛られている背景には、今夏改定予定の日米原子力協定がある。つまり、米国の意向だ。

長めに今日の政治状況を展開したが、それは白井聡の「永続敗戦論」(太田出版、2013年)の状況認識がピタリとはまると思うからだ。日本の保守勢力は、アジア・太平洋戦争での敗戦を否認(憲法を押し付けとして拒否することもその一つ)することで、敗戦の恒久化を図っている。それは対米従属の永続化につながり、現下の政治の空洞化につながっている。これが「永続敗戦論」の認識だったと理解する。

 

 保守の思想に切り込む

 白井の新著「国体論」も、大枠では「永続敗戦論」と基本的には変わるところがない。新たに付け加えられたのは、平成の終わりに際しての天皇の「言葉」、明治維新から150年という近代史の里程標(メルクマール)という二つの要素である。特に明治150年という里程標は、昭和20年8月15日が時間スケールのほぼ真ん中にあることから(それだけではないが)、「敗戦」を区切りとして前半、後半に分けるという作業が行われ、そこに「永続敗戦論」でも言及があった「国体」概念を基軸に据えながら近代史そのものを再編しなおす、という作業と論考が行われた。

 したがって、「国体論」自体は新たな知見が盛り込まれた、というものではない。戦後体制を、天皇を媒介としたワシントン=国体とする見方も、「永続敗戦論」で言及された。「永続敗戦論」で見せたひらめきを、近代史論の中で全面展開させた、と読むのが正しいように思う。したがって、明治150年を契機としてさまざまに書かれている近代史論の1バージョンと読むのがいいのではないか。

 そんな中で、印象を思いつくまま書けば、北一輝の国体論の位置づけ、三島由紀夫事件の意味、GHQ主権論への言及などが丹念な仕事であったように思う。中島岳志によるアジア主義、超国家主義の見直し作業が近年行われているが、保守の思想に切り込んだ白井のこの仕事もまた、同様の評価が与えられてしかるべきと思う。

 集英社新書、940円。


国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

国体論 菊と星条旗 (集英社新書)

  • 作者: 白井 聡
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2018/04/17
  • メディア: 新書

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まさに柄谷ワールド~濫読日記 [濫読日記]

まさに柄谷ワールド~濫読日記

   

「坂口安吾論」(柄谷行人著)

 

 柄谷行人を「文芸評論家」と形容するとき、何かしらの違和感を覚える。寸足らずの上着を着ているかのような違和感である。彼は、文芸評論家に収まらぬ、哲人、もしくは思想家としての存在に思える。その柄谷が「坂口安吾論」を書いた。果たしてこれは、文芸評論と呼ぶべきか。やはり、そうではないように思う。文芸評論をはるかに踏み越えたもののように思う。坂口安吾(柄谷は、必ずしも「小説家」というカテゴリーではとらえていない)をテーマとした思想論集と呼ぶのが、最もすわりがいいだろう。

 

「堕落」は正当に理解されているか

 

 坂口安吾といえば、代表的な著作は「堕落論」であり、それをもって終戦直後の無頼派の一人と一般的に理解されている。ここで安吾が言う「堕落」とは何か。少し長めに引用する。

 

 日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。

 天皇制が存続し、かかる歴史的カラクリが日本の観念にからみ残って作用する限り、日本に人間の、人性の正しい開花は望むことができないのだ。(略)私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のからくりにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。(「続堕落論」から、「坂口安吾論」から孫引き)

 

 手元の辞書を引くと、堕落とは「まともな道が歩めなくなって悪の道に落ちること。健全さを失って低劣になること」(岩波「国語辞典」)とある。安吾は「からくりにみちた『健全なる道義』」から「真実の大地」へ転落せよといっているのだから、まさしく安吾の説く「堕落」は、一般的な意味とはあべこべである。

 

 では、安吾はどのような「堕落」を説いているのか。柄谷の「坂口安吾論」の肝心な部分もここにある。世間的な常識や一時の皮相な観念を取り払い、人間の根源的な存在の部分にまで降り立ってみる。フロイト風に言えば、無意識的な次元の超自我の世界。おそらくそれを、安吾は「堕落」と呼んでいる。別の言い方をすれば、ラディカル(根底的)な思考こそが必要である、といっている。こうした主張が、終戦直後という時代の風景にマッチし、安吾を一躍、流行作家に押し上げたのではないか。安吾が時代に乗ったわけではなく、時代が安吾に乗ったのである。

 言い換えれば、安吾は「終戦直後」という時代状況が産み出したか、というとそうではない。柄谷がこの「坂口安吾論」を、「日本文化私観」を安吾が戦後に書いたものと誤解していた、という体験から書き始めていることも、そのことと関係している。「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ」という「日本文化私観」で書かれた風景は、終戦直後のそれではなく、戦前の日本の風景に安吾がすでに込めた感慨であったと、柄谷は指摘する。安吾の一時的、皮相的でない、戦前とか戦後とかを問わない、別の言い方をすれば、日本の風景やふるさとにこめた他に類を見ない独自の思想を、柄谷は指摘している。

 

「堕ちきらぬ」戦後思想への絶望

 

 実はここに収められたエッセーは、20年前に書いたものだと、著作の中で柄谷自身が明かしている。ではなぜ今、坂口安吾論なのか。

 「堕ちきるまで堕ちよ」という安吾の言葉に、そしてそこからの新しいモラルの模索に、柄谷自身が今の時代と重ね合わせ、共感する部分が多いからではないか。言い換えれば、上面だけの生半可な救済が横行し、「堕ちきる」ことのない戦後思想にうんざりしているせいではないか。柄谷による、安吾の思想についての根源的な、そして興味深い指摘がある。元マルクス主義者たちとの交友に触れた部分である。安吾の「絶望」の深さと独自性が分かる。

 

 安吾は平野謙や荒正人が弾圧による転向を通してもった「絶望」を最初からもっていたのである。

 

 安吾は、けっして近代的な意味での「小説家」ではなかった。ある作品は小説的エッセーであり、ある作品はエッセー的小説である。ある作品は社会派ファルスであった。しかもその思想は独立峰とも呼ぶべきもので、近代のジャンル分けで特定できるものではなかった。戦前か戦後か、どころか、明治の作家であってもおかしくはなかった。こうした不可思議な安吾という存在を窓口に、フロイトやカント、そしてマルクスを援用した柄谷ワールドが縦横に展開されたのが、この「坂口安吾論」であろう。

 インスクリプト、2600円(税別)。


坂口安吾論

坂口安吾論

  • 作者: 柄谷行人
  • 出版社/メーカー: インスクリプト
  • 発売日: 2017/10/14
  • メディア: 単行本

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「明治維新後論」が必要だ~濫読日記 [濫読日記]

「明治維新後論」が必要だ~濫読日記

 

「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」(加藤典洋著)

 

 「戦後思想」というやつはどうしてここまで薄っぺらで嘘くさいのか。

 

 そう思うのは私だけではないらしい。「敗戦後論」や「戦後的思考」の加藤典洋が、その源流~戦後思想の薄さと浅さの~を探り、一つの手ごたえとして得たのが明治維新以後に見る「わけの分からなさ」であった。「わけの分からなさ」とは何か。それを追究しまとめたのが「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」である。「敗戦後論」にちなめば「明治維新後論」ともいうべきものである。奇しくも今年は維新から150年。

 といっても、冒頭のテーマに沿った文章は全体4部構成のうち最初の章だけである。あとは鶴見俊輔との出会いであったり、水俣病とのかかわりであったりする。その中で、もしあげるとすれば、ヤスパースと日本平和思想のあいだを論じた「戦争体験と『破れ目』」が出色だ。

 

 冒頭のテーマに戻る。第1章は「二一世紀日本の歴史感覚」と題され「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために」と「三〇〇年のものさし」からなる。最初の文には「丸山眞男と戦後の終わり」と副題がつく。

 加藤はまず、若手研究者の一人伊東祐吏の書いた「丸山眞男の敗北」を紹介。戦後思想の構築に大きく寄与した丸山は、前半に比べ後半はほとんど失速した、という伊東の指摘を引く。そこから、こう問いかける。

 ――二〇一七年、なぜ戦後民主主義の思想は世の中の動きに対する抵抗の足場としての力を、ほぼ失い尽くしているのか。(略)退落の、遠い淵源は、丸山の後半の苦しい戦い、その停滞のうちに、顔を見せているのではないだろうか。

 丸山は晩年、「山崎闇斎と闇斎学派」を残した。かなりの努力を払ったとみられるが、評価は芳しくなかった。山崎闇斎は江戸前期の思想家で、幕末期の尊王攘夷思想に影響を与えた人物。加藤はこの論考に、丸山の「尊王攘夷=反時代性」への関心を見てとる。

 明治維新は知られているように尊王攘夷思想を変革のエネルギーとしつつ、維新後は尊王開国へと集団転向を果たした。その過程でいくつかの反乱~例えば西郷隆盛の西南戦争~はあったが和魂洋才、富国強兵をスローガンに「近代化」が進められた。いつしか、その構図は尊王=国権と万機公論=民権の対立構図にすり替わり「攘夷」は抜け落ちていった。

 そこで「攘夷」をもう一度近代日本の形成過程に組み込んでみようというのが丸山の晩年の視点だったと、加藤は指摘する。なぜ、そうした視点が必要か。

 「尊王攘夷」から「尊王開国」への思想の転移(転轍)をきちんと見なければ、それはさらに劣悪化した「尊王攘夷」思想を生み、無意識的な「尊王開国」への転轍を生み出す~まさにそれが「戦後」思想である~からだ、と加藤は言う。この論を展開する上で、加藤は吉本隆明の「内在」と「関係の絶対性」の概念を援用する。

 「攘夷」は内在的エネルギーであるが、国際関係の中での日本の位置を認識すれば「攘夷」を国策とすることはかなう話ではなく「開国」が必然となる。これが「関係の絶対性」である。

 しかし、こうした思想的葛藤は明治維新後に行われなかった。こうして、不十分なままの「明治維新後論」が80年後、劣化した尊王攘夷思想(戦中)と尊王開国思想(戦後)を生み出したと、加藤は指摘する。日本が日中戦争の泥沼に足を踏み入れてさらに80年を経たのが現在である。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」史観はよく知られるところだが、その欠陥もまた今日では広く認識されている。司馬史観では、幕末期から明治期までは日本の近代化が比較的うまく進んだが昭和に入り、軍部の独走によって道を誤ったとする。明治と戦後はよかったが、昭和の前半だけ道を間違えたとする説である。この説も取り上げられ、当然のことながら、明治か戦後か、ではなく明治も戦後も否定されるべきだ、と加藤はいう。

    ◇

 200912月、ノーベル平和賞の受賞記念演説でオバマ米大統領(当時)は「Just War(正しい戦争)」という言葉を繰り返した。日本のメディアと平和運動に携わる人たちは、一斉に疑問の声を上げた。「正しい戦争はあるのか」と。この時の騒ぎを想起させたのが「戦争体験と『破れ目』―ヤスパースと日本の平和思想のあいだ」だった。日本ヤスパース協会の大会での発言を文字化した。

 加藤は二つの発言を紹介する。一人は英国人哲学者エリザベス・アンスコム。原爆投下命令を下したトルーマン大統領(当時)を批判して、ほかに手段があるのに原爆を投下したのは「謀殺」(自分の目的の完遂のために人を殺害する)に当たるとしたうえで、ユダヤ人絶滅政策のような極限的な「不正」をただすための戦争は許容される、と主張した。正しい戦争とそうでない戦争があるから、正しい戦争手段と不正な戦争手段があるのであり、戦争がすべて「悪」であるなら、戦争行為としての原爆投下は「相対的な罪」を問われるだけだ、という論である。ちなみにヤスパースは「全体主義支配の現実は原爆以上に悲惨で深刻である」と、ある著書で述べている。

 しかし、これは日本人にはなかなか受け入れがたい論である。そこで、加藤は「正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」という井伏鱒二「黒い雨」の主人公の述懐を紹介する。

 両極の思想のどちらが正しいかを判定することに大きな意味はないだろう。そのことを認めたうえで加藤は、論理的な不整合、破れ目の上にこそ日本の平和思想は再構築されるべきだ、と書いている。

 幻戯書房、2600円(税別)。

 

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 幻戯書房
  • 発売日: 2017/09/21
  • メディア: 単行本

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つくり上げられた「独裁者」~濫読日記 [濫読日記]

つくり上げられた「独裁者」~濫読日記

 

「言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」(佐藤卓己著)

 

 戦時中、出版界に籍を置いたものならだれ一人知らぬものはない将校がいた。「小型ヒムラー」と恐れられ「サーベルと日本精神を振り回しながら」「蛮勇をほしいままにした」(美作太郎「言論の敗北」)という。こうした証言に「時代劇の悪代官」のイメージを持った佐藤は、戦後ジャーナリズム史を研究するうえで避けて通れない人物としてこの男、鈴木庫三の実像を明らかにしようと企てる。しかし、彼が残した手稿や日記を読み通して、その人物像を一変させる。

 戦時ファシズム体制という特殊で異常な環境のもと、その人物像が等身大でなくモンスター化して後世に伝えられるケースはいくつもある。代表的な事例はナチスドイツでのアイヒマンであろう。アウシュヴィッツ強制収容所長として数百万人のユダヤ人をガス室へ送る指揮を執ったとされる。戦後、逃亡先のアルゼンチンでイスラエル諜報機関が逮捕、エルサレムで裁判にかけられ死刑判決を受ける。傍聴した政治学者ハンナ・アーレントは、彼は悪魔的な心情の持ち主ではなく、どこにでもいる小役人にすぎないと米誌「ニューヨーカー」に寄せたリポートで明らかにした。

  ――彼(注:アイヒマン)は常に法に忠実な市民だったのだ。彼が最善をつくして遂行したヒットラーの命令は第三帝国においては〈法としての力〉を持っていたからである。(H・アーレント「イェルサレムのアイヒマン」)

 ホロコーストは凡庸な役人によって善悪の判断の外側で行われた(このくだり、どこかの国の官僚の答弁をほうふつとさせる)ことを明らかにした。

 では、ヒムラーに擬せられた鈴木庫三はいかなる人物であったのか。鈴木という中佐(この階位は奇しくもアイヒマンと同じである)を等身大で描く。これが、この著書のモチーフである。

 まず、佐藤はこう書く。

 ――戦後は強い軍部が弱い知識人をいじめる、「ペンは剣より強し」という構図が議論の前提である。はたして、この前提は正しいのだろうか。軍人と知識人は、いずれの社会的地位が高かったのであろうか。いずれにせよ、鈴木少佐にとって知識人は弱者ではなかった。

 軍部という強大な勢力を背に一人の将校が出版業界に無理難題を押し付けた。「知識人」はそれに抗するすべがなかった―。こうして「被害者」になりおおすことで、戦時中の言論活動への「アリバイ」を仕立てることは簡単である。しかし、こうした思考に異議を唱えて佐藤は膨大な文献を渉猟、事実を追っていく。

 1949年、毎日新聞で石川達三の「風にそよぐ葦」の連載が始まった。中央公論社長・嶋中雄作と評論家・清沢洌をモデルに、軍部による言論弾圧の歴史を振り返った。この中で「情報官佐々木少佐」として描かれる鈴木は「傲然と椅子の背に反りかえって」「険悪な目つきをして」いる、と恣意的な描写がなされる。そして「年のころまだ三十二三にしかなるまい」と紹介される。実際には、このやり取りがあった1941年、嶋中社長と鈴木はともに40代だったが、「親子ほどの年の違い」と形容される。年少の将校が出版社社長に向かい「君のような雑誌社はぶっ潰すぞ」と傲然と言い放つ。

 連載は大好評で、前後編通算545回の長期にわたった。その後メロドラマとして映画化され、言論弾圧は後景に退いたものの、その風景は大衆的「常識」にまでなる。しかし、この話はどこまでが事実でどこからが脚色であろうか。「神話解体の名手」といわれるメディア研究者・佐藤の緻密な分析が始まる。

 ここで、佐藤は石川のこんな視線を紹介する。

 ――勝った時にはみんなが軍国主義者になってしまう。もしも負けたらみんな反戦主義者になるだろう。それが庶民というものだ。

 反戦主義者でも、ましてや共産主義者でもない、単なる流行作家である石川達三の横顔を、佐藤は浮き彫りにする。

 ここから佐藤の筆は、鈴木の生い立ちに向かう。貧困の幼少期、苦学生として陸大への道を断たれた将校養成システムの実態。これらを見ると、出版業界と知識人へにらみを利かせる若手エリート将校、という「鈴木像」が虚像であることが浮かび上がってくる。

 戦後、知人を頼って熊本に移り住んだ鈴木は公職追放が解けぬままサンフランシスコ講和条約による日本独立を迎える。

 ――一度メディアが報じた「悪名」を訂正することは至難である。戦後、一農民となった鈴木には反論すべき手段も機会も与えられてはいなかった。

 「あとがき」で佐藤は次のように書く。ここに言いたいことの核心がある。

 ――たとえば、「日本思想界の独裁者」を設定することで、言論にたずさわった人々は全員程度の差はあれ「被害者」となりおおせた。つまり、鈴木庫三という「敵の名前」を出しさせすれば、みんな被害者仲間になれたのではなかったか。

 鈴木は1964年、東京オリンピック直前に、約10年の闘病の末亡くなった。その後の日本の行方を、鈴木は彼岸からどう見ていたのだろう。熊本日日新聞のコラムにある情景が紹介された。

 ――貝のように口を閉ざし、その動静はほとんど分からない。1960年ごろ、「自分の行動は正しかった」と病床で絶叫する姿がNHKで放映されたのが唯一の例外。「熊本に逼塞した鈴木が何を思い、どうしていたのか。戦後十数年を経て自説の正しさをテレビで叫ぶ気になったのはなぜだろう」と佐藤さん。(以下略) 

中公新書、980円(税別)。

【注】ここで取り上げた中央公論社との懇談では鈴木庫三は少佐だったが、直後に中佐に昇進している。にもかかわらず、その後の鈴木を多くの証言が「少佐」としていることに佐藤はある意図を感じているが、ここではその問題に触れていない。したがって文中に「少佐」と「中佐」が混在し分かりにくくなったが、ご容赦願いたい。

 

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家 (中公新書)

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 新書

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60年安保で置き去りにしたものは~濫読日記 [濫読日記]

60年安保で置き去りにしたものは~濫読日記

 

「評伝 島成郎」(佐藤幹夫著)

 

 60年安保闘争。あの闘いはなんだったのだろう。6月18日、日本の政治史上空前の50万人が国会前に集結した闘いは、何を勝ち取ろうとしたのか。6月15日、国会突入デモで一人の女子学生が亡くなり(機動隊に虐殺されたといわれる)、その2日後の東京主要紙には、「7社共同宣言」が掲載された。「その事の依って来たる所以を別として」議会主義を守れと、宣言は主張した。こうして議会主義、民主主義を守る闘いとして60年安保闘争は位置付けられ、今日、市民運動の多くは「平和と民主主義を守る」闘いの中に回収される。しかし、何かが抜け落ちている。置き去りにされている。

 そんな思いで60年安保を振り返るとき、多くの人の脳裏には、二人のカリスマが立ち上がる。一人は唐牛健太郎。もう一人は、唐牛を当時の全学連委員長に口説き落とした島成郎ブント書記長。しかし、二つのキャラクターはまるで好対照だ(といっても60年当時、小学生だった私にはそこまで細かい記憶はない。覚えているのは革命前夜を思わせた国会前デモの激しさだけだ)。多くの証言によれば、地方の北海道大から出てきた唐牛はすらりとした長身で屈託がなかったという(佐野眞一著「唐牛伝」は、この神話の解体をもくろんでいる)。これに対して東京大教養学部にいた島は入学と同時に共産党に入党。砂川闘争などを経て運動方針の乖離を意識し、党との決別の中でブント(共産同)を組織、全学連主流派を形成する。唐牛は運動の象徴的存在ではあったが、安保闘争の最中は獄中にあり(この辺は「唐牛伝」に詳しい)、実際に闘いを担ったのは島だったといえる。

 さて、書評に入らなければいけない。その前に断っておけば、「唐牛伝」を書いた佐野は1947年生まれであり、60年安保をリアルタイムで経験した(闘ったということも含めて)とはいいがたい。「評伝 島成郎」を書いた佐藤幹夫はさらに後の世代、1953年生まれで、70年の時でも17歳である。私も含めてだが、「少し遅れてきた世代」といういい方ができる。

 そのうえで「評伝 島成郎」を読むと、この微妙な世代観の相違が、書の中に投影されているのが分かる。まず、島の人生の二つの側面を、佐藤は見てとる。一つは学生運動家としての、もう一つは精神科医としての。そして、読んだ限りでは、佐藤は島の人生を振り返るにあたって、精神科医としての側面に相当の重心をかけていることが分かる。ちなみにいえば、「唐牛伝」で佐野は、安保後の唐牛の人生に主要な関心があった、と書いている。これは、安保闘争を指揮するにあたって唐牛に明確な思想的バックボーンが見当たらなかったこと、その活動期がわずか4年であったこと、などが影響したためだろう。それにもまして「喫水線ぎりぎり」(「唐牛伝」)で辺境の地を漂流した人生の航跡が関心を引いたのだろう。では、佐藤が「安保の島」からではなく、「安保後の島」から書き始めたのはなぜか。その答えを、これから繙いてみる。

 精神科医としての島は、人生のほとんどを沖縄での精神科治療に捧げている。その方針は明確である。閉鎖的な隔離による治療から、地域を巻き込んでの開放治療。今日では珍しくないが、70年代初めに沖縄に渡った若手精神科医による治療としては画期的だっただろう。そして、日本に施政権返還されたばかりの沖縄は、これまで日本が引きずってきた精神科治療の矛盾を凝縮させた地だった、というのが島の見立てであった。佐藤の取材によれば、島は沖縄で政治の話をすることはほとんどなかったという。

 政治と精神科治療。一見無関係な二つの領域が交差する地点、それが沖縄だった。戦後、内灘、砂川、安保と続いた米軍基地をめぐる闘争は、日米両政府に日本本土からの「基地撤収」を余儀なくさせた。その結果、米軍専用基地の74%が集中するという今日の沖縄の状況が生まれた。島も「反安保、反基地闘争」の生み出した結果については熟知していたはずだ。しかし、島はその答えを政治闘争の先にではなく、精神科医としての活動の先に求めたのであろう。

 島は安保闘争後、約1年間の「精神的漂流」ののち、東京大医学部に復学する(東京大入学後、一度中退している)。そして在籍中の68年に全共闘運動=インターン廃止闘争が起きる。この闘争を島は主導しなかったが、その後、沖縄で地域医療の改革に努めた。これは、多くの全共闘運動経験者が地域闘争に活路を求めたのと、軌を一にする。

 佐藤は、「安保」というフィルターで色付けされた島ではなく(島には自らの筆になる「ブント私史」という強力なドキュメントがある)、自らが取材によって手にした島の等身大の姿を描きたかったのだろう。

 島の葬儀にあたって、多くの人が弔辞を寄せた。印象に残るのは、武井昭夫と吉本隆明のそれである。武井は「体制の階を上っていく生き方を終生しなかった」と、吉本は「将たるの器」と述べている。

 60年安保の後、所得倍増政策によって日本は高度経済成長を遂げた。バブルがはじける直前に唐牛が亡くなった。米ソ冷戦が終わって10年が過ぎたころ、島が他界した。それにしても、60年安保闘争で我々が失ったものは樺美智子の命と、そして何だったのだろうか。

 筑摩書房、2600円(税別)。


評伝 島成郎 (単行本)

評伝 島成郎 (単行本)

  • 作者: 佐藤 幹夫
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2018/03/20
  • メディア: 単行本

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「吉本」を再体験する~濫読日記 [濫読日記]

「吉本」を再体験する~濫読日記

 

「[新版]吉本隆明1968」(鹿島茂著)

 

 吉本隆明〈論〉というものがあるが、「[新版]吉本隆明1968」はそこに分類されるものではない。吉本との出会いの体験記、とでもいうべきものである。タイトルにもそうした含意がある。著者が吉本と遭遇したのが1968であることから、時代状況と切り離せない吉本〈体験〉を振り返る、というほどの意味が、ここには込められている。

 私事をいうと、著者と同じ1949年生まれである。地方の非インテリ層出身で、ここは著者と違っている。進学校をへて「階級離脱」らしき体験を持つが、著者が進んだ東京大とは縁もゆかりもなかった。そうした違いはあるにせよ、大学に進んだ1968年に吉本の著作と出会い、頂門の一針ともいうべき激烈な文体が心に深く突き刺さった。この点は同じである。もし、人生を変えた一冊もしくは著者をあげよというアンケートがあれば、間違いなく吉本の名をあげたであろう。

 したがって「[新版]吉本隆明1968」を読むということは、吉本思想の分析を読むというより、あの時代の中で、吉本思想と遭遇した体験を再現することであった。

 書の構成は、小林多喜二「党生活者」に「技術主義」「利用主義」をみ、そこから転向論へと展開して芥川龍之介論、高村光太郎論へと遷移する。描出されるのは吉本思想の太い一本の線、「生活と思想」の問題である。近代合理主義との出会い、捨てきれぬ封建制思想との葛藤、つづめて言えば「理」と「家」の問題である。そこが、読む者の心に突き刺さったのである。

 再び私事を述べれば、吉本と出会ってしまったために〈土着と情況〉の問題に深入りし、全共闘運動にシンパシーを覚え、大学を出た後は地方メディアに職を得、しかし、それは暮らしのためであるとわが身におもいしらせ、そのために労組活動や市民運動とは一定の距離を置き、半世紀近く過ごした。そんなわが身に吉本はどう響くのか。それがこの書を読むに至った動機である。

 吉本〈再体験〉としてこの書を読んだために、言い換えれば多くは首肯しながら読んだために、あらためて内容をくくって、ここで紹介する気にはなりにくい。別の言い方をすれば、書くべきことが、半世紀を経てなお重すぎる。そこで、書の末尾の解説にある内田樹の言葉を紹介する。

 ――以後半世紀に近い歳月を閲した。(略)ずいぶんわきの甘い男だったが、知識人と生活者大衆の中ほどのどっちつかずの立ち位置を守り、何があっても「日本的情況を見くびらない」という点については一度も警戒心を失ったことはなかったという自負はある。それほどまでに「転向論」の吉本の言葉は私の胸に突き刺さったのである。

 著者(鹿島)の表現を借用すると、半世紀たってなお吉本は「すごみ」を失っていないのである。
 平凡社、1300円(税別)。


新版 吉本隆明 1968 (平凡社ライブラリー)

新版 吉本隆明 1968 (平凡社ライブラリー)

  • 作者: 鹿島 茂
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2017/11/13
  • メディア: 新書

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現代に生かすべき近代の教訓~濫読日記 [濫読日記]

現代に生かすべき近代の教訓~濫読日記

 

「日本の近代とは何であったか―問題史的考察」(三谷太一郎著)

 

 タイトルを見て日本近代の通史かと早合点し、読み始めたら違った。日本の近代について四つのクエスチョンを立て、それらをピンポイントで掘り下げていく構成。少し戸惑ったが、歴史の表面ではなく周辺を掘り下げていくという手法には、ある種の深さを感じた。その点、これまでにない体験ではあった。ただ、どこまで理解しえたかという点では自信はないが。

 四つのクエスチョンは①なぜ日本に政党政治が成立したが②なぜ日本に資本主義が成立したか③日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか④日本の近代にとって天皇制とは何であったか―である。確かに、アジアの国では必ずしも政党政治が自明のことではなかったし、植民地帝国を目指したのもアジアでは日本が唯一である。そうした意味では、これらの問題意識はラディカルといえよう。

 この四つのクエスチョンを解くカギは、近代日本がヨーロッパ近代をモデルにしたという歴史的前提にある。ではヨーロッパの近代とは何だったか。三上はここで英国のジャーナリスト、ウォルター・バジョットの「英国の国家構造」を取り上げる。カール・マルクスの「資本論」と同年に出版された、ヨーロッパの自画像とも言うべき著作である。ここで三谷は、中世の「慣習の支配」から近代の「議論による統治」へと移行する英国社会の姿を抽出。さらに、背景には貿易と植民支配があったというバジョットの指摘に注目する。これが、三谷のこの著作のベースとなる観点である。

 以下、簡単に内容を紹介すると、政党政治については合議制と権力分立がカギであり、それらは明治維新の前、すなわち江戸幕府の統治形態に既に見られた支配構造だった、との指摘が興味深い。資本主義の成立については、明治維新以降、自立的資本主義を目指した日本が日清、日露戦争を契機に世界的潮流であった国際的資本主義へと転換、昭和に入って排外的な国家資本(姿を変えた自立的資本主義)の時代に転化する、というプロセスの描き方が新鮮。なお、日本の植民地帝国への歩みも、明治開国以来の不平等条約からの脱却、自立的資本主義から国際的資本主義への転換と合わせて説明される。朝鮮総督府、台湾総督府などの人事をめぐり、軍部と文民との綱引きが結構あったという指摘も興味深い。

 日本の近代はヨーロッパ社会の模倣であった。福沢諭吉が唱えた「和魂洋才」であり、その延長線上に「富国強兵」「殖産興業」があった。ヨーロッパ文明の機能的側面だけを取り入れようとするものだった。しかし、ヨーロッパ文明には中世から継承された「神」がすべての価値の根源に存在する。ここまでは模倣しきれなかった。ではどうするか。そこで考えられたのが天皇の神格化であったと三上は指摘する。キリスト教の機能的等価物としての天皇制という位置づけである。

 三上はこのように日本の近代を総括した後、「日本の近代は一面では極めて高い目的合理性をもっていましたが、他面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性をもっていました」とする。その二つの結合が過去にもたらしたものが戦争であったが、その実例は「強兵」なき「富国」を目指す現代でも見ることができる。一つは東日本大震災による原発事故であろう。近代の苦い教訓を生かすべきシーンは少なくないと思われる。

 岩波新書、880円(税別)。

 

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

  • 作者: 三谷 太一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/03/23
  • メディア: 新書

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無残だった兵士の「死」~濫読日記 [濫読日記]

無残だった兵士の「死」~濫読日記

 

「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」(吉田裕著)

 

 大岡昇平の「野火」はフィリピンで敗走する日本軍兵士の凄惨な実態を、実体験に基づいて描いた。戦場小説としては、世界有数のレベルの作品といえるだろう。フィリピンでは、投入された日本軍60万人のうち50万人近くが命を落とした。戦場別で見ればアジア・太平洋戦争で最多だ。大半は戦闘による名誉の戦死ではなく、病死や餓死だったという。敗戦直後、参謀本部のある司令官は米軍の調査に対して、その割合は「7、8割」と答えたという=この項のデータは「餓死した英霊たち」(藤原彰著)による。

 近年、メディアなどで「日本ボメ」が盛んだ。日本の技術水準の高さや日本人の優秀性(?)が取り上げられる。根底にはかつて戦艦大和やゼロ戦を生んだ「大日本帝国」への郷愁がにじむ。さらには、アジア・太平洋戦争を振り返って都合のいい「イフ」が設定され、「あの戦争は、ひょっとすると勝てたかもしれない」などという論が横行する。根拠のない日本帝国再興論まで持ち上がる。

 そんな風潮に危惧を抱く著者が、戦争の実態をまとめて世に問うたのが「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実」である。通読すれば、日本がいかに愚かで無謀な戦争に突き進んだかが分かる。そして、暗澹たる思いにさせられるのは、日本人犠牲者310万人(政府発表)のうち1944年以降のそれが9割を占めるという事実である。絶望的な戦局の中、なぜ戦争は止められなかったか。もう一つのやりきれない事実は、推計ではあるが中国をはじめアジア各国の人的被害が2000万人に上るということだ。

 アジア・太平洋戦争を振り返り、欧州の植民地下にあるアジアの民衆を解放する戦いだった、とする主張があるが、この膨大な犠牲者数を前に、そんなことが言えるだろうか。

 書は、参戦した各国の戦力費の比較などのほか、戦場に赴いた兵士の体験談を掘り起こし、極めて具体的なエピソードを盛り込んでいる。例えば、絶望的抗戦期といえる44年以降の中国戦線では、戦病死者が7割を超えたという記録を紹介しているが、実際はもっと高率ではなかったかと指摘する。戦場で病死、餓死した兵士を名誉ある「戦死」扱いにしたという風潮があったためだ。冒頭、取り上げた藤原彰の著書では、兵士310万人のうち6割が病死もしくは餓死だったとするが、こうした数字は統計的に確定しにくい。事実、秦郁彦は推定餓死率を37%としている。それにしても、戦場の兵士の死因の3分の1以上が戦闘によるものではなかったとは、異様なことである。

 戦場での自殺も多かったようだ。戦闘中だけでなく、内務班による私的制裁に耐えかねて、というのもあった。ただ、実態はよく分かっていない。自殺後の事情を考えて戦死とする、場合によっては書類も改ざんするという措置が多くとられたためだ。そんな中、硫黄島防衛戦での日本軍兵士の証言を載せている。敵弾での戦死は3割程度で、6割は自殺、1割は他殺だったという。ガダルカナル島では、7割が死亡(多くは餓死)した後、撤退に同行できない傷病兵は薬を与えて自殺させたという。動けない兵士は残置し敵軍の捕虜とさせるという赤十字条約など、眼中になかったのだ。

 このほかにも、劣悪化した装備や被服、兵器や機械力の圧倒的な格差などの実態が明らかにされる。

  著者は1954年生まれ。米軍と空自が共同利用する入間基地のある町で育ったという。まったく戦争を知らない世代がこのような書を著したことの意味は大きい。戦争を少しでも知っていたら、戦死者への慮りによって多少の筆の鈍りがあったかもしれない。戦争を知らないからこそ書ける「戦争」もあるはずである。アジア・太平洋戦争という無謀な戦争によって、日本軍兵士の多くは無残な死を遂げた。2000万人ともいわれるアジアの民衆も、理由もなく殺されていった。そのことを胸に刻みたい。

 中公新書、820円(税別)。

 

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)

日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 (中公新書)

  • 作者: 吉田 裕
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2017/12/20
  • メディア: 新書

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事件の「凍土」は融けたのか~濫読日記 [濫読日記]

事件の「凍土」は融けたのか~濫読日記

 

「大逆事件 死と生の群像」(田中伸尚著)

 

 明治憲法下、刑法第73条で天皇や皇太子に対して危害を加えるか加えようとすれば死刑に処すと規定されていた。大逆罪である。適用された事件は4件で未遂が2件、予備・陰謀が2件とされる。このうち1910年の幸徳秋水、菅野すがらを処刑した事件は、現在ではフレームアップだったと認識されている。しかし、事件で逮捕・起訴された26人(うち12人は刑死)の名誉は、司法の上では戦後も回復されてはいない。

 この事件をめぐる現代までの人間模様を追ったのが「大逆事件 死と生の群像」である。書は戦後間もないころ、1946年のある少女の体験から始まる。彼女は井原市高屋町に住んでいた。大逆事件で処刑された森近運平の生まれ故郷である。少女が故郷の先人森近に興味を持ち、小学校の「卒論」に取り上げようとしたとき、森近はなお大逆の徒であった。天皇が神格否定をした直後、刑法73条が削除される直前のこと。著者の言葉を借りれば、大逆事件の被害者たちはなお「凍土の下」にいたのである。

 事件があったのは日露戦争から5年、朝鮮半島を併合した年。「地図の上 朝鮮国に黒々と 墨をぬりつつ秋風を聴く」と啄木がうたった年である(啄木は事件を知り「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」という一文を残して事件への並々ならぬ関心を示している)。植民地帝国へと暴走を始めた日本は、内に向かっては無政府主義、社会主義の台頭に危機感を強めた。こうした時代背景の中で「不穏分子」の撲滅を図ったのが大逆事件だった。一人の証人も採用せず、わずか3週間の審理で24人に死刑判決が出され、うち12人は判決から1週間後に死刑が執行された。後に12人は天皇の「恩命」で無期に減刑されたが、判決が修正されたわけではなかった。大逆罪は一審が終審と決められていたからだ。

 権力の暴走によって思想が弾圧されたこの事件を、著者の田中は徹底的に事件の被害者とその家族に寄り添うことで膨大な取材を重ね、時に関係者の内面の降り積もる雪のごとき日々を描き切っている。その筆致は、心境の襞にまで分け入っている点でノンフィクションノベルとでも呼べるものである。

 田中は、冒頭のエピソードで述べているように、この事件を必ずしも過去の終わった事件とは見ていない。そのことの意味を、巻末の解説で田中優子が分かりやすくまとめている。

 一つは、時の権力にとって不都合な人物群はいつ、どういういうかたちで一本の線でつながれ、事件のフレームアップに利用されかねないこと。二つ目は、国民に知らされないまま、権力の恣意によって証拠の捏造と冤罪が仕立てられかねないこと。三つ目は、実はこれがもっとも重いことなのだが、いったん「逆徒」のレッテルを張られたが最後、何十年ものあいだ故郷では疎まれ続けること―。

 安保法や共謀罪が強行的に成立してしまった今日、日本の政治風土の中で大逆事件という凍土は果たして解凍したといえるのだろうか。今日の状況を見るのに、そんな視点も必要だろう。

 岩波現代文庫、1340円(税別)。初版=2018年2月16日。


大逆事件――死と生の群像 (岩波現代文庫)

大逆事件――死と生の群像 (岩波現代文庫)

  • 作者: 田中 伸尚
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/02/17
  • メディア: 文庫

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「暴力と戦争の20世紀」の源流がここにある [濫読日記]

「暴力と戦争の20世紀」の源流がここにある

 

「第一次世界大戦」(木村靖二著)

 

 「未完のファシズム 『持たざる国』日本の運命」(片山杜秀著、新潮選書)の冒頭、小川未明の小説が引用してある。

 ――海のかなたで、大戦争があるといふが、(略)実は心の底でそれを疑ってゐるのだ。(略)「誰かがうまくたくらんだ作り話ぢゃなのか知らん。」と思ってゐるのだ。

 「大戦争」とは、第一次大戦のことである。未明も述懐したように第一次大戦は日本からはるか遠いヨーロッパの戦争であり、およそ実感のない戦争だった。しかし、片山がこの後、詳細に展開したように、日本が戦争へ、ファシズムへと突き進むうえでこの戦争は重要な意味を持った。多くの日本人にとってこの戦争が「忘れられた戦争」であったにもかかわらず、である(第一次大戦で日本は中国大陸でドイツと戦ったが、そのことも多くの日本人にはほとんど意識されていない)。

 では世界史上、あるいは日本の近代史上、第一次大戦はどうとらえられるべきなのか。そのことを、現在の学問的知見に立って解説したのが、この「第一次大戦」である。

 歴史的前提として触れなければならないのは、19世紀以降の産業革命によって人類は人力以上の、つまりは機械化された動力を手に入れ、それが社会の再編を生み出していわゆる階級社会と帝国主義の時代を迎えるに至った、という事実である。こうした流れの中でヨーロッパを二分する戦いが始まったのだが、それは動力の機械化による戦線の長大化、兵器生産のための総動員体制の整備を必然的に招いた。そのことは、国家レベルでいえば最終的にドイツと、大戦中に誕生したソ連との戦いに収斂されるに至る。

 ドイツ対ソ連の戦いは第二次大戦で第二ラウンドを迎える。二つの大戦をくくって「暴力と戦争の世紀」と形容することは可能だが、それは、ドイツ(ナチズム)とソ連という近代社会構造が産み出した二つの怪物(全体主義)の相克であったと、ひとまずいうことができよう。

 少し先走りすぎた。さて、「第一次大戦」である。書は、まず「大戦」の名称の変遷、戦争の起源論から書き始める。興味深いのは、米ソ冷戦が終結した1990年代に入って、大戦が始まった1914年から冷戦終結の1990年までを「短い20世紀」と規定しようという英歴史家ホブズボームの問題提起である。さらに、起点を1914年としつつも、後ろをバルカン紛争や9.11を含む内戦多発状況まで含めようという時代区分まで登場しているという。いずれにしても「第一次大戦」は「暴力と戦争の20世紀」の起点、という考え方が強まっていることを物語る。

 第一次大戦で新たに登場した兵器は航空機、毒ガス、鉄兜だといわれる。火薬・爆薬の主要原料である窒素についても、硫酸アンモニウムや硝石から抽出する方法に替わる空中窒素固定法の工業化に成功したドイツの技術力も、後の戦争の在り方に影響した(このあたりは山本義隆著「近代化一五〇年」でも触れており、参考になる)。

 日本にとっては「最少の努力で最大の戦功を得た」とされ、しかも関与したという歴史意識が薄い第一次大戦だが、こうしてみるとその後の日本を含めた戦争のかたち(国家総動員体制)と20世紀の在り方(暴力と戦争の時代)を考えるうえで避けて通れない出来事であったことは疑いない。

 ちくま新書、780円(税別)。


第一次世界大戦 (ちくま新書)

第一次世界大戦 (ちくま新書)

  • 作者: 木村 靖二
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2014/07/07
  • メディア: 新書

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